画餅なる平穏の蹉跌、或いは深淵より顕現せし「本物の」捕食者
国家を揺るがした天空の紫変が、一介の割烹着の主、即ち沢渡拓海の亡母・千代が仕掛けた未曾有の「悪戯」と、床下に蟄居せし老職人・五味源三の旺盛なる食欲に起因するものと判明した時、場を支配したのは言語を絶する「弛緩」であった。
拓海は、己の全霊を傾けた涙と決意が、一瞬にして泡沫の如く霧散していく虚脱感に襲われていた。
「マジで骨折り損のくたびれ儲け。おかん、あの世から俺をオモチャにして楽しいわけ?」
彼は自らの薄汚れたスウェットの袖で、未だ乾ききらぬ涙の跡を乱暴に拭った。
台所の床穴から這い出た源三は、へそ曲がりの極みといった貌で、拓海が投げ入れた大根の「匂い」の残滓を鼻腔で味わいながら、己の煤けた作務衣を叩いて埃を払っている
その傍らで、内閣府大根対策室の氷室小夜子は、国家最高機密が「主婦の悪ふざけ」に過ぎなかったという乾坤一擲の誤謬を前に、大理石の如き美貌を蒼白に染めて硬直していた。
「……あり得ません。内閣府のスーパーコンピュータが弾き出した破滅の数式が、ただのドッキリなどと……。私のキャリアに、取り返しのつかない瑕疵が……」
小夜子のプライドが音を立てて瓦解していく。
その横で、金髪マッシュの跡部翔太は、「いやー、拓海君のおかんマジで天才インフルエンサーじゃん、ネット民大歓喜っすよ」などと軽薄な言霊を叩き、端末の画面をスクロールしていた。
大気が元の静謐を取り戻し、一期一会の安堵が台所に満ちた、まさにその刹那であった。
彼らの足元、否、横浜の堅牢なる大地そのものが、先ほどの比ではない、文字通りの「地天変異」を伴って、激しく鳴動り始めたのである。
「トントン、トントン、トントン……」
家屋の柱をきしませ、鼓膜を執拗に穿つその「音」は、源三が包丁を叩く規則正しい鉄音ではなかった。
それは、地底の深淵、あるいは時空の裂け目から漏れ出づる、不浄なる生命の、悍ましき「足音」であった。
突如として、台所の床板が完全に陥没し、底なしの暗黒から、湿った泥と、饐えた鉄錆のような、およそこの世のものとは思えぬ、おぞましき「匂い」が噴出した。
「な、なんだよこれ!源三のじいさんはもう上にいるんだぞ!?」
拓海が悲鳴を上げながら、親友の純平の襟元を掴む。
純平もまた、その「感触」に恐怖し、腰を抜かしていた。
「拓海、ヤバい、マジでヤバい!床下からなんか『ホンモノ』の気配がログインしてきてるって!」
暗闇の中からゆっくりと、しかし圧倒的な質量を伴って現れたのは、五味源三などという矮小な人間ではなかった。
それは、体長、ゆうに五メートルを超え、無数の触手と、大根の葉を模したかのような緑色の鱗片に覆われた、真の異形――宇宙生物「ういんくちゃん」の尖兵(真の床下生物)であった。
小夜子は瞬時に、プロフェッショナルとしての冷徹さを取り戻し、懐から自動拳銃を抜き放った。
「総員、退避!跡部、これはどういうことです!千代氏の悪戯ではなかったのですか!」
跡部が青ざめた顔で端末を連打する。
その後ろで拓海は跡部の肩越しに見た。
「違う……!おかんのビデオのさらに後ろ、隠しファイルが今、強制アンロックされている!
