05 変わらないもの
ノアールがヴァレンタイン公爵家へやってきてから、ひと月ほどが過ぎていた。
摩耗しきっていた彼の肉体は、医師の丁寧な手当てと公爵家で提供される栄養のある食事、そして規則正しい生活によって、少しずつではあるが確実に回復している。再会した頃に比べれば顔色も随分と良くなっていた。
夏の陽光が降り注ぐ午後。
この日はノアールが非番の日であり、ディアンヌはガエルとアランを連れて、エドワールの執務室を訪れていた。確認内容は無論、ノアールの様子についてだ。
「最近はどうだ?」
「食事は以前より取るようになりました」
エドワールの問いにアランが答え、その後にガエルも続ける。
「睡眠は、前よりはマシ、くらいです。夜中に見に行っていますが、時々窓の外をじっと見ていることがあります。横になれと声をかければ、素直にそうしますが」
背が高く体格も良いガエルは、見た目よりも優しく面倒見が良い。あの奴隷市場で、自ら傷を負ったノアールを見ているせいか、いつもノアールの様子を心配している。
「今日は休んでいるんだな?」
「はい。放っておけば、休まずに訓練場に行こうとするので、禁止しました」
アランの報告に、エドワールは小さく息をついた。
「……昔から、そうだ。休もうとしない。真面目な男なんだ」
昔を思い出すようなエドワールの呟きに、ディアンヌは少し視線を落とした。自分たちが知る彼の姿。今はそれに加えて、ノアールは自分を消費するように生きている。
「また報告してくれ」
仕事に戻ったエドワールと別れて、ディアンヌは庭園へと向かった。
◇──◇──◇
「ノアはどこ?」
「あちらに」
アランが庭園の奥へ目を向けた。木陰の下に人影が見える。
ディアンヌもそちらを見て、思わず足を止めた。
大きな樫の木が、涼やかな木陰を作っている場所だった。
芝生の上で、いつもの騎士服とは違う、白いシャツ姿のノアールが座っていた。
彼は普段の張り詰めた空気を少しだけ緩め、一匹の大きな白い犬の頭を優しく撫でている。犬は遠慮というものを知らない様子で、ノアールへその豊かな巨体を預けるようにして寄りかかっていた。
ヴァレンタイン公爵家の愛犬、ブランだ。雪山で狼から羊を守るという、誇り高き山岳犬の血を引いている。
昔――まだすべてが平和で、ディアンヌとジルベールが婚約者として微笑ましい日々を送っていた頃、ブランは転げ回るように走る無邪気な子犬だった。ジルベールがヴァレンタイン城を訪れるたび、彼の足元にまとわりついていたものだ。
現在のブランは、まるで小さな熊のように重厚感を持つ体へと成長していた。驚くべきことに、再会したその日から異様なほどノアールへと懐いていた。ノアールもそれを拒んでいない。
ディアンヌのすぐ隣で、アランが小さく笑った。
「随分と懐いていますね、ノアールに」
「ブランと一緒なら、ゆっくり休めるようですね」
反対側に立つガエルも、肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
ノアールの長い指が、純白の毛並みをゆっくりと撫でていく。自然で優しいその仕草に、ブランは幸せそうに目を閉じていた。ディアンヌの胸の奥から、ちくりとした感情が言葉となって零れ落ちる。
「……いいわね、ブランは。何も考えずに、ただあの人を好きでいられる」
ガエルとアランの視線が一斉に集まる。ディアンヌははっとした。
「何でもないわ」
そして木陰へ歩み寄った。
気配に気付いたのかノアールが顔を上げる。金色の瞳がこちらを向いた。
「……ディアンヌお嬢様」
立ち上がろうとしたノアールを、ディアンヌは止めた。
「いいの。あなたは今日、休みよ。隣に座ってもいいかしら」
「はい」
