天険なる坂道の焦燥、或いは機甲せし鋼翼(ままちゃり)の驀進
大根を磨り潰すことで生じる硫黄化合物の峻烈なる「匂い」が、宇宙からの侵略者を撃退せしめ、実家の厨房に一時の静寂が回帰したのも束の間、不条理の因果律は更なる難局を用意していた。
翌未明、二十六歳の沢渡拓海を襲ったのは、精神の落魄に追い打ちをかけるような、肉体的、かつ不可逆的な世界の「バグ」であった。
大根対策室の跡部翔太が、最新型の超高速演算端末を虚ろな眼差しで見つめ、金髪マッシュを激しく掻き毟りながら、若者特有の悲鳴をあげた。
「いや、マジで詰んだ、秒で世界線がバグったっすわ。タクミくん、お母さんのレシピ本に書いてある防衛周波数、これ、実家のキッチンからじゃ地球の電離層を突き抜けないんすよ。音が一番宇宙にディープに届くスポット、そこじゃないと『ういんくちゃん』の本隊の消去エネルギーを相殺できない仕様になってるみたいで……」
「は?意味不なんだけど。その特異点ってどこだよ」
冷徹無比なる女性官僚、氷室小夜子が、漆黒のスーツを軋ませて拓海の顔面に地図を突きつける。
「そこは、あなたが少年時代、幾度となく転倒し、挫折の泥を舐めたあの『坂道』の頂上です。あそここそが、地球の地磁気が収斂する乾坤一擲の聖地。しかし、宇宙のねじれが限界を迎えた今、あの坂は空間が歪み、斜度八十度を超える、あり得ない断崖絶壁――通称『デス・スロープ』へと変貌を遂げています」
拓海は絶望に身を震わせ、自らの右膝に刻まれた古い「傷跡」を撫で下ろした。
風が吹くたび、彼の心に空いた直径十センチの「ボロ雑巾の穴」から、ヒューヒューと寒々しい「音」が漏れ出づる。
「あの坂を上れって?無理に決まってんだろ、チャリで一度も完走できたことねえんだよ! しかも、今は、斜度80度なんて登れるわけねぇだろ1馬鹿がっ」
少年期、挫折のたびに母が残した「前を向いて、走ってごらん」という微笑みの記憶が、今の拓海には、愛しくも切ない呪縛となって、その魂を金縛りにしていた。
深夜、拓海は小夜子らの監視の目を盗み、このままでは命が危ないと実家の裏口から逃亡を企てた。
心根を完全なる諦倦に染め、夜霧の立ち込める街を這うように進む。
しかし、彼の前に立ち塞がったのは、昼の光を拒絶するかのように、垂直に天を突いてそそり立つ、あの「坂道」の禍々しいシルエットであった。
空間がねじれ、坂の表面はまるで融解したアスファルトの如くドロドロと蠢き、触れることすら拒絶する、悍ましき「オーラ」を放っている。
「……あーあ、現実にこれかよ。逃げ道なんて最初からねえじゃん」
拓海が絶望の底で立ち尽くしたその時、闇の中から「キィ、キィ」という、油の切れた不快な機械「音」が近づいてきた。
現れたのは、近所で古びた自転車店を営む佐藤トメ(七十五歳)。
白髪のパーマを夜風にポヨポヨと揺らし、割烹着にサンダル履きという、およそ戦場には不釣り合いな老婆が、一台の、異様な空気を放つ乗り物を引き摺っていた。
それは、一見すると何の変哲もない前カゴ付きの「ママチャリ」であったが、その泥除けの上には、航空機用と見紛うばかりの巨大なロケットエンジンが、不気味な鋼鉄の翼の如く溶接されていた。
「おい、たくみん。耳が遠くてねぇ、世界滅亡だか何だか知らんが、お前がその情けない貌で坂の下にへたり込んでるのだけは、あの世の千代さんも許しゃあせんよ」
トメさんの聲音は、錆びた鉄の如くぶっきらぼうであったが、その奥には、一期一会の覚悟が宿っていた。
「これはね、ばあちゃんが千代さんから『あの子が夜逃げしようとしたら、これでケツを引っぱたいて坂の上に飛ばしてやって』って頼まれて、十年間コツコツ魔改造を続けた、最高時速三百キロの『特攻型機甲ママチャリ・銀輪号』だーょ。チャリはね、足じゃなくて、心で漕ぐんだよ!」
「トメさん……!っていうか、おかん、俺が夜逃げすることまで完全に予期してたのかよ!」
その時、天空の紫藍が一際濃くなり、地底から「ゴゴゴゴゴ……」と宇宙生物の咆哮が響き渡った。
空間の歪みが激化し、坂の上から巨大なアスファルトの残骸が、彗星の如き速度で落下してくる。