『あ、ごめん、源三さんを住まわせてるっていうのも嘘で、本当の本当に、五百キロの宇宙怪獣が床下にいるの。お母さん、もう騙されないぞって思わせて油断させる、二重のブラフ(罠)を張ってみました!テヘペロ!』って書いてある!!!」
「おかん、どんだけプロの策士なんだよーーーーーーーッ!!!」
拓海の絶叫が響く中、本物の巨大宇宙生物は、飢餓の極みに達した眼光を爛々と輝かせ、その巨大な顎を開いた。
世界救済のフェイクは、ここへ来て「真実の破滅」へと変貌を遂げたのである。
「グルルルル……」
宇宙生物の放つ低周波の唸り声が、拓海たちの細胞を恐怖で縛り付ける。
怪獣の触手が、台所にあった冷蔵庫を紙細工の如く粉砕し、中から溢れ出た最後の大根を一口で咀嚼した。
「ガツッ!」という凄まじい「音」と共に、大根は瞬時に消失する。
しかし、それだけでは怪獣の満たされぬ胃袋を鎮めるには到底、足りなかった。
生物の視線が、今度は「最高重要防衛資材」である拓海へとロックオンされる。
「ひっ……!来るな、マジで無理、詰んだ、人生オワタ!」
拓海が四肢を震わせ、死を覚悟したその瞬間。
「どきやがれ、このド素人がッ!」
白髪のねじり鉢巻を震わせ、五味源三が、千代の遺した極上の和包丁を構えて怪獣の前に立ちはだかった。その姿は、一騎当千の武人の如く、神々しくすらあった。
「千代の嬢ちゃんには、あの世に行く間際、こう頼まれてんだ。
――『源三さん、私が死んで、拓海が本当の絶望に直面した時、この包丁で、あの子の『魂』を研ぎ澄ましてやって』ってなぁ!」
源三は、凄絶な「感触」を伴って、自らの手のひらを包丁の刃で切り裂いた。
鮮血が、白銀の刃に滴り落ちる。
「驚天動地の職人技、刮目して見やがれ!これぞ、宇宙のバグを調停する、真・一期一会のトントン音だ!」
源三が、台所のステンレスの流し台に向かって、神速の速度で包丁を叩きつけ始めた。
「トトトトトトトトトトトトッ!!!!」
それは、一秒間に数千回という、人間の領域をはるかに超越した超高周波の律動。
その「音」が空気の分子を激しく震動させ、宇宙生物の動きを完全に停止させた。
音波の障壁が怪獣を取り囲み、その肉体を空間ごと固定していく。
「拓海!ボーッとしてんじゃねえ!ワシが命を削って動きを止めている間に、そのボロ雑巾の心に火をつけろ!お前の母ちゃんが遺した『本当の遺産』は、その引き出しの奥にある!」
源三の叫びが、拓海の脳髄に、言語を絶する「覚醒」の火花を散らせた。
母が自分を困らせ、悪戯を仕掛け続けたのは、自分がこの過酷な現実に立ち向かうための「強さ」を育てるための、命がけの教育だったのだ。
拓海は涙を振り払い、千代の箪笥の、あの「重力が歪んだ引き出し」へと飛び込んだ。
拓海が渾身の力で引き出しを引くと、空間の「バグ」が弾け飛び、中から一冊の古びた、しかし神聖な光を放つ「ノート」が現れた。
表紙には、千代の丸っこい文字で『宇宙防衛・大根秘伝レシピ』と書かれている。
指先がその紙に触れた瞬間、母の温かい「匂い」が彼を包み込み、胸の空虚な穴が、完全なる使命感で満たされていく。
「これだ……これがおかんの、本当のメッセージ……!」
源三の超絶技法によるトントン音が限界を迎え、包丁が粉砕されるのと同時に、宇宙生物が再び狂暴化して咆哮を上げた。
「グルアアアアッ!」
「ここまでです……!」小夜子が絶望の声を漏らし、跡部も「マジで、ジ・エンドっすわ……」と目を覆った。
しかし、拓海はレシピの第一ページを開き、不敵な笑みを浮かべた。
拓海は勿論、内閣府も、そして宇宙生物すらも思いもしなかった、千代の「真の遺言」が、そこに刻まれていたからである。
《拓海へ。本物の怪獣が出てきて、びっくりした?でもね、お母さん、もっと大事なことを忘れてたわ。
この宇宙生物『ういんくちゃん』はね、実は、大根が大好物なんじゃなくて、『大根をすりおろした時に出る、あの独特のピリッとした辛み成分』が大の苦手な、超絶偏食の引きこもり怪獣なの。
だから、大根を『トントン』って切る音はね、怪獣を喜ばせる音じゃなくて、『今からお前の大嫌いな大根おろしを作って、お前の顔面にぶっかけてやるぞ!!!』という、お母さんからの「最大級の脅迫の音」だったのよ。
あの子、その音が怖くて、十年間床下でビブって静かにしてただけなの。
拓海! あなたならできるっ! 自分の部屋で、エロビデを見ながら、光速で右手を動かし続けたあなたならっ 鍛え上げた筋肉は嘘をつかないよっ。
さあ拓海、今すぐその辺にある『おろし金』を掴みなさい。そして、源三さんが食べ残した大根の切れ端を、マッハの速度ですりおろして、怪獣の鼻面に擦り込んでおやり!》
静寂が、再び台所を支配した。
切り札は、「プロフェッショナルな包丁捌き」でも、「地球の防衛システム」でもなかった。
ただの、民間伝承レベルの「大根おろしによる撃退」。
拓海は、虚脱感の向こう側で、神速の手つきでおろし金を構え、ボロ雑巾の心を爆発させて、宇宙怪獣に向かって全霊のツッコミを叫んだ。
「鍛え上げた右腕がこんなところで(害獣駆除で)役立つのかよーーーーーーーッ!!!」
拓海は、絶叫しながら猛烈な速度で右手を動かし、大根の、ツンとした強烈な「匂い」が室内に充満すると、宇宙生物は「キャーーーーーーンっ!」と情けない悲鳴を上げ、再び床下の闇の奥底へと、猛スピードで引きこもっていった。
元の静けさを取り戻した横浜の空で、お星様が、今日一番のドヤ顔で、いたずらっぽくウインクしていた。




