01 奈落の再会
鉄格子の向こうから、奴隷たちが獣のような視線を向けてくる。
砂埃と鉄錆、そして生々しい血と汗の臭い。ディアンヌ・ヴァレンタインは黒いヴェールの下で、わずかに表情を曇らせていた。
リュミエール王国の最果て。砂漠との境界に位置するこの都市には、国内最大の闘技場が存在した。奴隷――剣闘士たちを戦わせる血生臭い娯楽が、独自に発展した無法地帯のような場所だ。本来であれば、公爵家の令嬢であるディアンヌが、足を踏み入れるような場所ではない。
「ディアンヌ、離れるなよ」
隣を歩く兄、エドワール・ヴァレンタインが、いつもより一段と低い声で注意を促してくる。エドワールは、ディアンヌと同じ美しい銀髪と、鮮やかなラピスラズリ色の瞳をしている。その鋭い眼光で、エドワールは周囲を警戒していた。
ディアンヌは小さく息を吐いて、頷くだけに留めた。闘技場の商人に導かれ、鉄格子が並ぶ場所を進む。ここは剣闘士の収容場所でもあり、奴隷市場でもある。
正直に言えば、気が進まなかった。しかし、エドワールから一緒に来るようにと強く言われ、断りきれずに同行している。
エドワールの目的は、闘技場から有望な剣闘士を買い取り、ヴァレンタイン家の私兵を強化することだろう。だが、普段の過保護な兄ならば、このような治安の良くない場所にディアンヌを連れてくるはずがない。何か理由がある。そう察したからこそ、ディアンヌは不満を漏らさずに従っていた。
「次を見せろ」
エドワールは真剣な顔で奴隷たちを見ていた。商人から別の檻へ案内され、エドワールはその足を止めた。
俯きがちになっていたディアンヌも、つられて檻の奥へ目を向ける。その瞬間、ディアンヌは息が止まりそうになった。
「……っ」
冷たい石畳の上に力なく座る一人の男。ひどく痩せていて、伸びた黒髪はぼろぼろに傷んでいる。石畳を見つめる金色の瞳は空虚だった。
血の気が引いていく。あまりの衝撃に眩暈がして、ディアンヌはその場に崩れ落ちそうになった。
「――ジル……?」
掠れた声がディアンヌの唇から漏れた。今にも消えそうな呟きであったのに、その微かな声音に、檻の奥の男がぴくりとまぶたを揺らした。
男はゆっくりと顔を上げる。視線がまっすぐに絡み合った。光のない、絶望に沈んだ金色の瞳。ディアンヌの心臓が、押し潰されそうになる。
どれだけ変わっていても、ディアンヌがその姿を見間違えるはずがなかった。
かつてのディアンヌの婚約者――王子ジルベール・ド・リュミエールを。
◇──◇──◇
四年前――すべてがひっくり返った、悪夢のような日。
ジルベールは、ディアンヌの目の前で別の女――伯爵家の令嬢リリス・クロウリーをその腕に抱き寄せ、言い放ったのだ。
『ディアンヌ、きみとの婚約を破棄する』
これまで一度も聞いたことのない冷たい声と、感情のない眼差しだった。ディアンヌは目の前の現実が理解できなくて、ただ首を小さく横に振った。
『ジル? 何を言っているの?』
少し前から急に、ジルベールの態度がよそよそしくなっていた。
それでもディアンヌは、それを仕方のないことだと自分に言い聞かせていた。十八歳になったジルベールは王立学院を卒業し、公務に追われるようになったからだ。まだ十六歳であるディアンヌは、これまでのように学院で会えなくなったことを寂しく思いつつも、彼の変化は多忙さゆえのことだろうと、むしろその体調を心配していたのだ。それなのに。
『俺はリリスと共に生きることにした』
『な――』
あまりのことに、ディアンヌは一瞬言葉に詰まった。これがあの、聡明なジルベールの言葉だろうか?
