驚天動地たる紫天の変容、或いは法戮せし国家機密の跳梁
満天の星々が、まるで悪辣な詐欺師の如く一斉に「ウインク」を交わした狂乱の夜が明け、世界は更なる不条理の奈落へと滑落していった。
翌朝、二十六歳の沢渡拓海が、過呼吸気味の肺腑を震わせて窓簾を押し開けた瞬間、彼の視界を蹂躙したのは、一幅の地獄絵図、否、極彩色に歪められた「世界のバグ」そのものであった。
蒼穹の空は跡形もなく霧散し、天空は禍々しいまでの「紫色」に変色、それはあたかも、不純な液体に汚染されたサイバー空間の澱みの如く、不気味に、ゆっくりと蠢いていた。
大気そのものが、目に見えぬ巨大な音叉で叩かれたかのように微細に「振動」し、皮膚には常に、高電圧の静電気がまとわりつくような、ざらついた、忌むべき「感触」が残る。
「……嘘だろ。世界、完全にシステムエラー起こしてんじゃん。エグいって」
拓海が万年床の上で、呆然と自らの右膝に刻まれた、あのチャリで幾度となく転倒した「古傷」を摩っていたその時、居間の古びた受像機から、ひときわ冷徹な、しかし異様な緊迫感を孕んだ「音」が鼓膜へと滑り込んできた。
画面の向こう、生真面目な眼鏡をかけたニュースキャスターの宗方が、直木賞作家の描く悲劇の如き真顔で、この世の終わりを淡々と、然而冷酷に宣言していたのである。
「速報です。本日未明より、世界全土の天空が固有波長四百ナノメートルの『紫色』へと変色。大陸プレートは未曾有の共振現象を起こしており、内閣府はこれを『大根の不在に起因する宇宙的バグ』と発表。繰り返します。地球は、大根を失ったがために、消滅の時を迎えております」
「大根の不在って……何だよそれ。意味不すぎて草も生えないんだけど」
拓海が現代の若者特有の冷笑を浮かべ、自らの置かれた凄絶な悲劇から目を背けようとしたその刹那、玄関の頑丈な木扉が、乾坤一擲の勢いと共に「バキィン!」と内側へ向かって粉砕された。
一期一会の平穏は、ここに完全なる瓦解を迎えたのである。
硝煙の如き埃の「匂い」が立ち込める中、室内に乱入してきたのは、黒衣の礼服を寸分の狂いもなく着こなした冷徹無比なる女性官僚、氷室小夜子であった。
彼女の背後には、数人の屈強な黒服(SP)が、まるで肉体のオーロラの如く控えており、その中の一人、金髪マッシュの若きデータ分析官・跡部翔太が、何食わぬ顔で最新型の端末を操作している。
小夜子は、磨き抜かれた漆黒の革靴で床板を鳴らし、拓海に対して、一刀両断の如き鋭利な視線を突き刺した。
「沢渡拓海氏。内閣府大根対策室(IDR)は、ここにあなたを国家緊急事態における『最高重要防衛資材』として徴用、並びに身柄の完全拘束を執行します」
「いやいや、待てって!不法侵入だし、マジで警察呼ぶから!っていうか、あんた誰だよ!」
拓海は恐怖に腰を抜かし、這うようにして後退りするが、小夜子の冷徹な聲音は、彼の退路を容赦なく遮断した。
「無駄な抵抗は、己の無知を披瀝するだけに過ぎません。先ほど、お母様の最後の手紙により
『床下の巨大宇宙生物』の存在が発覚しましたね。事態は一刻を争うのです。跡部、データを提示しなさい」
「了解っす。タクミくん、これマジでリアルガチなやつだから、刮目して見てね(⋈◍>◡<◍)。✧♡」
跡部がチャラついたスラングを交えながら提示した画面には、地球を取り巻く磁場が、まるで糸の切れた凧の如く四散していく様が、冷酷な数値として視覚化されていた。
「あのさ、千代さんが床下で飼ってた二百キロの生物、あれの足音が鳴り止んだせいで、宇宙の管理者である『ういんくちゃん』が、地球を『不要なデータ』と見なしてゴミ箱にポイしようとしてるわけ。現在の世界防衛成功率は、驚異の『零パーセント』。完全なる詰み(デリート)まで、あと、三十日しかないんすよ」
小夜子は、冷たい鉄の「感触」を帯びた声で付け加えた。
「母・千代氏が遺したあの生物に餌を与え、あの『トントン』という、宇宙の因果律を調和させる高周波の足音を再現できるのは、そのDNAを継承する、あなたしかいない。これは選択ではなく、義務です。さあ、今すぐ厨房へ赴き、大根を刻みなさい」
「できるわけねえだろ!俺はただの無職だぞ!心はボロ雑巾で、胸に穴が空いてんだよ!」
拓海は、自らの胸部に生じた空虚な陥穽を鷲掴みにするポーズを取り、血を吐くような悲鳴をあげた。
しかし、小夜子は表情一つ変えず、懐から一筋の光明、否、一本の古びた記録媒体(USBメモリ)を取り出し、端末に挿入した。
「では、これを見ても同じことが言えますか。お母様が、あなたのために遺した、国家最高機密の『遺言ビデオ』です」
画面が切り替わり、そこには、いつもの見慣れた、少しぽっちゃりとした体型に割烹着を着た母・千代の姿が映し出された。
