アルベストへ
海賊船ローグクランク号の船長室。その豪華な椅子にジンは座っていた。
血だらけの身体は、小間使いのような女性たちによって処置されている。彼女たちは無言で動き、手際よく傷口を清めたり、包帯を巻いたりしていた。ジンは彼女たちをちらりと見やりながら、部屋全体に視線を巡らせる。
(……奇妙だ。)
船長室で感じるこの奇妙な違和感。その理由を考えながら、ジンは目に映るものを観察していた。
まず、女性乗組員たちの存在だ。今まで甲板や船内で見た限り、この船には男ばかりの荒くれ者が集まっているように見えていた。
それだけに、この部屋でセスナ以外の女性たちを見たのは意外だった。彼女たちは戦闘の気配など一切なく、船長の身の回りの世話をする役割のように見える。
そして、この部屋そのもの。ジンの想像する海賊の船長室とはまるで違っていた。
室内は隅々まで整理整頓されており、埃ひとつ見当たらない。壁には海図が丁寧に張られ、どこか計画性を感じさせる配置がされている。
そしてその横には、奪ったのか、それとも自ら描かせたのか分からないが、海賊らしい風貌の男の肖像画が飾られている。荒々しさを演出しているつもりなのか、それとも単なる趣味なのか――どちらにしても、この空間にそぐわない不自然さがあった。
(本当にここは「海賊船の船長室」なのか……?)
さらにジンの視線はテーブルの上へと移る。そこには、彼がこの部屋に入る前から置かれていたグラスがあり、中には濃い色の葡萄酒が注がれていた。手をつけられた形跡もなく、そのまま飾られているように見える。
(見せかけ、か……? それとも、こうであるべきだと思い込んでいるのか。)
まるで「船長室とはこうあるべきだ」と誰かに言われ、その通りに作り上げた部屋のようだった。機能性はあるが、どこか表面的で、本心が見えない。それがジンに奇妙な違和感を抱かせていた。
傷口を縛られる痛みをこらえながら、ジンは改めて目の前に広がる空間を眺めた。この部屋には、セスナという船長の人格そのものが反映されているように思えた――表向きは整然としていながら、その奥底に何か隠された本性があるように感じられる。
ジンは椅子に座ったまま、周囲をキョロキョロと見回していた。船長室の隅々まで視線を走らせるが、どこか居心地の悪さを感じる空間だ。
向かいの椅子に座るセスナは、そんなジンの様子を無表情でじっと見つめていた。彼女の視線には感情が見えず、冷たい静けさだけが漂っている。
沈黙が続く中、部屋に響いているのは、小間使いの女性たちの微かな話し声や、ジンの傷口を処置する布や道具が動く音だけだった。その音がかえって不気味な静けさを際立たせていた。
やがて、応急処置を終えた小間使いの女性たちは手を止め、セスナの方を向いた。セスナは静かに彼女たちに言葉をかけた。
「手間をかけたな。もう下がって休んで構わない。」
セスナの声は穏やかだった。女性たちは無言で頷くと、部屋の隅に歩み寄り、床を探るように動き始めた。
そして、隠し扉が現れると、次々とその扉を潜り、下へと消えていった。
ジンはその様子を目で追いながら、口を閉じたまま思案する。隠し扉の存在、女性たちの無言の動き、全てが不自然に感じられた。
「彼女たちは私の世話係だ。」
セスナが唐突に口を開いた。その声にジンは目線を向ける。
「乗船していること自体を知らない者も多い。海賊どもは、自分より強い者には従うものだが……欲望の前ではそれができない者もいる。」
セスナの口調には軽蔑の色が滲んでいた。無表情のまま話すセスナの姿が、その言葉に説得力を与えている。
ジンはセスナの言葉を受け流しつつ、口を開いた。
「そうですか……まあ、それはそちらの事情なので置いておきます。それより、約束は守っていただけるんでしょうか?」
ジンの問いに、セスナは静かに頷いた。
「守るさ。お前は私に誘われて船に乗り、仲間になった。つまり海賊になった。そして、私は決闘によって負けた。自ら受けた条件だ……従うしかない。」
その言葉には屈辱的な響きはなく、ただ事実を述べているに過ぎないようだった。セスナの冷徹さを感じながら、ジンは一息ついて本題を切り出した。
「良かったです。それではまず、刀を返していただければ。」
ジンがそう言うと、セスナはテーブルの下に手を伸ばした。そして、ジンの刀を掴むと、そのまま無造作にジンへと放り投げた。
「ほら。」
刀は空中で回転しながら、ジンの手元に向かって飛んでくる。
(投げるなよ……。)
ジンは内心で呆れながらも、面倒を避けるため素直にそれを受け取った。そして、刀を確認すると、近くに静かに置いた。
だが、セスナの無表情な視線が自分に向けられ続けていることに気づき、再び警戒心を覚えた。
(この人間は……何を考えている?)