『……待って、そんな風に勝手に決められるものではないわ。私たちの婚約は、この国の――』
『まだ分からないみたい』
口を挟んだのは、リリスだった。絶世の美女だと有名なリリスはジルベールと同じ十八歳で、学院時代にもジルベールの周囲でよく見かけていた。だがディアンヌの知る限り、ジルベールは彼女と適切な距離を保っていた。ディアンヌは微塵も疑っていなかった。
『ちゃんと分からせてあげて、ジル』
『……っ』
ディアンヌだけが呼ぶ愛称。ディアンヌは今度こそ本当に言葉を失った。
『……愛しているんだ――リリスを』
勝ち誇った笑みを浮かべるリリスは、手を伸ばしてジルベールの頬にそっと触れた。ジルベールは抵抗せず、リリスは彼に顔を近づける。二人の唇が重なろうとした、その瞬間――。
『やめて!』
ディアンヌは耐え切れずに悲鳴を上げていた。ぽろぽろと涙が零れ落ちる。そうしてディアンヌは踵を返して走り去った。
子どものように泣くことしかできないなんて、なんて無様なんだろう。その時ディアンヌの気高い誇りも、ジルベールへ捧げていた純粋な愛も、すべてが粉々に砕け散っていた。
◇──◇──◇
「ディアンヌ、大丈夫か」
エドワールの声に、ディアンヌは現実に引き戻される。覗き込んできたエドワールの瞳が、ディアンヌを心から心配しているのが伝わる。
ディアンヌは取り乱しそうな自分を必死に抑え込み、ジルベールを見つめたまま、エドワールだけに聞こえる声で答えた。
「……お兄様、だから私をここに連れてきたのね」
エドワールは小さく、押し殺したような息を吐いた。
「手に入れた情報の真偽を、確かめる必要があった。父上には反対されたが、俺はお前と一緒に来るべきだと思った」
「…………」
二人の深刻な空気に気が付かない商人が、調子のいい声をかけてくる。
「あれがお気に召しましたか? 痩せてはいますが、剣の腕は超一流ですよ。ほとんど喋らない不気味な奴ですが、兵士としては都合が良いと思いますよ」
ディアンヌは商人の話など聞いていなかった。
ジルベールから視線を離せない。ジルベールも何も言わず、ただ静かにこちらを見ている。その瞳には感情がない。まるで魂のない死者のようだった。泥と血に汚れたぼろぼろの衣服から露出した手足には、数え切れないほどの傷痕が、重なり合って刻まれている。
記憶にあるジルベールは、太陽のように輝く、どんな困難にも揺るがない明るい金色の瞳をしていた。その姿は誰よりも気高く、美しかった。それが、どうして。
冷静さを装っていたが、ディアンヌの胸の奥では、激しい感情が渦巻いていた。
四年前、ジルベールの一方的な婚約破棄を知った父と兄は激怒、即座に王都から領地へと戻った。
その後、リリスの父であるクロウリー伯爵による突然のクーデターが起こり、国王夫妻は殺害された。
ジルベールはリリスと婚姻し、クロウリー伯爵の傀儡として王位に就くはずだった。だが彼は、毒をあおって死んだという。領地で暮らすディアンヌも、王都から届いた新聞記事で知ることになった。愚かな王子の最後の良心だったと、報じられていた。
ジルベールの死を知って、涙が枯れるほど泣いた。裏切られたのに、絶対に許せないと思っていたのに、それでも彼がこの世から消えた絶望に、ディアンヌは自分を失うほど取り乱した。
ようやく前を向いて歩き出し、国を正すために父や兄の手伝いをして過ごしてきた。
なのに、彼は生きていた。なぜ裏切ったのか。なぜ死を選んだのか。そしてなぜ生き残り、こんな姿で檻の中にいるのか。
ジルベールに対する感情を、すぐには説明することなどできなかった。けれどディアンヌは、自分でも理由を整理できないまま、言葉を口にしていた。
「――私が買うわ」
エドワールが息を呑む。その目は、ひどく悲しそうに揺れていた。
「私の騎士にするわ。いいでしょう?」
声が震えそうになる。ディアンヌは毅然と顎を上げた。
「私を傷つけた。そのことを償ってもらいたいの」
