08 あなたのいない場所
規則正しく揺れる馬車の中で、ディアンヌは窓の外をじっと見つめていた。
秋の色を帯び始めた美しい景色が流れていく。だが今のディアンヌには、世界のすべてが、まるで色褪せてしまった絵画のように遠く感じられた。
「ディアンヌ、顔色が優れないな。少し横になったらどうだ」
エドワールが、気遣うように声をかけてくる。父は向かいの席に、そしてエドワールはディアンヌの隣に腰を下ろしている。
「……いいえ、大丈夫よ。少し、考え事をしていただけ」
ディアンヌは努めて穏やかな笑みを見せて、窓の外へと視線を戻した。
胸の奥に澱のように沈んでいるのは、ノアールと最後に別れた時のことだ。
ディアンヌが突きつけた拒絶の言葉。ノアールはディアンヌの手を取った。おそらくは無意識だろう。けれどディアンヌは、その手を無情にも振り払って去ってしまった。
ディアンヌだってどうしたらいいのか分からない。
言い訳をしたくないと言ったノアールは、今でも自分を責めている。
自分を傷つけたことを償ってほしいと言ったのはディアンヌ自身だ。なのに彼に何を期待しているのだろう。
償ってほしいとは、もう思えなくなっている自分に気がつく。檻の前で再会した時の気持ちだって、もはや曖昧だ。あんなにもボロボロの彼を見て、毅然と自分を保つために口にした言葉だったと、今になってそう思う。
ディアンヌは父を見た。
「お父様、何か分かったことはないのですか? ……四年前のこと」
唐突な問いではあったが、父はディアンヌの心情を察するかのように静かにこちらを見つめ返すと、小さく息をついてから答えてくれた。
「クーデターが起こる前から、国王陛下が体調を崩されていたことは知っているな? 王妃陛下が必死に看病されていたことも」
「ええ。専属医たちもはっきりとした原因を特定できなかったと」
「その専属医のうちの一人が、クーデターの直前に姿を消していた。最近になって、国外で生きていることが分かった。これまで地の底に潜ったように身を隠していたが、油断したのだろうな」
ディアンヌは膝の上の手を握りしめた。
「生き残った当時の侍従たちの証言によれば、王妃陛下はその医師を信用していたし、新しい治療薬の提案も受け入れていたと。その薬は、当時クロウリーが他国から流通させているものだった」
「それは――」
ディアンヌは叫び出したい気持ちになった。頭の中で嫌な想像が駆け巡る。薬を脅しに使った? いや、そもそも原因不明の病というのがおかしいのでは?
父の代わりに、エドワールがディアンヌの思考を制するように言った。
「ディアンヌ、分かっていることはそこまでだ。その医師は重要な証人になり得るが、まだ身柄は確保できていない。そのために今も動いている。ノアールなら真相を知っているだろうが……」
そこまで言ってエドワールは、彼のことを思いやるように痛ましげな表情をした。
「本人が話す気持ちになるまで待つしかない。心まで暴こうとするのは酷だろう」
その言葉に、ディアンヌはぐっと息を詰めた。エドワールとは対照的に、ディアンヌはノアールを追い詰めてしまった。
「……私」
「どうした?」
エドワールが心配そうに覗き込んでくる。
「……ノアを責めてしまったわ。何も話してくれないことが苦しくて。私――」
涙がぽろぽろと零れ落ちた。エドワールがゆっくりと手を差し出して、ディアンヌの頭を撫でた。兄の優しさに、心がほどける。
「私、彼のことをまだ――」
言葉にはならなかった。大公領へ向かう今、言葉にしてはいけないという気持ちもあった。
エドワールはディアンヌの頭を撫でていた手をそのまま肩へと回し、自身の胸元へ引き寄せた。ディアンヌは兄の胸にすがりつく。父は何も言わなかった。
ディアンヌの嗚咽を飲み込んで、馬車は街道を進み続けた。
◇──◇──◇
三日をかけて大公領へ到着し、一行はアルベール大公家の居城に入った。白亜の城壁は青空にまぶしく輝き、その美しさは王都の宮殿にも引けを取らなかった。
歓迎の宴は、驚くほど盛大に催された。きらびやかなシャンデリアの光の下で、高価なワインと贅を尽くした料理が次々と運ばれていく。その席で、ディアンヌは大公家の嫡男トリスタンに挨拶をした。
「トリスタン殿下に、ご挨拶申し上げます」
膝を少し折り、丁寧に礼を捧げてから、ディアンヌは姿勢を正して微笑みを作った。
「ディアンヌ様、お久しぶりです。僕のことを、覚えてくださっていますか?」
ジルベールの従弟であるトリスタンは、ジルベールと同じ黒い髪と、それから大公と同じアメジスト色の目をしていた。
ジルベールの婚約者であった頃、彼とも交流があった。公爵領へ戻ってからは、ディアンヌもあまり外には出なかったので、再会はおおよそ四年ぶりとなる。ディアンヌの胸ほどの身長しかなかったトリスタンだが、今ではディアンヌの目線が、彼の鼻の高さほどになっている。
「もちろん、覚えております。とても背が高くなられたのですね」
