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04 甘いお菓子を

 ノアールを連れ帰って一週間が過ぎた。


 ヴァレンタイン公爵領の夏は、王都に比べれば幾分か過ごしやすい。広大な公爵家の庭園は瑞々しい初夏の陽光に包まれ、丹精込めて育てられた色とりどりの薔薇が、今を盛りと咲き誇っていた。

 窓の外から、風が華やかな香りを運ぶ。こんな穏やかな日には、いつもなら仕事も順調に進む。だが執務机のディアンヌは、少しも集中していなかった。


 幼い頃に亡くなった母の代わりに、成人した今ではディアンヌが領内の予算の確認をしている。今日は収穫祭の予算書を見ていたが、数字が一向に頭に入ってこない。ディアンヌはそっと、視線の端で控えているノアールへと意識を向けた。


 正式にディアンヌの騎士にはなったが、まだ護衛を一人で任せられると判断されたわけではない。元々ディアンヌには、二人の専属護衛騎士がいる。ノアールは、その二人に従いながら護衛の任につくことになった。今日はその一人、アランと一緒だ。


 二人の護衛騎士、ガエルとアランは、婚約者としてこの城を訪れていた頃の彼を知っている。ノアールの境遇を理解して、公爵家の判断に従っている。

 それはこの公爵家の、主要な家臣たちも同じだ。彼らは賢く、公爵家の望まないことはしない。だからこの領地にいる限り、ノアールは安全なのだ。


 ノアールは今、ヴァレンタイン公爵家が誇る精鋭の証である、黒を基調とした騎士服にその身を包んでいた。一流の職人によって仕立てられた上質な生地が、彼の長身を完璧に引き立てている。乱雑に伸びきっていた黒髪を整えたことも相まって、奴隷に堕とされていたとは思えないほどの気品を感じさせる。

 だが衣服こそ高級のものに改められたが、頬はまだ削げ落ちたようにこけているし、襟元から覗く首筋も細い。


 ディアンヌはついに書類から顔を上げた。


「――お茶にしたいわ」


 扉近くに立っていたアランが頷いた。


「用意させます」

「貴方たち二人分もよ。一緒に休憩しましょう」


 扉を開けようとしていたアランは振り返り、ディアンヌの真の意図を察したのか、ふっと微笑んだ。


「畏まりました。が、私は結構です。外で待機しておりますので、ノアールとご一緒に」


 アランは騎士としては華奢に見えるが、剣技だけでなく頭も切れ、鋭い観察眼を持っている。


「アラン、そんなこと言わないで」


 ディアンヌは困ったような声を上げた。アランは余裕のある微笑みを崩さずに、ディアンヌに理由を差し出す。


「ノアールはあまり食べません。私やガエルがいくら言っても。お嬢様からお願いします。任務に支障が出るので」


 そしてアランは扉の外の侍女に声を掛けた。短い指示の後、すぐに運び込まれてきたのは、銀色に輝く豪奢な三段のティースタンドだった。部屋の中に、甘い香りが一瞬にして広がっていった。

 侍女は、ディアンヌとノアールの二人分のお茶を注ぐと、アランと一緒に一礼して退出した。


 その間、ノアールは黙って窓辺に立っていた。美しく用意された二人分のティーセットに、ディアンヌはため息をついて執務机から立ち上がると、テーブルへと向かった。


「ノア」

「はい」


 どこまでも平坦な声音。そこに一切の感情は感じられない。ソファに座ったディアンヌは、自分の前を指し示した。


「座って」

「…………」

「聞こえなかった? 座って」


 有無を言わせぬ絶対的な口調。ノアールは数秒ほど困惑したように動かなかったが、やがて観念したように、ゆっくりとテーブルに近づいて、ソファに腰を下ろした。

 目の前に並ぶ菓子と淹れたてのお茶。しかし、ノアールは手を出そうとしない。


「食べて」

「……私は護衛ですので。相応しくありません」


 ようやく答えたノアールに、ディアンヌは小さく首を横に振った。


「だからよ。私の護衛を務める者が、そんな痩せた体でどうするの? 私のためにも、食べる必要があるわ」


 しかしノアールは、それでも手を伸ばそうとしない。ただじっと、皿の上の菓子を見つめている。まるで、自分がそれを食べるという発想そのものが、頭にないかのようだった。その姿が、なんだか痛々しかった。


「……仕方ないわね」


 ディアンヌは小さくため息をつきながら席を立ち、ノアールのすぐ隣へと移動した。

 ノアールは身を引こうとするが、ディアンヌはそれを許さず、皿の中から小さく美しいマカロンを、自らの指先でそっと摘み上げる。公爵家の菓子職人が、一口で綺麗に食べられるよう計算して作った、上品なサイズのものだ。


「口を開けて」

「…………」

「開けなさい」

「…………」

「何度も言わせないで。命令よ。私の命令が聞けないの?」

「…………」


 命令、と強い言葉を突きつけられ、ノアールは完全に逃げ道を塞がれた。

 数秒ほどだが、酷く長く感じられる沈黙が流れる。やがて彼は、諦めたように、ゆっくりと、小さく唇を開いた。

 ディアンヌはその隙を逃さず、彼の形の良い唇の間へ、小さなマカロンを優しく押し込んだ。

 ディアンヌの指先が、ノアールの唇に掠めるように触れた。


「…………」


 ディアンヌは心臓が跳ねるのを必死に隠し、何事もなかったかのように指を引いた。

 ノアールが大人しく、ゆっくりと咀嚼する姿を見守る。それからこくんと飲み込んで、ノアールはぽつりと、小さく声を漏らした。


「……甘い」


 しみじみと呟かれたその一言が、ディアンヌの胸に重く、深く突き刺さる。

 こんな風に、優しい甘みを摂取することなどなかったのだろう。彼の頬のラインが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「美味しい?」

「はい」

「良かった。それなら、遠慮しないでもっと食べなさい」

「……それは、ご命令ですか」

「そうよ。自分で食べられないのなら、私が口に運ぶわ」


 不意に、ノアールの口の端が微かに、本当に微かに上を向いた。

 それは見落としてしまいそうなほど小さな変化だったけれど、確かに彼は今、笑っていた。

 ディアンヌは思わず息を止め、言葉を失った。


「分かりました」


 一瞬の笑みは消えてしまったが、ノアールは少しずつ、お茶とお菓子を口にしていた。


 窓の外から、柔らかな風が吹き抜ける。ディアンヌは自らもお茶を飲みながら、そっと彼の姿を見つめていた。

 自分の与えたもので彼が変わっていく姿に、ディアンヌの胸にじんわりとした温かい満足感がこみ上げる。その感情は歪ではあるのだと、ディアンヌも自覚はしていた。

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