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03 戻らない過去

 翌朝、一行は辺境伯家の城を発ち、ヴァレンタイン公爵領への帰路についた。


 馬車の中には終始、重苦しい沈黙が満ちていた。ディアンヌが視線を向けても、ノアールはただ静かに伏せ目がちに座っている。一言も交わさぬまま、馬車の揺れる音だけが響く道中は、酷く長く感じられた。


 ヴァレンタインの城に到着したのは、そんな張り詰めた空気のまま迎えた翌日の夕刻だった。

 かつて、ディアンヌの婚約者として何度も訪れたことのある城を目にしても、ノアールの表情は変わらず、何を思っているのかも分からなかった。


 出迎えたのは、父であるヴァレンタイン公爵だった。事前にエドワールからの早馬を受け取っていたはずの父だったが、ノアールの姿を視界に入れた瞬間、父にしては珍しく、表情を大きく強張らせていた。


 執務室へと向かい、人払いをしてから父は言った。じっと佇むノアールの前に立ち、痛ましげな眼差しで彼を見る。


「……本当に、生きていらっしゃったのですね」


 ディアンヌは隣に立つノアールへと視線を向けた。だが彼は何も答えない。ただ静かに頭を垂れた。


「ジルベール殿下、教えていただけませんか。四年前、本当は何が起こったのですか?」

「…………」


 ノアールは何も答えなかった。固く口を閉ざしたまま、ただ床を見つめて頭を垂れている。

 父はしばらく黙って彼を見つめていたが、やがて諦めたように深くため息をついた。


「話せる状況ではない、ということでしょうか」


 少しの間を置いて、ゆっくりと頭を上げたノアールが、抑揚のない声で答えた。


「過去は、戻りません」

「…………」


 ディアンヌの胸の奥が痛んだ。知りたいことは山ほどある。けれど、今の彼を見て、その傷口を無理やり抉るようなことはできないと思った。


 一歩、ディアンヌは無意識に足を前に踏み出していた。ノアールを背にかばうように、父の視線を遮る。


「お父様、しばらくはここで匿ってください。私の騎士として。お願いします」


 エドワールもまた、ディアンヌの言葉に理由を加えてくれた。


「今後について、現時点で決定できる状態にありません。それができるまでは、ディアンヌの言う通り、体の回復のためにも、城で匿うのが良いかと」


 じっとディアンヌの目を見つめていた父だったが、やがてその頑なな決意を汲み取るように息を吐いた。


「分かった。好きにするといい。当面、存在は伏せ、お前の騎士として扱う。だが――」


 父はすっと前に出てディアンヌの肩へと手を置き、優しくディアンヌを退けさせた。再びノアールを視界の中央に捉え、冷徹な声音で告げた。


「私の娘を再び傷つけるような真似だけは、絶対に許さない」


 ノアールは父の眼差しをまっすぐに受け止め、それから再び頭を下げた。


「承知しております」



 ◇──◇──◇



 ノアールには、城にある騎士棟の一室が与えられた。彼のことは一旦ガエルに任せて、ディアンヌは父とエドワールと対面していた。


「座りなさい」


 促され、向かい合ってソファに腰を下ろすと、父は口を開いた。


「エドワールからは報告を受けているが、お前の口からもう一度聞きたい。ジルベール殿下――ノアールという名にしたと言ったか。彼を、どうしたい」


 ディアンヌは自らの言葉を思い出す。自分を傷つけたことを、償ってもらいたい。そう言ってここに連れてきたはずだった。


「……分かりません」


 少し間を置いてから答えた。それが本音だった。喉の奥が苦しくなって、言葉がうまく出てこない。

 四年前の痛みは忘れていない。それでも、檻の中の、あの痩せ細った痛々しい姿が、ディアンヌを苦しくする。


「許せない気持ちはあります。償ってもらいたいとも思いました。でも――」


 ディアンヌは膝の上の手をきゅっと握りしめた。


「両陛下を亡くされ、毒を飲み、死にきれずに生き延びて、あんな場所で暮らしていました。……彼は檻から出ると、迷いなく私たちの前で両膝をつきました。あんなに、高貴な人だったのに――」