キッチンの優しい「匂い」が、映像の向こうから漂ってくるかのような錯覚に、拓海の胸が激しく締め付けられる。
画面の中の千代は、相変わらずいたずらっ子のように微笑み、カメラに向かって手を振っていた。
『拓海、元気に引きこもってる?お母さんね、あなたがこれを観てるってことは、もうこの世界にはいないのかもね。でもね、心配しないで。あなたがどんなに迷惑ばかりかけて、お母さんを困らせてばかりのバカ息子でも、お母さんはあなたのことが、いっぱいいっぱいいっぱい、大好きだったよ。だからね、あなたがこれからも前を向いて走れるように、お母さん、最後のプレゼントを遺しておいたからね。画面の横の、小夜子さんっていう綺麗な女の人を信じなさい。そして、お母さんが床下に隠したあの子に、特製の『大根』をプロフェッショナルに与え続けるのよ。拓海、あなたなら、世界を救う最高のブリーダーになれるわ。ありがとう、私のところに来てくれて、私の息子でいてくれて……』
映像の終わり際、千代はいたずらっぽくウインクをして、光の中に消えていった。
「おかん……」
拓海の目から、止めどなく涙が溢れ出した。
どんなにつまらない日常でも、母は常に自分を照らす太陽であり、見守ってくれる月光であったのだ。
不器用極まる母の巨大な愛に触れ、拓海の魂は激しく震動し、彼は涙を拭って立ち上がった。
「分かったよ……。やればいいんだろ、やれば!俺がおかんの代わりに、あのバケモノに大根を食わせて、あのトントン音を取り戻してやるよ!」
「賢明な判断です。これより、IDR公認『床下生物飼育計画』を開始します」
小夜子の瞳に、微かな、しかし確かな信頼の光が宿ったように見えた。
拓海は、大覚青果店から緊急輸送された、新鮮な青首大根の瑞々しい「匂い」を嗅ぎながら、実家の古い台所の床板を剥ぎ取った。
暗闇の奥底から、ドロリとした、未知の生命体が放つ粘着質な気配と、巨大な質量が蠢く「音」が伝わってくる。
「よし、待ってろよ、宇宙生物。今、おかんの代わりに極上の大根をくれてやる!」
拓海は、涙の滲む目で、五味源三が研ぎ澄ました千代の和包丁を握りしめ、魂の叫びと共に、巨大な大根を床下の暗黒へと放り投げた。
「喰らえ!地球の命運をかけた、特大のエサやりだ!!!」
大根が暗闇に吸い込まれた瞬間、床下から「ガツ、ガツ、ガツ!」という、凄まじい咀嚼音が響き渡り、続いて、世界を救うはずの、あの規則正しい「トントン、トントン」という足踏みの音が、家屋を、そして横浜の街を心地よく揺らし始めた。
「やった……!成功だ!」
跡部の端末のメーターが、防衛成功率「百パーセント」へと急上昇していく。
紫色の空が、徐々に元の美しい青空へと収斂していく様を見て、小夜子も、純平も、歓喜の声をあげた。
しかし、その安堵も束の間、床下の暗闇から、大根を喰らい尽くした巨大宇宙生物が、その「真の姿」を現すために、ゆっくりと地上へと這い上がってきた。
その姿が、キッチンの蛍光灯に照らされた瞬間――拓海は、己の全細胞が凍りつくような、言語に絶する驚愕に直面した。
暗闇から現れたのは、悍ましい触手を持ったエイリアンでも、未知の怪獣でもなかった。
それは、白髪のねじり鉢巻をきっちりと締め、傷だらけの手を腰に当てて、不機嫌そうに大根の葉を齧っている、あの老舗包丁職人の五味源三(六十八歳)その人であった。
「……は?え?源三の、じいさん……?」
拓海が完全に脳内をクラッシュさせて凝視する中、源三は「ペッ」と大根の葉を吐き出し、江戸っ子口調で怒鳴り散らした。
「バカ野郎!誰が宇宙生物だ!ワシは千代の嬢ちゃんに頼まれて、十年前からこの床下の地下特設鍛冶場で、毎日二十四時間、命がけで地球防衛用の『トントン重低音包丁』を叩き続けてたんだよ!お前らがさっきから大根だの手紙だの騒ぐから、腹が減って、思わず飛んできた大根を喰っちまったじゃねえか!ワシはただの、腹ペコの包丁職人だ!!!」
「え、じゃあ、おかんの言ってた『体重二百キロの巨大生物』って……」
拓海が震える声で問い詰めると、跡部が青ざめた顔で端末を叩いた。
「あ、タクミくん、マジごめん……。千代さんのビデオデータの後半、今デコードできたらさ……おかん、『あ、ごめん、巨大生物っていうのは嘘で、ただ床下に住まわせてる、よく食べる大食いの源三さんのことね!星のウインクはただの人工衛星の反射よ!』って言ってるわ……。つまり、これ全部、千代氏の盛大な『いたずら』ですね……」
「ただの世界規模のドッキリかよーーーーーーーッ!!!」
世界を巻き込んだ不条理な狂言。
拓海の全霊のツッコミが響き渡る中、元の青空に戻った空で、お星様が、まるで千代の笑顔のように、いたずらっぽくウインクしていた。