目の前のセスナには敗者らしい悔しさもなく、ただ冷静で無感情な態度を保っている。それがかえって不気味だった。
「その刀は不思議だな。私がいくら鞘から抜こうとしても、まったく抜けなかった。お前以外は抜けないものなのか?」
セスナの言葉にジンは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに困惑の表情に変わった。
「そうなんですか? いや……すみません、実は私もよく知らないんです。」
ジンは正直に答えた。実際、この刀について詳しいことを知っているわけではなかった。
そもそも他にこの刀を抜こうとした者などおらず、唯一の例外はランだった。彼女に貸したときには問題なく抜けていた記憶がある。
(ソルメーラの力を受けた人間だけが抜ける……? いや、それなら俺自身も抜けないはずだ。ソルメーラからもらった力は、この刀そのものだったんだから。)
頭の中に浮かぶ疑問がぐるぐると巡り始める。セスナが嘘を言っている可能性も考えたが、彼女の態度を見る限り、それはなさそうだった。
「まぁいいさ。疑問に思っただけだ。」
セスナはそう言うと、特に気にする様子もなく話を続けた。
「私が持つ神器は『ニンニル』と呼ばれている。元々は私のものではなかったが、色々あって今は私が愛用している。それを使うのに特別な条件なんて必要なかったんでな。」
ジンはセスナの言葉に耳を傾けながら、刀の謎について適当な理由を作る必要があると考えた。
「確かに気になりますね。持ち主の私が知らないのは……ちょっと恥ずかしいですが。これも貰い物なので、元の持ち主が何かしてくれたのかもしれません。」
ジンはそう言いながら、内心で安堵した。適当に理由をつけて、セスナに嘘をつくことに成功したと思ったからだ。
(刀が抜けない理由なんてどうでもいい。俺にとって不都合がないなら、それで十分だ。)
セスナはジンの言葉に一瞬考える素振りを見せたが、すぐに肩をすくめるようにして話を切り替えた。
「貰い物ね……まぁいい。これで刀は返した。後は船だったな?」
ジンはその言葉に頷き、さらに話を進めようとしたが、セスナの次の問いが彼の動きを止めた。
「だがお前はアルベストに行くんだろう? 最初にドルガンからそう聞いたが。」
「? はい。そうです。この刀をくれた人が、アルベストなら自由に暮らせる場所があると教えてくれました。そして、この刀があれば結界をどうにかできるとも。」
ジンは簡潔に答えながら、セスナの視線を伺う。彼女はその答えに満足したように頷き、次の瞬間、驚くようなことを口にした。
「なら渡す船は、このローグクランク号だ。そして船員、あと私がおまけだ。」
ジンは目を見開いた。
「……え?」
セスナは微笑みを浮かべ、静かに言葉を続けた。
「私はお前に負けた。この船も船員も、そしてこの私もお前のものだ。どう使うかは好きに決めるがいい。」
ジンはその言葉にしばらく呆然としたままだった。彼女の微笑みには、悔しさも屈辱もなく、むしろ誇りすら感じられるようだった。
「いえ、有難い申し出ですが、大丈夫です。約束の小舟をください。」
ジンは心の底から拒否の意思を告げた。その声には迷いも遠慮も感じられない。
航海の知識もあり、立派な船、そして食料にも困らない。セスナが言うように、この船を使えばアルベストへの到着は容易だろう。それでもジンは拒絶した。
(……相手は海賊だ。しかも、ついさっきまで殺し合いをしていた連中だぞ。)
セスナがどうであれ、他の海賊たちが納得するとは限らない。むしろ、先の決闘でセスナに勝った自分に反発心を抱く者がいるのは容易に想像できた。さらに行き先は「呪われた大陸」。無用なトラブルになる可能性があるなら、避けた方がいいに決まっている。
ジンの言葉に、セスナはほんの少し眉を寄せ、不機嫌そうな表情を見せた。
「断る理由も察するが、元々一人、小舟に乗っての航海でここにいるんだろう? 今の航海位置なら、この船と船員たちであれば、時間もかからずアルベストに行ける。それでも断るのか?」
