09 もう一度
外ではまだ、衛兵のざわめきが遠く響いている。
目の前の人物に、言葉を失っていたガエルは我に返ると、アランを振り返った。
「アラン、すぐに報告に行け!」
ガエルの声に、アランもはっとして頷くと、弾かれたように部屋を飛び出していった。
ガエルはすぐに開け放たれた窓からバルコニーに出て外の安全を確認すると、窓を固く閉ざして部屋へ戻った。それから、ノアールを見つめて立ちつくしているディアンヌに言う。
「お嬢様。公爵閣下とエドワール様がお戻りになるまで、廊下で待機します。お二人がお戻りになりましたら、お通しします」
それだけ言って、ガエルは部屋から出て行った。音を立てて扉が閉まる。
ディアンヌは返事もできなかった。ただ目の前のノアールを見つめることしかできない。
ノアールは浅い呼吸を繰り返していた。その表情から、酷く消耗しているのが見て取れた。泥と埃で汚れた頬や外套も、乱れた黒髪も、道のりの過酷さを物語っていた。ただひたすらにディアンヌの後を追ってきたのだということは明白だった。
「――どうして」
ようやくの思いで、ディアンヌは小さな声を絞り出した。
「どうしてここにいるの……?」
ノアールは答えなかった。ただじっと、ディアンヌを見つめ返していた。
「こんな風に騒ぎを起こして。一体何をやっているの?」
込み上げるのは怒りか、安堵か、悲しみか。それとも、愛おしさなのか。自分でも分からない感情がディアンヌの中でごちゃまぜになる。言いながら、一歩、また一歩とノアールに近づくにつれ、ディアンヌの目から涙があふれそうになっていた。
ディアンヌの泣き出しそうな顔を見て、ノアールは何を思ったのだろう。沈黙していたノアールは、ゆっくりとその荒れた唇を開いた。
「――言われたとおりに、城に残っているつもりでした」
掠れきった声。水も飲まずにいたのではないかと、心配するほどの。
「それが、私を守るための判断であったとも、理解していました」
ノアールは少し目を伏せた。
「……私には、何かを求める資格はありません」
「ノア……」
「それを、自分が一番よく分かっていたはずなのに――」
ノアールは苦しそうに、胸の奥から言葉を吐き出すように言った。
「ディアンヌお嬢様のいない日々に、取り残されてしまったことが、耐えられませんでした」
ノアールはゆっくりと視線を上げた。瞳が、痛々しく揺れている。
「…………」
その時不意に、ディアンヌの心に、遠い日の記憶が蘇った。
ずっと昔。まだ恋心も知らなかった幼い頃。思い返せば、子どもの頃の彼は、驚くほど向こう見ずだった。高い木に登って、川へ飛び込んで、周囲を慌てさせ、叱られていた。自分の立場を考えて危険なことはするなと制止する声には、まったく耳を貸さなかった、あの頃の姿。
「――そうだったわ。あなたって、大人になるにつれて、とても冷静な人になったけれど」
ディアンヌは小さく笑った。ノアールのすぐ前まで近づく。
「子どもの頃は、ずっとこんな風に無茶ばかりしていた」
ディアンヌはそっと手を伸ばした。ノアールがぴくりと震える。冷えた頬に触れる。傷ついて、疲れ切った顔。それでもここまで来てくれた。
「死ぬかもしれなかったのよ?」
言葉にすると、声が震えた。ディアンヌの表情から小さな笑みが消える。
ノアールは、自分の頬に触れるディアンヌの手へ、そっと手を重ねた。ディアンヌは小さく目を見開く。ノアールがそんなことをするのは、はじめてのことだ。
「――私は一度死んだ人間です」
「ノア……」
「それでも――」
月明かりの中。金色の瞳の中に、ディアンヌが映り込んでいた。
「もう一度死ぬなら、きみのそばがいい」
「……っ」
その一言が、ディアンヌの心を激しく揺さぶった。ディアンヌの瞳から、堰を切ったように涙があふれ出る。それは護衛騎士としてではなく、ディアンヌが心から恋をしていた、たったひとりの人からの、切なる願いの言葉だった。
「ジル……」
その名を呼んだ瞬間、ノアールの瞳からも一筋の涙が静かに零れ落ちた。




