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06 心ほどける

 季節が変わり、ヴァレンタイン公爵領が活気づく初秋の収穫祭が幕を開けていた。

 沿道には色とりどりの旗がはためき、人々の明るい声が響いている。果実の甘い香りが街を包む。


 ディアンヌはエドワールと共に、その賑わいの中を歩いていた。領地の様子を直接確認するためであったし、何より二人の来訪を領民たちは心から喜んでくれた。

 だが、この収穫祭は王都をはじめとする他の土地からも様々な人間が入り混じり、治安の低下しやすい時期でもある。そのため、ノアールは城での居残りを命じられていた。アランと共に留守を任された彼を置いて、ディアンヌはガエルを連れ、エドワールを守る護衛たちに囲まれて街を歩いていた。


 いつもなら、活気ある露店を見るだけで胸が躍るはずだった。けれど、今のディアンヌの視線は、無意識に自分の斜め後ろ――いつもノアールが静かに控えている位置へと向いてしまう。この穏やかな陽光の下を一緒に歩けたら、どれほど良かっただろう。ディアンヌは小さく息を吐いた。


 賑わう市場の露店を通りかかったとき、ディアンヌの足がふと止まった。

 ガラス瓶の中に並んでいたのは、領内特産の果実で風味をつけた、美しい琥珀糖だった。表面に細かな砂糖の結晶をまとったそれは、秋の澄んだ光を浴びて、まるで鉱山から掘り出された宝石のように、きらきらと輝いている。


「……きれい」


 その中でも、ひときわ澄んだ金色の琥珀糖に、ディアンヌの視線は吸い寄せられた。陽光のようなその色は、不意にノアールの瞳を思わせる。


 ディアンヌは城で働く使用人たちのために、琥珀糖を城へ届けるよう商人に注文した。それとは別に、ノアールのために選んだ金色の琥珀糖だけは、ガラス瓶のまま自らの手で大切そうに抱えた。


「ノアールに渡すのか?」


 隣を歩くエドワールが、ディアンヌの手元を見て声をかけてくる。ディアンヌは自嘲気味に、わずかに微笑んだ。


「……おかしいわよね。償ってほしい、なんて言っておいて」


 そんな自分自身が、酷く矛盾していて、歪に思えてならなかった。

 だがエドワールはディアンヌを見つめ、首を小さく横に振った。


「おかしくはない。お前たちは、それほど想い合っていた」


 エドワールは人混みの向こうへ目を向けたまま、何かを思い出すように静かに言った。


「俺は今でも信じられない。ノアールが、あの女を愛したとは思えない」

「……お兄様」


 エドワールはもう一度、ディアンヌに目を向けた。


「だがディアンヌ、あの時の真相は今でも分かっていないんだ。だから焦るな。これ以上、お前が傷つく姿は見たくない」


 エドワールの釘を刺すような言葉に、ディアンヌは胸を突かれ、ただ小さく頷くことしかできなかった。手にしたガラス瓶が、ほんの少しだけ重く感じられた。



 ◇──◇──◇



 早朝から出掛けていたディアンヌは、夜になってようやく城へ戻った。真っ先にノアールの姿を探す。

 廊下を急いでいると、前方から歩いてきたアランと出くわす。アランはディアンヌの姿を見るなり、ほっとしたような表情を浮かべて言った。


「お嬢様、おかえりなさいませ。ちょうど今、ノアールを部屋に戻らせたところです」

「部屋に? どうしたの?」

「今日は様子がおかしくて。食事もほとんど取らず、訓練場で必要以上に体を追い込んでいました」


 アランはため息をつく。


「さすがにあのままでは体に障りますから、今日は早めに切り上げて、部屋で休むように言いました」

「……そう、分かったわ」


 表情をわずかに曇らせたディアンヌに、アランは困ったように、小さな笑みを見せた。


「お嬢様がいないと、不安定になりますね」

「…………」


 ディアンヌは手にしたガラス瓶を握り締め、ノアールへ与えられた部屋へ足を向けた。


 ノックをして部屋に入ると、そこにはいつもの黒い騎士服を脱ぎ、白いシャツ姿のノアールが静かに佇んでいた。金色の瞳がディアンヌを捉える。


「ディアンヌお嬢様」

「ノア。これ、収穫祭のお土産よ。きれいだったから、あなたにと思って」


 ディアンヌがガラス瓶を差し出すと、ノアールは言葉を失ったように、じっと黙って見つめた後、両手でそれを受け取った。


「……ありがとうございます」

「口に合うかしら。食べてみて? アランに聞いたわよ。またちゃんと、食べていないんでしょう?」

「…………」

「自分で食べられないのなら、また私があなたの口に運んであげましょうか?」


 冗談めかして笑う。前は命令だと言って、無理に食べさせた。始めにそう言ったら、ノアールはその後はきちんと自分で食べたのだ。

 だからそう言えばきっと、ノアールは同じようにするはずだと思っていた。


 しかし、ノアールはディアンヌの目をまっすぐに見つめ返し、はっきりと返事をした。


「はい」

「……え?」


 予想外の肯定に、ディアンヌは慌てた。


「食べるの? 私から」

「はい」

「……かして」


 ディアンヌは引くに引けなくなった手で、ノアールから再度受け取ったガラス瓶をテーブルに置くと、ふたを開ける。それからきらきらと輝く金色の結晶をひとつ指先で摘まみ上げると、ノアールに一歩近づく。


「……口を開けて」


 ディアンヌが手を差し出すと同時に、背の高いノアールは静かに身をかがめ、顔を近づける。それから唇を開き、琥珀糖をそっと口に含んだ。ディアンヌの指先に、彼の柔らかい唇の感触と、熱い吐息が触れる。


 しゃり、と薄い砂糖の膜が砕ける微かな音が、静かな部屋に響いた。いつもなら、そこで深く頭を垂れて一歩ひくはずの彼が――ひかない。むしろ、吸い込まれそうな金色の瞳が、じっとディアンヌを見つめている。


「ありがとうございます。ディアンヌお嬢様」


 至近距離でノアールの声が、ディアンヌの鼓膜を震わせる。


「……っ」


 一気に動揺が全身を駆け巡り、ディアンヌは弾かれたように後ずさった。しかし、慌てすぎたせいで足が絡み、体が大きく後ろへ傾く。


「あっ――」


 視界がぐらりと揺れる。しかし、衝撃は来なかった。次の瞬間には、ディアンヌの腰にノアールの腕が回り、ぐい、と強い力で引き寄せられる。

 気づけば、ディアンヌの体はノアールの胸に抱きとめられていた。


 白いシャツ越しに伝わる体温。見上げれば、息が触れ合うほどの距離に、揺れる金色の瞳。

 一瞬、時間が止まったように錯覚した。が、はっとしたノアールが、弾かれたように手を放した。


「――申し訳ありません」

「……い、いいの。倒れずに済んだわ。ありがとう」


 ディアンヌは顔を隠すようにして視線を逸らし、それだけを辛うじて告げると、逃げるように彼の部屋を後にした。


 ノアールの腕に抱き止められた感触だけが、いつまでも消えなかった。ディアンヌの頬は、自分でも驚くほどに熱を帯びていた。

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