セスナの言葉には苛立ちとわずかな説得の意思が滲んでいたが、ジンは首を横に振った。
「むしろ大丈夫なんですか?」
ジンはセスナの目を見据えながら続けた。
「煽るつもりではないんですが……先の決闘で私に負けた船長が、今度は呪われた大陸に向かうと言ったら、不満を抱く船員もいるんじゃないですか? さっきの女性方を、船員の目に届かないようにしている理由だって、歯止めが効かない者がいるからでしょう?」
セスナはその言葉に少しだけ目を細めたが、すぐに軽く肩をすくめるような仕草を見せた。
「そこに関しては心配しなくていい。」
ジンの予想を覆すように、セスナははっきりと答える。
「お前も私も、襲われようが自分で何とかできるだろう? それに、アルベストの結界をどうにかできるという話をすれば、船員たちはむしろ喜んで向かうさ。私たちは、いつか大陸に戻れることを夢見て航海しているんだからな。」
その言葉に、ジンは眉間に皺を寄せた。
(……それなら、最初からきちんと話を聞いてくれていれば、わざわざ戦う必要なんてなかったんじゃないか。)
ジンが心の中で皮肉を浮かべた瞬間、セスナは微かに口元を緩めた。その表情は、まるでジンの考えを見透かしているかのようだった。
「それはそれ、これはこれだ。お前が語ることは信用できなかったからな。」
セスナの声には、わずかな冷たさと、それを覆うような静かな熱が混じっていた。
「だが、実力を知り、お前がそれを成し得る力を持っていると分かった。だからこそ、私も行動に移せる。お前の存在があれば、船員たちに私の言葉も響くだろう。」
セスナは淡々と話しながら、ジンの目を見据えていた。その瞳には確固たる意志が宿っている。
「結果として、お前が懸念している行動――つまり、私との戦いも目的のためには必要だったということだ。もっとも、お前の真の目的が別にあることくらいは分かっているがな。」
セスナの言葉に、ジンは内心で軽い動揺を覚えたが、表情には出さなかった。彼女はジンの目的を深く追及するつもりはないようだ。ただ、利害が一致する以上は協力しようという姿勢を示している。
ジンは少し考え込んだ。
(確かに、この船とセスナが持つ力は頼りになる。トラブルは避けられないかもしれないが、武力が全てのこの船なら、その場その場で何とか対処できるだろう。)
悩んだ末、ジンは決断した。
「分かりました。協力しましょう。共にアルベストに向かいましょう。」
ジンはセスナと手を握り交わした。しかし、ジンの心の奥底には一つの秘めた考えがあった。
(この刀は俺にしか使えない。……最悪、俺一人でも辿り着ければいい。)
セスナにはそのことを黙ったまま、話し合いは終わった。
部屋を出たジンを待っていたのは、興奮した様子のドルガンだった。
「てめぇ!! お頭との決闘で、床を望んだってのは本当か!? この外道が! 今まで何してやがった! ぶち殺してやる!」
怒りに燃えるドルガンは、凄まじい剣幕でジンに迫った。しかし、その体はガンザによって必死に押さえつけられている。
「ドルガン~他の連中に騙されてんだよ。何かしてたら外まで聞こえるだろ? 何もねぇーよ、多分。」
ガンザは適当にあしらうように言うが、その言葉にドルガンは一瞬動きを止め、表情を曇らせた。
「外まで……聞こえる……?」
次の瞬間、ドルガンの顔は赤くなり、ガンザに向き直る。
「ガンザァ!!! てめぇ、何言ってやがる! お頭はそんな人じゃねぇ! 床でも乱れることなくなぁ……凛とした威厳を持ってんだ……んで、時折恥ずかしそうに声をな……」
ドルガンの妄想に、ガンザは呆れたように溜息をついた。
「ドルガン……おめぇ、他の連中と変わらねぇじゃねぇか。」
そんなやり取りを聞きながら、ジンはため息をつき、口を開いた。
「あの、とりあえず俺は何もしてないですよ……。船長と結んだ約束は、この刀の返却とアルベストへの航海だけです。」
ジンの冷静な説明に、ドルガンは妄想から現実へと引き戻された。そしてセスナが無事であることを知ると、安心したように歓喜の声を上げる。
