02 新しい名前
合流したエドワールは、血に染まるジルベールの手とディアンヌの青ざめた顔を見て、即座に状況を察した。すぐに二人を馬車へと押し込み、自らも乗り込む。
ディアンヌはジルベールの前に座り、彼の手を強引に引き寄せていた。
「じっとしていて」
手持ちのハンカチでは、溢れる血を吸いきれない。ディアンヌはヴェールを取って、ジルベールの傷口に幾重にも巻き付け、きつく縛って止血する。
その間も、ジルベールは人形のように無抵抗で、痛みを感じていないかのように静かだった。その反応のなさが、ディアンヌを苛立たせる。
「二度と、あんな真似はしないで」
ヴェールを結び終わったディアンヌの指先が、怒りと恐怖で小さく震えていた。
ジルベールはただ黙って、ヴェールが結ばれた手のひらを見つめている。
「聞いているの?」
きつい口調で言うと、ジルベールがゆっくりと視線を上げた。
「はい」
「私は怒っているのよ」
「…………」
躊躇なく刃を掴んだ姿が忘れられない。まるで自分の命など、どうでもいいと言わんばかりの行動。思い出すだけで、ディアンヌの心臓が冷える。
「あなた、自分が傷つくことを何とも思っていないでしょう」
「…………」
「あんなことは、もうやめて」
返事を待ってじっと見つめていると、ジルベールは何の感情もこもっていないような瞳で、静かに答えた。
「私は、奴隷ですので」
その言葉に、ディアンヌは表情をさらに厳しくした。
「私はあなたを、奴隷にするつもりはないわ。対価を払ったのは、あなたを連れ出すため」
ジルベールは再び視線を落とし、抑揚のない声で言った。
「……他に、償う方法がありません」
ディアンヌは息を呑んだ。償い。それは、さっきジルベールを買う前に、ディアンヌが言った言葉だ。自分を傷つけたことを、償ってもらいたいと。その言葉が、鉄格子の向こうまで届いていたのだ。
ディアンヌの胸に、怒りと同時に、やり場のない悲しみがこみ上げてきた。
「――そうよ。あなたは私を傷つけた。だから償ってもらいたいの」
四年前のことを思い出す。一方的な婚約破棄。失われた幸せ。
「許せなかったから。でも――」
喉の奥が熱くなり、言葉が詰まる。それでもジルベールの死を知った時、身を引き裂かれるような思いで泣き明かした日々。
「こんな風に、傷ついてほしいわけじゃない!」
堪えきれなくなった涙が、大粒の雫となって頬を伝い落ちた。しまったと思った時には遅かった。
ディアンヌは慌てて顔を背ける。見られたくなかった。弱い自分を。まだ彼に、これほどまでに心を乱される自分を。
馬車の中が静まり返る。
ジルベールはずっと黙ったままだった。ただじっと、ディアンヌを見つめている。その瞳からは、やはり感情は読み取れなかった。
「ディアンヌ。話は父上のところに戻って、落ち着いてからだ」
沈黙を破ったのはエドワールだった。傷の手当にハンカチを使ってしまったディアンヌに、自分のハンカチを差し出してくれたので、ディアンヌは顔を逸らしたままそれを受け取った。
「……分かっているわ」
「だがその前に、確認させてくれ」
エドワールはジルベールに向き直った。
「記憶はあるんだな?」
エドワールはジルベールの一歳年上だ。かつては王子を支える最側近にと期待されていた。それ以上に、二人は友としても仲が良かったはずだ。公式の場以外では、エドワールはジルベールを殿下とは呼ばず、ジルベールもまた、エドワールには年相応の笑顔を見せていた。
エドワールが、ジルベールの死に涙を流していたことを、ディアンヌは知っている。
「……あります」
「分かった」
エドワールがほっとしたように息をついた。
「まずは体の傷を治すんだ。それから戦うなら、死ぬためにではなく、生き残るためにしてくれ」
ジルベールは視線を伏せて、何も言わなかった。だが否定もしなかった。
馬車は夕暮れの街を抜け、エドワールとディアンヌが滞在する辺境伯家の城に向かって走り続けた。
◇──◇──◇
日が完全に落ちた後、三人はこの地方を治める辺境伯家の城へと到着した。ヴァレンタイン公爵家とは古くから深い縁のある一族だ。
エドワールから手短に事情を聞いた辺境伯は、驚きに目を見開きながらも詮索はせず、すぐにジルベールのために離れの部屋と医師を手配してくれた。
真夜中、診察を終えて出てきた医師は、ひどく疲れた顔をして首を横に振った。
「よく、これまで生きておられましたね」
医師のその言葉が、ジルベールが過ごしてきた歳月を物語っていた。無数の傷痕は、適切な治療を施されぬまま放置されたせいだと言う。肉体だけでなく、精神さえも摩耗しきっているのは明白だった。
医師と別れ、ディアンヌはエドワールと共に、ジルベールのいる客間へと足を運んだ。
扉を開けた瞬間、ディアンヌは思わず小さく息を呑んだ。
ジルベールの泥と血にまみれていた肌は綺麗に洗い流されている。奴隷市場で身につけていたぼろぼろの衣服の代わりに清潔な衣服を纏い、怪我をした手のひらにも丁寧に包帯が巻かれていた。それ以外の傷も、手当てがされている。
酷く痩せてはいる。だが、そこにいたのは、奴隷市場のジルベールとは別人だった。伸びた前髪に隠れがちではあったが、端正な顔立ちがそこから覗いていた。そこには、かつてディアンヌが心から慕っていた、あの気高き王子の面影が確かに残っていたのだ。
ディアンヌの視線に気づくと、ジルベールは音もなく静かに頭を下げた。エドワールが先に彼に近づく。
「大丈夫か?」
「はい」
「明日、ヴァレンタインの城へ戻る。今後のことは父上とも相談しなければならない」
エドワールが実務的な口調で告げ、ジルベールを見据えた。
「まずは、体を治せ」
「……はい」
ジルベールはただ淡々と従順に応じるだけだ。
「お兄様」
ディアンヌはエドワールの袖をそっと引き、声を潜めた。
「彼のことを、ジルベールとは呼べないわ」
「……確かにな」
エドワールも神妙な面持ちで頷いた。
「領地での安全は確保する。だが念のため、素性は隠す。仮の名前が必要だ」
ディアンヌはジルベールの背後、大きな窓へ視線を向けた。窓の外には、どこまでも深い夜が広がっている。星の灯りさえも届かない、静寂に満ちた闇だ。その色と同じ、ジルベールの美しい黒髪。
ディアンヌはゆっくりと、その唇を開いた。
「――ノアール」
二人の視線が、同時にディアンヌへと集まる。
「あなたの新しい名前はノアールよ」
けれど、どんな夜であっても、いつかは必ず朝がくる。ディアンヌはそう信じて、かつて悲しみを乗り越えた。そんな、言葉にはできない切なる願いを、ディアンヌはその名に込めた。
「普段は、ノアと呼ぶわ」
ジルベール――いや、新しく名を与えられてノアールは、静かに頭を垂れた。
「……ありがとうございます」
頭を下げるその刹那、彼の光を失った金色の瞳が、微かに揺れたように見えた。