 言葉を失ったディアンヌの背中を、隣に座っていたエドワールが優しく撫でた。

 父は長く、重いため息をついた。


「――実はな、私にも後悔がある」


 父の低い声が、静まり返った室内に染み込んでいく。


「四年前、婚約破棄に腹を立て、感情のままに王都を離れなければ、両陛下を守ることもできたかもしれん。そう、ずっと考えていた」


 ディアンヌは何も言えなかった。答えのない仮定の話だ。それでも、父は後悔していたのだ。四年間ずっと。


 長い沈黙の後、父はゆっくりと姿勢を正した。再び公爵の顔に戻る。


「だが、過去は戻らない。ノアールがそう言ったように」


 父は視線を鋭くして、現状の判断をした。


「王子として扱われることを望んではいないのだろう」


 父の言葉に、ディアンヌの胸が痛んだ。王子だった頃のジルベールは、責任感が強く、誇り高く、国を愛していた。その深い絶望を覗き込んだ気がした。


「無理に戻すつもりはない。当面は我が家で保護する。表向きには、ディアンヌの騎士として。役割はあったほうがいい。正体は伏せ、誰にも利用させはしない」


 クーデターの後、クロウリー伯爵は勝手に王を名乗っている。クーデターに力を貸した一部の新興貴族以外は、正統性がないと支持をせず、国内では対立が続いている。


「エドワール、お前も目を離すな」


 父の命令に、エドワールは真顔で頷いた。


「王位だの責務だのを背負わせるつもりはない。今はノアールとして、一人の人間として生きればいい」


 父の声には、どこか祈りにも似た響きがあった。



 ◇──◇──◇



 長い廊下の突き当たり、用意された一室の前にディアンヌは立っていた。


 手にした銀のトレイの上には、果実のコンポートが載っている。使用人に任せることもできた。けれど、彼が本当に食事を口にできるのか、この目で確かめなければ胸のざわつきが収まらない。だからディアンヌは結局そうした。自分の騎士を心配してもおかしいことはない、そう自分に言い聞かせながら。


 ノックをしてしばらく待つと、室内からドアが開かれた。トレイを持つ手に、思わず力がこもった。


「……あまり食べていないとガエルから聞いたわ。これを食べなさい」


 あえて冷静な声音を作り、室内に入るとトレイを机に置く。

 ノアールは机の上を一瞥した。だが、椅子に座ろうともせず、ただディアンヌの前で静かに頭を垂れる。


「ありがとうございます、ご主人様」


 どこまでも平坦な声。ディアンヌは即座に眉をひそめた。


「その呼び方はやめて」


 頭を上げてノアールは、何も言えずに黙ってディアンヌを見つめ返した。何と言えばいいのか本気で分からない様子だ。


「あなたはもう奴隷じゃない。お父様からも許可を貰ったでしょう。あなたは私の護衛騎士よ。だから、私のことは――」


 言いかけて、喉の奥が熱くなる。かつて彼はディアンヌの名を愛おしそうに呼んでくれた。

 ディアンヌは視線を逸らしながら言った。


「……私のことは、ディアンヌお嬢様と呼びなさい」


 やがて、ノアールは胸に手をあて再び深く頭を垂れた。それは騎士としての礼だ。


「はい。ディアンヌ、お嬢様」

「……っ」


 ディアンヌは胸が締め付けられ、思わず一歩後ずさりしそうになった。

 どうしてこんなにも苦しいのだろう。どうしてこんなにも動揺するのだろう。自分でも分からなかった。


「は、早く食べなさい」


 それだけ言い残し、ディアンヌは逃げるように部屋を出た。

 閉めた扉に背を預け、ディアンヌは顔を両手で覆い、眩暈に耐えるように深く、深く息を吐き出すのだった。

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