まだ十五歳のトリスタンだが、王家の血を引く生まれながらの気品があり、その隙のない立ち振る舞いには、将来を期待されるだけの資質が十分に伺えた。
もともと王位継承権があったとはいえ、ジルベールの死から一転、国を正すための旗印として担ぎ出される重圧を、トリスタンはこの年齢で受け止めている。ディアンヌは心の中で気を引き締めた。ヴァレンタイン公爵家の娘として、己が何をすべきなのかをディアンヌは理解しなくてはいけない。
大公夫妻と父が穏やかに会話を進めている間も、ディアンヌは自分自身の役割についてずっと考えていた。だからその間は、ふさわしい振る舞いができていたと思う。
◇──◇──◇
大公領へ到着して二日が過ぎた。
婚約について具体的な話し合いはまだ始まっていないものの、大公家からは丁重なもてなしが続いている。表向きは公爵家の令嬢らしく過ごしていたが、ディアンヌは心も体も酷く疲れ切っていた。
その日の夜、用意された客室へと戻ったディアンヌは、侍女たちをすべて下がらせると、吸い寄せられるように格子窓のそばへと歩み寄った。
窓を開け放つと、ひんやりとした夜気が部屋の中に流れ込んでくる。見上げれば、雲一つない夜空に、美しい満月が浮かんでいた。
公爵領からも、この月は見えているのだろうか。
「……ちゃんと、食べているの?」
ぽつりと、誰もいない部屋に呟きが零れた。
その時、部屋の扉が慌ただしく叩かれる。
「お嬢様、失礼いたします!」
ガエルが血相を変えて飛び込んできた。
「ヴァレンタイン公爵領より急使が到着いたしました。公爵閣下のもとへ、お急ぎください」
ディアンヌは息を呑むと同時に、足早でガエルに続く。
父がいる客間に向かうと、そこには公爵家の騎士が膝をついていた。
顔を上げたその人物を見て、ディアンヌは息が止まりそうになる。公爵領に置いてきたはずのアランだった。
「アラン!」
アランの顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
「申し上げます。ノアールの行方が、一昨日未明より分からなくなりました。衛兵の制止を振り切り、馬に乗り城を出ました」
「な――」
声が出なかった。耳を疑った。何を言われたのか、一瞬理解できない。代わりに、エドワールが冷静にアランに言った。
「お前はディアンヌに、ノアールを頼まれていたはずだな?」
「申し訳ありません。罰は受けます」
頭を下げたアランに、エドワールは表情を変えずに続けた。
「そのことは今はいい。我々が出発した後の報告をしろ」
「報告いたします。皆様がご出発の後、ノアールは私と共に城内警備と訓練をしておりました。食事は進まず、ほとんど口をきかない状態でしたが、夜は寝台で横になったのを確認しています。眠れていないのは明白でしたが、翌日も日中は城内で私と一緒におりました」
ディアンヌは思わず息を呑んだ。収穫祭の日に、アランから同じように報告を受けた。ディアンヌがいないと、不安定になると。
「二日目の深夜、隣室から物音がしたのですぐに部屋から出ましたが、ノアールが衛兵たちを鞘で気絶させ走り去った後でした。騎士棟には衛兵を多く配置しておりましたが、申し訳ありません」
「状況は分かった。ノアールの行方はまだ掴めていないのか」
アランとエドワールの声を聞きながら、ディアンヌは目の前が揺れるような感覚に、立っているのがやっとだった。
「はい。すぐに後を追いましたが、途中で見失いました。最後の目撃場所、そしてノアールの様子から予測して、こちらに向かうと考えましたが、ここまで見つかっていません。別部隊に捜索を続けさせています」
アランの報告に、沈黙を保っていた父が立ち上がった。
「父上」
「大公夫妻と話す。兵を借り、捜索隊を増やす。エドワール、来い」
「はい」
ディアンヌ、そしてガエルとアランを残して、父とエドワールは部屋を出た。
ディアンヌは力なくソファに腰を下ろした。手が震える。ノアールに何かあったらどうしようと、それだけが頭の中でこだましている。
「お嬢様、申し訳ありません……」
ずっと膝をついたままのアランに、ディアンヌは辛うじて視線だけを向けた。
「……あなたのせいじゃないわ。ガエル、アランを立たせて」
「はい。ほら、もう立て。アラン」
「私はもう一度、ノアールを探しに行きます。ガエル、お嬢様を――」
その時、城内で飼われている番犬たちが激しく吠え立てる声が響き渡った。
アランとガエルは顔を上げ、ディアンヌを守る体制をとった。
その直後、バルコニーのガラス窓が音を立てて内側へと押し開けられた。
夜の闇の中から、風を切るような勢いで滑り込んできたのは、黒い外套をまとった長身の人影だった。
「お嬢様!」
アランが瞬時にディアンヌを立ち上がらせて背に庇い、ガエルが剣を抜く。
「止まれ!」
月を背にして、侵入者は深く被っていたフードを下ろした。
夜の闇に溶け込むような黒い髪、そして月光のような金色の瞳。
ディアンヌは信じられないものを見るように、その名を呟いていた。
「……ノア」




