疾風怒濤たる鉄路の憂悶、或いは寸断せし大井川の哀歌
横浜の急坂を最高時速三百キロで垂直驀進するという、乾坤一擲の肉体的大行進が、亡母・千代のコンパスの「狂い」に起因する完全なる無駄足、即ち「ただの骨折り損」であったと露見した時、二十六歳の沢渡拓海は、精神の陥穽の底で、ただ肺腑を焦がすような無常の風に吹かれていた。
「マジで骨折り損の極み。俺のあの限界突破した脳汁を今すぐ返してほしいんだけど、ぶっちゃけ」
虚脱の沼に沈む彼を乗せ、内閣府大根対策室の黒塗りの特務車両は、東名高速道路を漆黒の弾丸の如く西へと疾駆していた。
目指すは三百キロの彼方、静岡県は「大井川鐵道」の鉄橋。
車内に充満するのは、高級革シートの「匂い」と窓を叩く夜雨の、冷たくざらついた「感触」であった。
助手席で金髪マッシュを上下にポヨポヨ揺らす跡部翔太が、最新型の超高速演算端末を虚ろな眼差しで見つめ、絶望的な言霊を吐き散らす。
「いや、タクミくん、マジでバグ超えて崩壊寸前っすわ。宇宙の管理者『ういんくちゃん』の消去エネルギーの直撃まで、あと、僅か十五分。しかも、現在、大井川周辺は局地的な時空の歪みによって、鉄路も道路も完全に寸断されてるっぽいんすよね」
「……冷笑気取ってる場合じゃねえな。つまり、鉄橋に近づくことすら、リアルに『無理ゲー』ってことかよ」
拓海が自らの右膝に刻まれた、あのチャリで挫折した少年の日の「古傷」を無意識に摩っていたその時、特務車両は轟然たる制動音と共に、大井川の濁流を臨む崖縁で急停車した。
前方の視界を蹂躙したのは、一幅の地獄絵図であった。
本来そこにあるはずの美しい鉄橋は、空間のねじれによって中間部が粉々に「消失」し、大井川の激しい川霧の向こうで、断絶された鉄骨が、まるで獲物を待つ怪獣の、不気味な顎の如く黒々と口を開けていたのである。
世界のの平穏を求めて懊悩する彼らの前に、突如として大気の「振動」を伴って現れたのは、一台の、異様な気配を放つ大型車両であった。
それは、古びた軽トラックをベースにしながらも、荷台部分が巨大な厨房へと魔改造された、およそ戦場には不釣り合いな移動販売車――通称「キッチンカー」であった。
その車体には、無数のネオン管が禍々しく発光し、サイバーパンクの如きサイケデリックな光を放っている。運転席の扉が、乾いた音を立てて蹴り開けられた。
降りてきたのは、頭に色褪せたタオルを巻き、全身からスパイスと古い油の「匂い」を漂わせた偏屈なる料理人、大五郎(五十八歳)であった。
「おいおい、内閣府の若造どもが、こんな大井川のド真ん中でへたり込んで、己の無能を披瀝してんじゃねえよ。千代の嬢ちゃんが死ぬ間際、このワシに何を託していったか、お前らに教えてやる!」
大五郎の聲音は、大井川の激流の如く荒々しく、しかし不思議なエモさを帯びていた。
「これはね、ばあちゃん……じゃなかった、千代の嬢ちゃんが『拓海が静岡で鉄橋を渡れずに詰んだら、これで空を飛ばせてやって』って言って、十年前からワシがコツコツと魔改造を施した、ニトロ搭載型超音速キッチンカー・『駿河轟天号』だ!料理はな、火力じゃなくて、心で炒めるんだよ!」
「大五郎さん……!っていうか、おかん、俺が静岡の鉄橋で立ち往生することまで完全に予期してたのかよ!どんだけ先読みのプロなんだよ!」
拓海が驚愕する間にも、天空の紫藍は一際濃くなり、宇宙からの相殺不能なエネルギーが、大井川の水面を沸騰させ始めていた。
「沢渡拓海氏!もはや一刻の猶予もありません!」
冷徹無比なる女性官僚、氷室小夜子が、漆黒の礼服を泥に汚しながら叫んだ。
「あの断絶された鉄橋の向こう岸、即ち宇宙の因果律の特異点へ、このキッチンカーごと飛び移るのです!駿河轟天号の助手席には、五味源三が研ぎ澄ましたあの『ボロキッチンセット』が既にボルトで完全固定されています!あの上で大根を刻まねば、地球の全データが秒でデリートされます!」
「やるしか……ねえのかよ!もう後戻りはできねえ……のかよ。やるしか!」
拓海は退路を断たれ、自らの胸部に生じた空虚な陥穽を熱い覚悟で満たしながら、大五郎の駿河轟天号の助手席へと飛び込んだ。
手にするのは、母の遺した『宇宙防衛・大根秘伝レシピ』のノート。
指先がその古びた紙片に触れた瞬間、母の優しい「匂い」が彼の脳髄を貫き、胸の穴を焦がすようなエモい感情の氾濫が、彼の五感を完全に覚醒させた。
「おかん……見ててくれよ、これが俺の、本当のラストダンス(バズり)だ!」
大五郎が不敵な笑みを浮かべ、ダッシュボードの赤い特注レバーを引き絞った。
「行くぞ、たくみん!ニトロシステム、最大出力ッ!!!!」
「轟ッ!!!! 出発」
