10 愛しているから
静まり返った客室に、バタバタと足音が近づいてくる。
ガエルが扉を開け、部屋に入ってきた父とエドワールは、ノアールを目にした瞬間、同時に息を呑んだ。
「ノアール……」
エドワールが絞り出すような声を上げ、一歩前に出る。その瞳には、焦りの色があった。
「大丈夫か? 無事なんだな?」
エドワールの問いかけに、ノアールは静かにディアンヌのそばから離れ、頭を垂れた。その姿に安堵したように大きく息をついたのは、父だった。
「……まったく。無事だから良かったものの」
父の低い声が室内に響く。その声は怒りや呆れよりも、深い心痛に満ちていた。
一呼吸の沈黙の後、父は覚悟を決めたように、ノアールをまっすぐに見据えた。
「ここまで騒ぎになった以上、大公夫妻への説明を避けることはできん」
ノアールは静かに頷いた。大公夫妻が待つ大広間へと向かう。
◇──◇──◇
緊急体制をとっていた城内の緊張感は消えていた。侵入者は公爵家関係者であるという通達が終わっている。
大広間には、大公とトリスタン、その隣で誰よりも顔を蒼白にさせて立ち尽くす大公妃の姿があった。
リュミエール王国の王女として生まれた大公妃は、ノアール――ジルベールにとって血の繋がった叔母である。
ジルベールが進み出てまっすぐに前を向くと、大公妃は両手で口元を覆い、その場に崩れ落ちそうになった。
「ああ、そんな……」
大公妃の美しい金色の瞳から、大粒の涙があふれ出す。彼女は震える足取りでジルベールへと歩み寄り、その汚れた頬に、愛おしそうに両手を伸ばした。
「ジルベール……生きていたのね……」
「……叔母上」
ジルベールの口から、掠れた声が漏れる。大公妃はしばらくジルベールの頬を撫でていたが、やがてその手を放すと、涙に濡れたきつい眼差しを、父へ向けた。
「ヴァレンタイン公爵。あなた、ジルベールが生きていることを知っていながら、なぜ今まで黙っていたの!?」
父は大公妃に深く頭を下げた。
「申し訳ありません。ジルベール殿下の心身の安全を最優先にしておりました」
「ジルベールのことを隠したまま、トリスタンとディアンヌ嬢との話を進めるつもりだったというの? 一体、どういうつもりなの!?」
大公妃の鋭い追及に、父は頭を上げて冷静な声色で答えた。
「恐れ入りますが、トリスタン殿下とのお話は、お断りさせていただくつもりでおりました」
「何ですって?」
大公妃が驚きの声をあげる。ディアンヌも小さく目を見開いた。父が縁談を断る覚悟を固めていたなんて、初耳だった。
「王国を正しき姿へ戻すために、力を尽くします。戦場には、エドワールと共に私が参りましょう。しかし、ディアンヌの心は守ってやりたいのです。我が娘は四年前に、深く傷つきました。そしてその傷を癒せるのはたった一人なのだと、思い知りました。迷いがあったゆえに、判断が遅れました。どうかお許しください」
父はずっと自分を思い、葛藤し続けてくれていた。ディアンヌの目の奥が熱くなった。
もう一度、大公妃に向かって頭を下げた父を見て、ジルベールが静かに言った。
「叔母上、どうか公爵を責めないでください」
「ジルベール……?」
「私が、自ら望んだのです。ほとんど死んでいた私を、救ってくれたのは公爵家です」
その言葉に、大公妃は震える手で胸元を押さえ、表情を悲痛なものへと歪めた。
「……そうね、責める資格はないわね。あなたが死んだという情報を、私たちは信じてしまった。探して、救ってあげることができなかった。本当にごめんなさい、ジルベール」
「いえ――」
言いながら、ジルベールがふらりと姿勢を崩した。はっとして大公妃が彼を支える。公爵領にいるときから食べず、眠らず、さらに単独で馬を飛ばし、警備を強行突破してきた体だ。立っているのが不思議なくらいなのだ。ディアンヌは今すぐ駆け寄りたい衝動を、必死で堪えていた。
大公が後ろから大公妃にそっと近づくと、穏やかに声を掛けた。
「ひとまず、休んでいただこう。ジルベール殿下の話を聞くのは、それからで。その間は、公爵と話をしよう」
◇──◇──◇
ジルベールは医師による診察を受けた後、その夜はゆっくりと休むことになった。