ブランを挟むようにして座ると、ブランも顔を上げ、ディアンヌにきらきらした目を向けてくる。ディアンヌはその頭を撫でてあげながらも、眉をわずかにひそめる。
「ブラン。あなた、私がいくら時間をかけて撫でてあげても、こんな風にべったりとそばにいてくれないわよね?」
当のブランは、そんな小言などどこ吹く風といった様子で、ディアンヌの手のひらから頭を離すと、ノアールの手に鼻先を押し付けた。
「見て。私より、あなたの方が好きだって言っているわ」
不思議そうにブランに視線を落としたノアール。後ろから近づいてきたアランが笑う。
「お嬢様、昔からそうだったのをお忘れですか?」
「昔から?」
不満げに顔を上げたディアンヌに、今度はガエルが遠い目をして懐かしそうに答えた。
「ああ、そういえば。子犬の頃、お嬢様がいくら呼んでも知らん顔で、王子殿下にはものすごい勢いで飛んでいっていましたね」
「そんなことなかったわ」
「いいえ、ありました」
ガエルの横で、アランまでが楽しそうに頷いている。静かにそのやり取りを見ていたノアールに、ディアンヌは口を尖らせる。
「ずるいわ」
その一言に、ガエルは堪えきれない様子で声を上げて笑った。
「お嬢様。その言葉も、以前とまったく同じですよ」
子犬だったブランを抱いたジルベールに、同じように言ったことを思い出す。でもあの時の嫉妬は、誰へ向けてのものだろう? ジルベール? それともブランに?
そんなディアンヌの様子を微笑ましそうに見つめた後、アランがすっと姿勢を正した。
「お嬢様、私たちは少し離れて、このあたりを見回ってまいります。ノアール、お嬢様を頼むぞ」
アランがそう言い残し、ガエルの背を叩いて歩き出す。二人は木陰から適度な距離を置いてくれた。
ディアンヌはそっと、さっきから何も言わないでいるノアールに目をやった。ノアールはじっと、こちらを見ていた。
自分で視線をやったのに、ディアンヌはぱっと目を逸らす。気恥ずかしくなって、わざとらしく言う。
「……何よ、あなたもブランも。二人で仲が良くて。ずるいわ」
その言葉に、ふっとノアールが微笑む気配がした。それを感じたから、ディアンヌはもう一度ノアールを見る。
その瞬間、ディアンヌは息を呑んだ。ノアールの綺麗な金色の瞳から、一粒の澄んだ涙が、こぼれ落ちていた。
それは本人すら気づいていないような涙だった。一瞬遅れて、ノアールは頬でそれを感じたのだろうか、笑みは消え、ただ呆然と瞬きをしている。ノアール自身が最も驚いたように。
「ノア……?」
ディアンヌが、思わず体を近づけて手を伸ばす。ノアールは慌てたように視線を落とし、手の甲で乱暴に目元を拭った。
「申し訳ありません」
ノアールが反射的に答えた謝罪に、ディアンヌは逆に胸が苦しくなる。
「謝らないで」
ディアンヌの指が、背けた彼の頬に触れる。二人の間にいるブランは、耳をぴくりと動かしたものの、目を閉じたまま静かに頭を伏せていた。
「ノア、どうしたの?」
「何でもありません」
「…………」
ディアンヌはノアールの頬に触れた自分の手で、そっとそこを撫でた。ノアールがブランにそうしたよりも、もっと優しく。
ノアールは目を閉じて、震える声で呟いた。
「……ただ、懐かしくて」
その言葉に、ディアンヌは胸がいっぱいになっていた。
彼が過去を否定しなかったから。思い出してくれたから――同じ時間を。同じ景色を。同じ日々を。
「泣きたいなら、泣いてもいいのよ」
そう言ったディアンヌの方こそ、胸の奥が熱くなって、泣きたくなっていた。ディアンヌは、それ以上は言葉を継ぐことができなかった。
木漏れ日が揺れる中、だけどもうノアールは涙を見せなかった。その代わりに、ディアンヌを見つめ返す。ほんの少し、彼の瞳がいつかの光を取り戻したような、気がした。