鼓膜を粉砕せんばかりの爆音と共に、キッチンカーの排気口から青白い劫火が噴射された。
ガソリンと、なぜか焦げたカレー粉の、噎せ返るような激しい「匂い」が周囲に炸裂する。
駿河轟天号は、斜度ゼロの平坦な鉄路の残骸を、重力の法則を完全に無視して、時速四百キロを超える光速の弾丸となって「驀進」し始めた。
「うおおおおかかお、顔の皮が今度こそ完全にちぎれるッ!よじれるっマジで飛ぶ、飛ぶ、飛ぶって!!!」
拓海は座席に押し付けられながら、必死にレシピ本を死守する。
上空のヘリからは、跡部が「現在の最高時速四百二十キロ!マジ神、脳汁ドバドバ超えて大洪水っすわ!」と狂った実況を飛ばし、小夜子は真顔で拳を握りしめて仁王立ちしている。
断絶された鉄橋の端、即ち完全なる虚無のジャンプ台へ向かって、キッチンカーは弾かれたように跳躍した。
大井川の激流の遥か上空、夜空に浮かぶ紫の星々に向かって、鉄の塊が優雅に、然而凄絶に「飛翔」する。
それは、母への無限の感謝と、己の宿命を賭けた、驚天動地の空中大決戦であった。
駿河轟天号は、凄絶な「着地(感触)」と共に、サスペンションを限界まで軋ませながら、対岸の特異点――鉄橋の南端へと見事に滑り込んだ。
そこは、地磁気が極限まで集中し、宇宙からのデリート光線が今まさに地上へ到達せんとする、絶対防衛ライン。
「はぁ、はぁ……やった、飛び越えたぞ……!大五郎さん、俺たちはやったんだ!」
拓海は血の滲むような達成感の涙を流しながら、助手席に固定されたまな板の前に立ち、五味源三の和包丁を握りしめた。
「今度こそ……今度こそ本物の本物だ!おかんのレシピ通り、大根を『トントン』と刻んで、宇宙の管理者『ういんくちゃん』を完全撃退してやる!!」
拓海が魂の叫びと共に、新鮮な青首大根をまな板の上に置き、包丁を「トントン」と小気味よい音で叩き始めた、まさにその刹那であった。
その「音」が空気の分子を震わせ、大気のねじれを調和させようとした瞬間――読者も、内閣府も、そして拓海自身すらも思いもしなかった、言語を絶する驚愕の真実が世界を襲った。
鉄橋の向こう、紫色の雲が割れ、宇宙の管理者である『ういんくちゃん』の本体が、巨大なホログラムのように夜空に顕現した。
しかし、その巨大な宇宙の神の姿が、キッチンのネオン管に照らされた瞬間、拓海の脳内は完全にクラッシュした。
夜空に浮かび上がった『ういんくちゃん』の正体は、異形のエイリアンでも、AIのシステム画面でもなかった。
それは、生前と全く変わらぬ、少しぽっちゃりとした体型に割烹着を着て、右手にポテトチップスの袋を持ち、左手で楽しそうに「ウインク」を連発している、亡くなったはずの母・沢渡千代(享年五十五)その人であった。
「……は?え?お、おかん……!?死んだんじゃ……」
拓海が完全に白目を剥いて凝視する中、夜空の巨大なおかんは、マイクのハウリングのような音と共に、現代的なギャル文字のテロップ混じりで、恥ずかしそうに語りかけてきた。
《あ、拓海~?聞こえる~?ごめんごめん、お母さんね、一週間前に死んだことになってたけど、あれ実は、『宇宙の超高等遊民たちのサークルにスカウトされて、地球の管理者のバイトに転職しただけ』だったのよ。
でね、新しい仕事(地球のデータ管理)の操作方法がマジで意味不でさ、キーボードの『ウインク・キー(Windowsキー)』と『デリート・キー』を同時に押しちゃって、それで世界が紫色にバグっちゃったわけ。
あなたが毎朝聞いてた『トントン』って音はね、お母さんがバイトの研修マニュアルを読んでる時に、退屈で『ペン回し』をして机を叩いてた音なの。
だから、あなたが今やってる大根の千切り、『お母さんのペン回しの音を真似してるだけで、システム的には1ミリも意味がない完全に無駄な作業』なのよ。
あ、でも、拓海が命がけで大井川までキッチンカーで飛んできてくれたの、マジでエモくて草。お母さん感動したから、今、マウスで世界のバグ直したわ!テヘペロ!》
静寂が、大井川の鉄橋を支配した。
天空の紫色のバグは、母が手元の「マウスをカチカチッ」とクリックしただけで、一瞬にして元の美しい満天の星空へと収斂していった。
地球を救ったのは、少年のトラウマの克服でも、ニトロの超音速飛行でも、大根の特殊周波数でもなかった。
ただの、おかんの「誤操作の取り消し(コントロール・Z)」。
拓海は、大根と包丁を握りしめたまま、ボロ雑巾の心を極限まで爆発させ、夜空の巨大なおかんに向かって、全霊のツッコミを叫んだ。
「ただのおかんのバイトのミスかよーーーーーーーッ!!!」
元の青空に戻りかけた夜空で、お母さん(ういんくちゃん)は、一段と激しく、いたずらっぽくウインクしながら、光の彼方へとログアウトしていった。