エドワールは何か言いたげではあったが、結局は何も言わず、承諾してくれた。
「……分かった。ただし、お前の騎士にするかどうかは、父上に報告してからだ。だが、身柄は今すぐに引き取ろう。こんな場所にこれ以上置いてはおけない」
そう言ってエドワールは商人に向き直った。
「あの男を買う。言い値で構わない。すぐに引き渡せ」
「そうですか! それはありがとうございます」
笑顔になって商人は、いそいそと鍵を取り出すと、音を立てて檻を開いた。
「おい、出ろ。お前の新しいご主人様が決まったぞ」
ジルベールはゆっくりと立ち上がり、前へ出る。足枷を重そうに引きずっている。商人は近づいてそれも外した。
檻から出てきたジルベールは、エドワールとディアンヌの前で、迷いなく膝をついた。かつて王国の王子だった男が、静かに頭を垂れる。奴隷として、それが当然の義務であるかのように。
「ご主人様に、ご挨拶申し上げます」
ディアンヌの記憶よりも低い、掠れた声。その姿があまりにも悲しくて、あまりにも痛々しくて。ディアンヌは思わず両手でドレスを握り締めていた。
◇──◇──◇
闘技場を出た頃には、夕暮れになっていた。
兄が手続きをしている途中、ディアンヌは護衛騎士であるガエルと共に、ジルベールを連れて先に外に出ていた。市場の悪臭から解放され、新鮮な空気にほっと小さく息をつく。
ふいに嫌な気配を感じる。行く手を阻むように立っていたのは、下卑た笑みを浮かべた男たちだ。
「いかにも金持ちそうだ。貴族か?」
緊張が走り、ガエルが剣の柄に手をかけた。公爵家の精鋭であるガエルは、複数に囲まれようとも微塵も冷静さを崩さなかった。さっとディアンヌを背に隠す。
「金目の物を、全部置いていきな」
ディアンヌがガエルの後ろで身構えた瞬間。男の一人が短剣を抜いた。
「お嬢様、お下がりくださ――」
ガエルが男たちを仕留めるべく、一歩を踏み出そうとした瞬間。その反応すら完全に置き去りにする速さで、ジルベールが一切の躊躇なく男たちの前に進み出ていた。
慌てて男が突き出そうとした短剣を、ジルベールは避けることもしなかった。あろうことか自らその刃を素手で掴む。刃が手のひらに食い込み、鮮血が流れる。しかしジルベールは眉一つ動かさず、もう一方の手で短剣を握る男の腕をそのまま上方へと捻り上げた。
完璧に対処できるはずだったガエルですら、自傷を厭わないジルベールのその行動に、思わず息を呑み、出遅れてしまっていた。
「放せ! あああ――ッ」
路地に男の悲鳴と、生々しい骨折音が響く。ジルベールが手を放すと、男は地面に転がった。慌てて仲間たちが駆け寄る。
「な、なんだこいつ!」
「ふざけやがって――」
だがジルベールの瞳が向けられた瞬間。男たちは凍り付いた。ぞっとするほど冷たい眼差し。容赦のない、本物の殺気。
男たちは悲鳴を飲み込んで、転がった仲間を立ち上がらせると、後ずさりして逃げ出した。
静寂が戻る。ディアンヌは呆然としていた。
目の前には、ジルベールの横顔。彼はゆっくりと瞬きをして、こちらを振り返った。眼差しは空虚なものに戻り、ただじっとディアンヌを見つめている。
「――お怪我は」
「……ないわ」
ディアンヌは辛うじて、震える声を絞り出す。
ディアンヌの返事を確認して彼は、何事もなかったように顔を逸らした。
彼の手のひらから、血が滴り落ちている。短剣を素手で受け止めた代償だ。ぽたぽたと、赤い雫が冷たい石畳に染みを作っていく。ディアンヌは頭が真っ白になった。
「手を見せて」
「…………」
「見せなさい!」
思わず声が大きくなる。ジルベールの反応はない。自分の方が動揺する。一体なぜ、こんなにも必死になっているのか。理由は分からないのに、傷ついた彼を見ているだけで胸が痛かった。
沈みゆく夕日が、ジルベールを照らしている。その赤い光の中で、ジルベールは静かにこちらを向いて、頭を垂れた。
「ご命令でしたら」
どこまでも従順に。まるで、それだけが自分の存在価値であるかのように。