しかし、ガンザはジンの言葉の中で「アルベスト」という単語に反応し、驚きの表情を浮かべた。
「……呪われた大陸に? 正気かぁ?」
ガンザの問いに、ジンは静かに頷いた。
「ええ、勿論です。それが俺の目的です。そして、船長もそれについてくると。さらにこの船の船員たちも一緒に、という話です。」
ジンが淡々と説明する間、ガンザとドルガンは驚いたように顔を見合わせた。
ジンはドルガンとガンザのやり取りを背後に残し、そっと歩き出した。甲板の二階から階段を降りようとしたその時、下に集まった多くの海賊たちが自分を見上げていることに気づいた。
彼らの視線には、友好的とは言い難い空気が漂っていた。険しい表情や探るような目――それぞれの思惑が込められているようだった。
(……さて、どうしたものか。)
ジンは階段の上で足を止め、どう対応するかを考えた。そんなジンの背後から、セスナの声が響き渡った。
「聞け!」
その一言で、ざわついていた海賊たちが一斉に静まり返った。セスナの声には、彼女がこの船の長であることを示す力が込められていた。
「私は、そこにいるジンに約束を――誓いを立て、そして敗れた。」
セスナの声は力強く、甲板全体に響き渡った。ジンはその言葉を聞きながら、何となく嫌な予感を覚えた。
「ジンは少し前に、私たち――海賊の仲間になった。海賊の掟に従い、約束を懸けた決闘の末にな。」
(仲間になった? ……いや、望んだのは小舟だったんだけど。)
ジンは心の中で突っ込みを入れつつも、他の海賊たちと同じように静かにセスナの言葉を聞き続けた。
「ジンが私に望んだのは二つ。刀の返却とアルベストへの足だ。私はその約束を守り、結界を破り、アルベストへ向かう。」
セスナは一拍置き、さらに続けた。
「船の長として向かうが、あくまで敗れたのは私だ。掟に従うなら、長の意思は船の意思。だがお前たちにも選ぶ権利はある――降りたい者は好きに小舟を使え。」
セスナの凛とした声は、彼女の意思を明確に伝えていた。そして次の言葉で、海賊たちの運命をさらに動かした。
「だが、一つ言おう。結界を超えた先に行けると――そう確信がある。」
その言葉に、一瞬の静寂が訪れた。しかし、次の瞬間には歓声が甲板全体を包み込んだ。
「長年の悲願だ! 呪われた大陸だろうが構わないぜ!」
「くぅ~! 大陸には色んな町や娯楽があんだろ!? 俺は島生まれだから知らねぇんだよ!」
「……ああ! すげぇぞ! アルベストも同じかは知らねぇが、キレイな女を抱ける場所もありゃ町には酒場だらけだ! 見たこともねぇ姿した人間みたいな奴らもいるぜ!」
「俺たちゃ海賊~♪ 海を行く~♪」
肩を組んで歌い出す者、理由の分からない叫び声を上げる者――歓喜に包まれた海賊たちは、それぞれ思い思いの形でこの知らせを受け止めていた。
(……誰一人、反対する者がいないのか?)
ジンは歓声に包まれる海賊たちを見下ろしながら、彼らの反応に少し驚いていた。まるでアルベストという地名だけで、全員が心を一つにしたかのようだ。
その様子を見ながら、セスナはゆっくりと口を開いた。騒ぎの中でも、その声は不思議なほどよく通り、全員の耳に届いた。
「進路変更。向かうはアルベストだ。」
その一言で、歓声はさらに大きくなった。海賊たちの熱気が甲板を揺らすようだった。
(これがセスナの力か……。)
ジンは改めて、セスナのカリスマ性に驚きを覚えた。彼女の言葉一つで、この荒くれ者たちが一つの目標に向かう意志を固める。ジンが最初に感じた「奇妙な船長」という印象は、少しずつ形を変え始めていた。
(しかし……本当にうまくいくのか?)
ジンの胸には一抹の不安が残っていた。セスナや船員たちの意気込みは十分だが、「呪われた大陸」アルベストがその通りの恐ろしい場所なら、この勢いが逆に仇となる可能性もある。
だが今は、それを言葉にする気はなかった。ジンは歓声の中で静かに立ち尽くし、行く先の見えない航海に向けて心を引き締めていた。




