07 信じてほしいのに
収穫祭の熱気が去り、ヴァレンタイン公爵領に再び静かな日常が戻ってから、もう何日も過ぎていた。
あの日ディアンヌの心を揺さぶったノアールの姿が、今でも頭から離れない。ディアンヌを強く引き寄せた、ノアールの力強さ。至近距離で揺れていた瞳。
あれは、護衛騎士としての忠義だけではないと、ディアンヌは感じている。感じてはいるが、それが何なのかを確かめる勇気がなかった。もし自分の期待が間違いだったら。もし彼が本当は、何も思っていなかったら。そう考えるだけで胸が苦しくなる。
だから結局、答えのない問いを抱えたまま、日々だけが過ぎていった。
その心の揺れを強制的に断ち切るように、一通の書簡がヴァレンタイン城へ届けられた。
「ディアンヌ、お前に話がある。後で私の部屋に来るように」
朝食の直後、父の執務室へと呼び出されたディアンヌは、いつもとは違う空気に眉をひそめた。
執務机の向こうからこちらを見る父の顔も、隣に立つエドワールの瞳も、明らかに様子が違う。何か大切な、そしてディアンヌにとっては決して歓迎できるものではないことが用意されている。直観的にそう悟った。
父の執務机には、一通の封書があった。封蝋に押された紋章には、見覚えがあった。
「アルベール大公家からだ。お前とトリスタン殿下の婚約を打診された」
「…………」
「以前から話はあったが、トリスタン殿下はまだ若い。正式な打診はこれが初めてだ」
トリスタン・ド・アルベールは、ジルベールの従弟だ。王家の血を引く大公家の嫡男。彼はまだ十五歳だ。ディアンヌとの年の差は五歳なので、政略結婚としては特別驚くような年齢差ではないのかもしれない。
歯車が、ディアンヌの知らないところでゆっくりと回り始めている。
現在、王都を支配しているのは、国王夫妻を殺害して王位を簒奪したクロウリー伯爵の一派だ。ヴァレンタイン公爵家をはじめとする旧国王派貴族は、当然それを認めていない。
国王夫妻と王子ジルベールが死亡したとなれば、国王の妹を母にもつトリスタンが担ぎ上げられるのは当然だ。
政治的には申し分なく、むしろ理想的ですらある。公爵家の令嬢としての責務も、頭では理解はできる。
だからディアンヌは必死で堪えていた。本当は、嫌だと叫び出したい気持ちだったのに。
「近いうちに大公領へ向かう。まずは会いたいというのが大公家の意向だ。すぐに婚約するという話ではない」
「……分かりました」
「ノアールは同行させない」
父の言葉に、ディアンヌは思わず表情を硬くした。
「……分かって、います」
理由を説明されずとも、ディアンヌだって分かっている。彼を連れて行けば、その素性は隠し通せない。
「ですが……」
それでも何かを言おうとして、ディアンヌは口ごもる。その様子に、父は小さく息をついた。
「生きていると知られた場合、本人の意思など関係なく、政治の中心へ引きずり出される」
ディアンヌは拳をきゅっと握りしめ、黙って俯いた。エドワールが優しい声で言った。
「ノアールを守るためだ」
その一言に、ディアンヌは小さく頷くことしかできなかった。
◇──◇──◇
大公領への出発は、一週間後となった。エドワールを中心に、出発のための準備は進められている。ディアンヌの侍従たちも、ドレスや宝飾品をはじめとする荷物の手配を行っている。
にもかかわらず、ディアンヌはノアールだけには、伝えることができずにいた。護衛騎士にも関わらず、連れてはいけないこと。そして、自分はトリスタンと婚約するかもしれないことを。
言おう言おうと思いながら日々を過ごして、ついに出発を翌日に控えた午後。
ディアンヌにアランが報告した。今日はノアールは非番だった。
「お嬢様、最近のノアールですが」
その声音に、ディアンヌは顔を上げた。アランの表情はいつものような穏やかなものではなかった。隠しきれない心配が混じっている。
「状態が良くありません」
「……具合が悪いの?」
「医師の診断では、明確な病状があるわけではありません。ですが――」
アランはため息をついた。
「食事量が減っています。おそらく、夜もほとんど眠っていません」
「どうして……」
アランは断定を避けるように、言葉を選んでいた。
「時期的には、お嬢様が大公領へ向かうことを知ってからですが……」
「……そう」