父とエドワール、そして大公夫妻とトリスタンは話を続けるようだ。ジルベールをどうやって保護することになったか、これまで公爵領でどのように暮らしていたか、その説明だろう。
ディアンヌは、ジルベールが眠るベッドの傍らにいた。長椅子に腰掛け、ジルベールの眠る姿をじっと見ているだけで、涙が出そうになった。
ジルベールの長いまつげがそっと揺れた。ゆっくりと目が開かれる。
「……大丈夫?」
大きな羽根布団に頭を預け、ぼんやりと天井を見るジルベールに声を掛けると、彼はそっと視線をこちらに向けた。
「今日はこのまま休んでいて。話は、明日にしましょうって」
ジルベールは小さく頷く。
「――話せるの? 本当は、話すのがつらいんでしょう?」
そう聞けば、ジルベールはディアンヌの瞳をまっすぐに見つめて答えた。
「大丈夫、です」
戻ってしまった口調に、ディアンヌは少し笑う。
「……あなたをもう、ノアとしては扱えないわ。だからもう、あなたはそんな風に畏まった話し方をする必要はないのよ」
少し考えるように沈黙して、それからジルベールは、返事の代わりに一言だけ言った。
「――ディアンヌ」
ディアンヌは目を見開き、それから泣き笑いのような表情になった。
その一声が、ディアンヌの背中を押した。ずっと聞きたかったことを口にする。
「ねえ。聞きたいことがあるの。明日、みんなの前では聞けないから、今、聞いてもいい……?」
「はい」
丁寧な口調は変わらない。でもそんなことはもう、どうでもいいと思った。ジルベールも、ノアールも、どちらも彼なのだ。
再会した時からずっと聞きたくて、でも怖くて聞くことができなかった。ディアンヌは自分を奮い立たせるように、きゅっと膝の上の手を握る。
「あなたは、リリス・クロウリーを愛しているの?」
かつてジルベールは彼女を選び、ディアンヌは彼に捨てられた――はずだった。
ジルベールは横たわったまま、ただまっすぐにディアンヌを見つめている。
「いいえ」
「……前は、愛していたの? 私との婚約を破棄すると言ったとき」
心臓が痛いくらい鼓動していた。ディアンヌは涙を堪えようと、唇を小さく噛んだ。
ジルベールの眼差しは揺らがなかった。
「いいえ」
堪えきれずに、ぼろぼろと大粒の涙がディアンヌの頬を伝い落ちる。
「――どうして? どうしてあんな嘘をついたの?」
ジルベールは目を閉じる。長い沈黙が流れる。ディアンヌはじっと彼の言葉を待った。
やがてゆっくりと、ジルベールはまぶたを開けた。
「……きみを、諦めるため」
ジルベールは静かに言葉を続けた。彼の心を縛っていたものから、解放されるように。
「いっそ、憎んでもらった方がいい――あの時は、それしか方法がないと思っていたから」
ディアンヌは両手で顔を覆った。あとからあとから涙が溢れてくる。
ジルベールが背負っていたものと失ったもの。彼はずっと、一人で抱えて耐えてきたのだ。あの頃の態度の急変に、違和感はあったはずなのに。それでも離れないと、どうしてあの時そう言えなかったのだろう。
「……ジル、ごめんね。長い間、一人にしていてごめんね」
最後の方は嗚咽に変わってしまった。
ジルベールが起き上がる気配がした。酷く消耗していて、さっきまで気を失うように眠っていたはずなのに。
「ディアンヌ」
彼はそっとディアンヌの手を取って、顔から下ろした。涙でぼやけた視界に、ジルベールの心配そうな表情が映る。
「きみが謝ることは、何もないから」
「ジル……」
「きみを遠ざけたのは、俺だから。未練など残さず、幸せになって欲しかった」
ディアンヌは堪らなくなって、ジルベールに抱きついた。
婚約者だった頃、こうやって抱き合ったこともあった。あの時はただただ、幸せで胸がいっぱいだったけれど。今は苦しい。愛おしくて。胸を締めつけるような愛があるのだと、ディアンヌは初めて知った。
「愛しているの、ジル。あなただけを、ずっと。忘れることなんて、できなかった」
「……ディアンヌ」
ジルベールがゆっくりとディアンヌを抱きしめる。そして彼は、心の奥底に沈めていた思いを、静かな声で打ち明けた。
「――愛してる。きみだけが、俺の唯一だ」
ディアンヌは震えながら、かつてよりも成長し、けれど傷を負った彼の胸に顔をうずめる。
二人の心を隔てていた距離が埋まり、離れていた魂が一つになった気がした。




