落魄の朝、あるいは形骸化せし時計の臍
薄明の帳が横浜の空を紫紺から白磁へと染め変える頃、二十六歳の沢渡拓海は、自らの肺腑に溜まった澱のような呼気を吐き出した。
四畳半の牢獄、否、自室の万年床は、すでに彼の怠惰と絶望の脂汗を吸い尽くして久しい。
心はまさに「ボロ雑巾」の如く、辻褄の合わぬ無常の風に引き裂かれ、その胸の真ん中には、他愛もない日常が剥落したことで生じた直径十センチばかりの虚無の陥穽が、暗渠のように口を開けていた。
母・千代がこの世を去って一週間。
かつて彼を無慈悲な睡魔から引き剥がしたのは、階下の厨房から規則正しく響く「トントン」という、大根を刻む真鍮の如き乾いた音だった。
あの乾坤一擲の律動こそが、彼の五感に朝の到来を告げる一義的な目覚まし時計であり、青首大根の生命力が包丁の鋼と擦れ合う瞬間に放たれる、あの微かに青臭くも、どこか蠱惑的な優しい「匂い」が、生への執着を辛うじて繋ぎ止めていたのだ。
「……あー、マジでエグい。視界全部にモザイクかかってんね、これ」
寝返りを打つと、古びた綿布団が皮膚にざらついた「感触」を残す。
それはかつて、自転車で幾度となく転倒し、挫折の泥に塗れたあの坂道の記憶を呼び覚ます。
諦倦の沼に沈む彼のズボンの埃を払い、「前を向いて、走ってごらん」と微笑んだ母の、いたずらっ子のような貌は、今や忘却の彼方へ風化しつつあった。
彼は完全に精神の「落魄」を迎えていた。
昼下がり、乾いた静寂を破ったのは、親友の純平による無遠慮な訪問だった。
「おい拓海、お前いつまでそうやって引きこもって、己の殻に収斂してんだよ。世間は今、空がアングラな紫色になってて、マジでディストピアみたいな状況だぞ」
純平の語彙は、現代の若者特有の諦観と軽薄さを孕んでいた。
「うるせえよ。俺の心は今、完全にチルアウトの向こう側、つまり虚無。世界がどうなろうが、俺の知ったこっちゃないわけ。ぶっちゃけ、詰んでるから」
「冷笑気取ってんじゃねえよ! お前がそうやって身を持ち崩してる間も、世界は進んでる。」
「ガガガガガ…」
「ん?なんだこの音?」
桐の箪笥の抽斗からは、謎過ぎる機械音」
「おばさんの部屋の引き出しからかよ、明けていいか? あれ、なんだこれ、なんかヤバいことになってんぞ。びくとも開かねえ。まるで空間が『バグ』ってるみたいに重力が歪んでる」
純平に背中を押され、拓海は重い四肢を引き摺って母の遺品が眠る部屋へと向かった。
四文字熟語を衒学的に並べ立てるマスターのいる純喫茶で、かつて母が語っていた「秘密の隠し場所」が、まさにこの箪笥の引き出しであったことを思い出す。
触れようとしたその瞬間、家屋が激しく「振動」した。
世界が、物理的なエラーを起こしているかのような不協和音が鼓膜を刺す。
「なんだ、この超常現象な揺れは……!」
「拓海、窓の外を見ろ!星が……朝なのに、あの星がパチパチ瞬いてる。まるでお前を嘲笑うかのように、ウインクしてやがる!」
その時、玄関の扉が、の平穏を粉砕する勢いで蹴り開けられた。
入ってきたのは、黒衣の漆黒スーツを身に纏い、冷徹無比な眼差しを向けるキャリア官僚、氷室小夜子。
そして、その後ろでスマホを弄る金髪マッシュのチャラ男、跡部翔太であった。
「沢渡拓海氏ですね。内閣府大根対策室(IDR)です。国家安全保障の観点、否、地球存亡の時において、あなたの身柄を拘束、および超法規的措置として徴用します」
小夜子の声音は、冷たい氷柱の如く鋭利で、一切の感情を排していた。
「は?意味不なんだけど。警察呼ぶよ?」
拓海が青ざめる中、跡部がタブレットを突きつける。
「いや、マジでリアルガチな話っすよ、タクミくん。お宅のおかん、千代さんが毎朝やってた『大根のトントン音』って、宇宙のバグ、通称『ウインク』が地球をデリートしようとする滅亡シグナルを相殺する、唯一の超高周波(1/fゆらぎの変種)だったんすよ。それが一週間前に途絶えたせいで、今、世界の物理法則が完全に崩壊しかけてるんすわ」
「嘘だ……。おかんはただの、大根を千切りにするのが少し上手いだけの、冴えないババアだったはずだ!」
「疑う余地はありません。これが、国家が秘匿してきた驚天動地のファクトです。五味源三という偏屈な包丁職人も、あなたの覚醒を待っています。さあ、その心根にボロ雑巾のようにに空いた穴を埋めたくば、包丁を握り、世界救済のトントン音を響かせなさい!」
小夜子の言葉は、拓海の脳髄に、言語を絶する「驚愕」と「恐怖」の火花を散らせた。
母が残した最後の「抽斗」は、この不条理な宇宙の運命を開く鍵だったのだ。
拓海は混乱の極みに達しながらも、小夜子が持参した、母のナノデータが組み込まれた「最後の手紙」に手を伸ばした。
指先がその紙片に触れた瞬間、母の優しい「匂い」が時空を超えて鼻腔を突き、彼の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「そんなつもりはないのに……」
感情の波が氾濫する。
涙はボタボタと手紙の上に落下し、千代の筆跡をエモく、そして切なく、滲ませていく。
いつも迷惑ばかりかけて、困らせてばかりだった。
その贖罪の念が、現代的な絶望のハイ文脈となって彼の胸の穴を焦がす。
しかし、涙が文字に触れて極限まで「滲んだ」その刹那、手紙の表面が液晶画面のように冷徹に発光し、ドクター馬場が予言したデジタル回路が起動した。
そこに浮かび上がったのは、母からの最後のメッセージ、そして――世界の真実であった。
《拓海へ。ありがとう、私のところに来てくれて。でもね、お母さん、あなたにずっと言えなかった「大きなの秘密」があるの。
実はね、あなたが毎朝聞いていたあの『トントン』っていう音。あれ、お母さんが包丁で大根を切っていた音じゃないのよ。
お母さん、本当は料理が壊滅的に下手くそで、大根なんて一度もまともに切ったことがないの。
あの音はね、あなたの部屋の真下、キッチンの床下にずーーーっと隠して飼っていた、『もの凄く大根を食べるのが早くて、咀嚼する時に「トントン」って足踏みしちゃう、体重二百キロの未知の巨大宇宙生物(UMA)』の足音なのよ。
お母さんが死んじゃったから、あの子、今お腹が空いて拗ねて暴れてるだけなの。だから世界が揺れてるのね。
さあ拓海、前を向いて、今すぐ冷蔵庫から大根を掴んで、床下に放り込んでごらん!》
静寂が、部屋を支配した。
拓海、純平、小夜子、そして跡部の四人は、開いた口が塞がらぬまま、互いの顔を見合わせた。
地球を救うのは、息子の愛を込めた「包丁捌き」などではなかった。
ただの、ペットの「餌やり」の失念。
拓海は、涙で濡れた手紙を握りしめ、ボロ雑巾の心で、虚空に向かって全霊のツッコミを叫んだ。
「ただのUMAの餌やりの催促かよーーーーーーーッぃぃ!!!」
窓の外で、お星様が、一段と激しく、いたずらっぽくウインクしたような気がした。