準備は進んでいるのに、彼にだけは話していないから。でもきっとノアールは察しているのだろう。ディアンヌが大公領に向かう理由が何なのかを。
ディアンヌはそれでようやく勇気を出した。
「ノアとは私が話すわ」
◇──◇──◇
ディアンヌは庭園へ向かった。目指す先は決まっている。
大きな樫の木の下。非番のノアールが過ごす場所。彼はブランのそばで、座って静かに遠くを見ていた。その姿はどこか孤独だった。見ているだけで胸が痛くなるほどに。
「ノア」
声を掛けると、金色の瞳がこちらを向いた。
「……ディアンヌお嬢様」
いつも通りの声。何も変わらない表情。
「座ったままでいいわ。少し話がしたいの」
「はい」
ディアンヌも隣へ腰を下ろした。しばらく沈黙が続く。風だけが木々を揺らしていた。ブランが嬉しそうにこちらを見ていたが、ディアンヌの顔に笑みは浮かばなかった。
「具合が悪いの?」
「……いいえ」
「嘘。食事も減っているし、眠れていないんでしょう?」
「…………」
「私が大公領に向かうことは知っているのよね」
「……はい」
「どうして具合が悪くなったの?」
「…………」
「私には言えないの?」
「…………」
ノアールの瞳が、苦しそうに揺れているのが分かった。問い詰めるようなことになって、ディアンヌの胸が痛む。
苦しそうな彼を見たくなかった。だから話してほしいのに、どうして何も言ってくれないのだろう。
「ノア、話して」
それでも更に沈黙した後、ノアールは視線を落としてようやく言った。
「……私は、護衛の一人にすぎません。ディアンヌお嬢様の未来に口を挟む権利はありません」
ディアンヌの胸に痛みが走る。
ノアールが言っていることは正しい。それでも、ディアンヌはそれが受け入れられなかった。
ディアンヌは自分でも驚くくらいに、感情的になっていた。
「私が婚約することになっても?」
「…………」
「そのまま、大公領で暮らすことになっても?」
「…………」
「何も思わないの?」
ノアールは視線を上げた。眼差しがぶつかり合う。だが彼は言葉を発しなかった。それが余計に苦しかった。
「ねえ」
ディアンヌの声が震える。
「どうして何も話してくれないの? 苦しいなら苦しいって言って。なぜそうやって全部一人で抱え込んで、私を他人みたいに扱うの」
「…………」
「そんなに、私は信じられない?」
その言葉に、ノアールは小さく目を見開いた。表情が、違うと告げている。
それなのに、彼はその感情を必死に押し殺そうとした。
「……過去を変えることはできません」
いつか父の前でも、ノアールはそういうことを言った。
「言い訳をしたくありません」
彼は痛みに一人で耐えようとしているのだ。それは彼の矜持でもあるのだろう。けれどそれを、ディアンヌは拒絶と受け止めることしかできなかった。
「……もういいわ」
ディアンヌは立ち上がる。これ以上彼と話しても、自分はみじめになるだけ。そしてノアールが苦しむだけだ。
「明日、大公領へ出発するわ。あなたは留守番よ」
ノアールが顔を上げてディアンヌを見ていた。
胸が痛い。息が苦しい。でも、涙を見せるのは嫌だった。足元で、ブランが不安そうに短い鳴き声を上げて顔を動かす。
「婚約したら、もうあなたを護衛騎士としてはそばに置けない。あなたの存在を隠すためでもあるけれど、それより――」
ディアンヌはノアールを見て、自嘲的な笑みをつくった。
「あなたがそばにいると、私はきっと、馬鹿みたいにあなたを忘れられないから」
堪えていた涙が零れ落ちた。同時にディアンヌは踵を返した。
――が、手首を掴まれて体が引き戻される。立ち上がったノアールが、ディアンヌを引き留めていた。
振り返って目が合うが、ノアールからは言葉は出ない。
言いたくて言えなくて、苦しいのだと伝わる。でもそれを斟酌してあげるほど、今のディアンヌには余裕がなかった。
「離して」
涙を拭って隠すこともできなかった。ディアンヌはゆっくりと手を振り払う。
「何も言ってくれないのに、そんな顔だけしないで」
拒絶され、ノアールの手が力なく空中に取り残される。ディアンヌはそのままその場を走り去った。
去りゆくディアンヌの視界の端に見えたのは、樫の木の下に立ち尽くしたまま動けないノアールと、彼に心配そうに鼻先を寄せるブランの姿だけだった。