「沢渡拓海氏!もはや一刻の猶予もありません!」
背後から、ヘリコプターで追跡してきた小夜子と跡部が、強烈なサーチライトの光と共に叫んだ。
「あの坂の頂上へ、あなたの実家のボロキッチンセットをヘリで空輸しました!あの上で、大根をトントン切るか、磨り潰さねば、あと三分で地球の核がクラッシュします!」
「やるしか……ねえのかよ!」
拓海は退路を断たれ、涙を拭い、トメさんの差し出したロケットママチャリの冷たいハンドルを握りしめた。右膝の古傷が、まるで歓喜をあげるかのように熱く「振動」を始める。
脳裏を過る、母の最後のあの言葉。――『前を向いて、走ってごらん』。
「おかん……見ててくれよ、俺の最初で最後の、大爆走を!」
拓海がペダルに全体重を乗せた瞬間、トメさんがサンダルでロケットの点火スイッチを蹴り飛ばした。
「轟ッ(ゴォっつっつ)!!!!」
鼓膜を粉砕せんばかりの爆音と共に、一筋の青白い劫火が夜闇を切り裂いた。
ガソリンと火薬の、噎せ返るような激しい「匂い」が周囲に炸裂する。
銀輪号は、斜度八十度のデス・スロープを、重力の法則を完全に無視して、文字通り垂直に「驀進」し始めた。
「うおおおおおッ!速すぎて顔の皮が剥がれるッ!マジで飛ぶ飛ぶ、飛ぶって!!!」
拓海は風圧に顔を歪ませ、絶叫しながら、必死にハンドルにしがみつく。
上空からは、跡部が「タクミくん、現在の最高時速二百八十キロ!マジ神、脳汁ドバドバっすわ!」とヘリから実況を飛ばし、小夜子は真顔で十字を切っている。
落下してくる障害物を、拓海は驚異的なハンドル捌きで回避し、かつて何度も転んだあの坂道を、今、光速の翼となって駆け上っていった。
それは、母への感謝と、己の生命を賭けた、驚天動地のクライマックスであった。
ロケットの推進力が尽きると同時に、銀輪号は激しい火花を散らしながら、坂の頂上――宇宙の深淵と直結した、天空の特設ステージへと滑り込んだ。
そこには、小夜子たちの手によって完璧に空輸された、実家のあの見慣れた、優しい匂いのする「ボロキッチンセット」が、不気味な星空の下でポツンと佇んでいた。
「はぁ、はぁ……やった、上りきったぞ……!おかん、俺は諦めずに、走ったぞ!」
拓海はチャリから転げ落ち、全身の筋肉の凄絶な疲労に耐えながら、歓喜の涙を流した。
ついにトラウマを克服し、世界を救うための最終防衛ラインへと到達したのだ。
しかし、安堵の涙が彼の頬を伝い、キッチンのまな板の上にポタポタと落ちたその瞬間、拓海は、自らの眼前に広がる光景に、言語に絶する驚愕を覚えた。
ヘリから降りてきた小夜子と跡部が、タブレットの画面を凝視したまま、魂の抜けたような貌で硬直している。
「……そんな、まさか……地球の防衛数値が、微塵も上昇していません。それどころか、宇宙からの消去エネルギーは、完全に『別の場所』から発せられています」
「え?何言ってんの?ここが一番宇宙に近い特異点なんじゃないの?」
拓海が困惑して叫ぶと、跡部がガタガタと震える手で、衛星画像が捉えた「本当の破壊の震源地」を指し示した。
「タクミくん、マジでごめん……。お母さんのレシピ本の、最後のページの注釈、今マッハで翻訳したらさ……お母さん……
『あ、ごめんね拓海。音が一番宇宙に届くのは、あの坂道の頂上じゃなくて、あの坂道から真南に三百キロ離れた、静岡県の『大井川鐵道の鉄橋の真ん中』だったわ!お母さん、また地理の縮尺を間違えて、コンパスの針をズラしてプロットしちゃった!テヘペロ!』って書いてある……。つまり、拓海君が命がけで駆け上ったこの激坂への挑戦は、『ただの無駄足であり、ただの斜度のきつい、普通の田舎の坂道』を命すり減らして昇っただけっすわ……」
「ただの無駄なヒルクライム(大坂昇り)かよーーーーーーーッ!!!」
世界を救う情熱の、完全なる空回り。
拓海の全霊のツッコミが、夜空に浮かぶ小さな星々に虚しく響き渡る中、ういんくちゃんの本隊は、拓海が上りきった坂道には目もくれず、遥か彼方の静岡県の上空で、今日一番の冷ややかなウインクをパチパチと輝かせていた。




