1、サロンへご招待
激しい耳鳴りで目を覚ました。それは街角の雑踏の、群衆のざわめきのようだった。
洞窟の外に這い出して、まず目に飛び込んできたのは、太陽の照りつける砂浜に漂着した一艘のボートだった。それから少し離れた沖の方に、二艘の巨大な船が、立派な旗をはためかせて停泊しているのが見えた。
私はその場に凍りついたように動けなくなった。その時、私はすぐ後ろで、誰かが呟くのが聞こえた。
「陛下…?」
私は振り返った。そこにはボンドが立っていた。皺だらけの彼の顔には、驚愕と困惑とが同時に現れていた。
私の心に現れた最初の感情は、この奇跡の再会に対する喜びでも、ボンドが生きていたことに対する感謝でもなく、ただひたすら「恥ずかしい!」と言う感情だった。今身につけているカニの服は、少なくとも感動の再会に時にふさわしいものでは無かったー
私はボンドの視線を避けるように、自分がどういう顔をするか決めるための時間を稼ぐべく、見慣れた景色を落ち着きなく、意味もなく見回した。
「陛下」しかし、そのずる賢い態度はかえって、ボンドに確信させただけだった。「陛下なのですね」
私は突然泣きたくなった。嬉しさと恥ずかしさとで頭の中は煮えくり返っていた。ボンドが一歩前へ進み出た。私は何かを言おうとしてー瞬間、言葉を呑んだ。ボンドがひざまづいて、深く頭を垂れたのだ。
「国王陛下、あなたこそ、国王陛下です」
「やめてくれ」私は怯えていた。「人違いだ」
ボンドは同じ姿勢のまま答えた。
「私があなたを見間違えるはずがありません」
ボンドの声は震えていた。「わたくしめは、生涯あなたに仕えてきた身ー」
「違うんだーもう違うんだ!」
私はボンドの反対方向に走り出した。
「陛下!お待ちください!」ボンドの声が響いた。「陛下!陛下!」
私は追いかけてくる数人の男たちを見た。一様にみすぼらしい成りをして、腰には短剣や銃を携えている。
私は何度も足を縺れさせながら、灰の森へ駆け込んだ。蛇を踏みつけ、切り株につまづきながら、無我夢中で前進した。しかし奥まで逃げ込むほどの体力は、私には残されていなかった。
焦げた切り株の影に身を滑り込ませ、荒い息を抑えながらそっと海の方を振り向いた。追っ手の姿は見えなかった。黒焦げの木立の合間から、海風に翻る国旗が見えた。
「久しぶりだて…」酒焼けしたしゃがれ声に、心臓がとまった。
男が私の後頭部に硬い銃口を突きつけていた。モアイのように彫りの深い顔をして、さえない鳶色の瞳をわざとらしくぎらつかせ、この暑いのに擦り切れた毛皮の服をこれ見よがしに着込んで、腰には牛肉を乾燥させて作った汚いベルトを巻きつけ、干からびたなめし革のブーツを履いている。そのほほには、猫にひっかかれたような、三本線の傷跡があった。間違いないー彼は、あの日見張り台で不気味な歌を歌っていた、あの男だ。
震える両手を挙げると、男は私の蟹の義手を舐め回すように見つめて、「こりゃあ傑作だてーおい、おめえが作ったのけ?」
私は必死に頭を縦に振った。男が笑うと、銃口も一緒に揺れた。腰の短剣がこすれ合って重たい金属音を立てた。
男は私の右腕から鋏を引っこ抜くと、それを地面に叩きつけた。それは本物の武器を前にして、滑稽なおもちゃ以外の何物でもなかった。私はおかしくなって男と一緒に笑った。すると男が笑うのをやめて、泥とアルコールが混じったような臭い息を吐きながら、私の耳元で囁いた。「だれが笑ってええと言っただ」
私は口元をぎゅっと結びうつむいた。男が蟹鋏をかかとでグリグリと踏みつけた。
「おい、おめえさん」男は銃口を私の頬に押し付けた。
「あんた、本当にあの王様かえ?」
「違う」
「そんならあんたは誰だて?」
「誰でもない」私は言った。「王は死んだ」
男は珍しい生き物でも見るように私を見つめた。その時、朽ち木をまたいで、息を切らしたボンドと、その後ろから野蛮そうな二人の男たちが現れた。二人とも野暮ったい顔つきをして、汚らしいボロ切れをまとい、ナイフや銃をジャラジャラとぶら下げている。私は信じられない思いだったーあの海賊嫌いで有名なボンドが、海賊と行動を共にしているのか?
「おい爺さん」モアイがボンドに向かって尋ねた。「本当にこいつかえ?」
「そうだ。王と私、二人きりで話がしたい」ボンドは冷酷に言い放った。「お前らは一旦船に戻っていろ」
「話がちがうじゃねえかー」太った男がいきり立った。
「いいから戻っていろ!」
海賊たちがボンドを鋭く睨みつけた。太った男が一歩前に進み出て、その巨体でボンドを威圧するように見下ろした。もちろんボンドはそんなことくらいではひるまなかった。空気がピンと張り詰めた。カニの冠が、ズルッと斜めにずれ落ちた。
モアイ男が突然銃を引っ込めて、「大丈夫だとも、てめえら」と穏やかに手下達をなだめた。「爺さんを信じてやろうじゃねえのけー」
それから私のカニの冠を元の位置にずり上げて、てっぺんに輝くダイヤを差し、「見れ、俺の鼻クソよりちいせえこいつを。こりゃあとびっきりの逸品だて。爺さんは嘘は言ってねえ。こいつは本物の王様だで」
「こりゃあたまげたー」太っちょが別人のように態度を軟化し、モアイに媚びるような笑みを浮かべた。
「確かに兄貴の言う通りだ!」
「これはなんだ?蟹の甲羅か?」
「おい、見ろよ、この服も。よくみりゃ全部蟹の殻だ」
「これもだ」小枝のようにのっぽの、しょぼくれた目の男が、地面にめり込んで潰れた義手を指差した。
「こいつ、蟹を殺して生きながらえたんだ」
すると太っちょがぷっと吹き出した。
「ちげえねえ、ちげえねえよ」太っちょは全身の贅肉を揺らしながら叫んだ。「こいつは確かに王様だ、だが人間の王様じゃねえー」太っちょは目を三日月にして笑った。
「こいつは蟹の王様だ!」
海賊たちはその言葉でドッと湧いた。剣や銃を投げ捨てると、諸手を挙げて、私の周りを万歳しながら回り出した。「蟹の王様、バンザーイ!」
私も場の空気に合わせて笑った。
「見ろよこいつ、笑ってやがる」
「いかれてんのか?」
私はニコニコ笑った。これは私の癖なのだ。心がどんなに泣いていても、媚びるような、あの笑顔が自然と溢れでてきてしまうのだ。
ボンドが空に向かって三発撃ちこんだ。全員笑うのをやめた。ボンドはシワというシワを額に寄せて、顔を真っ赤にしながら打ち震えていた。それは、彼と私、二人分の屈辱の表情だった。私は咄嗟に目を伏せた。
「船に戻ってくれ、頼む」
ボンドの異様な眼光に、海賊たちは素早く目配せしあった。それから不満げに砂浜へと引き返していった。しかし5秒もしないうちに、男たちのさざめくような笑い声が聞こえてきた。それは少しずつ遠ざかって、やがて波の音に紛れて聞こえなくなった。
ボンドがいつまでも黙ってそっぽを向いているので、私はとうとう口火を切った。
「ボンド、私はてっきりー君は、殺されたものかと…」
すると、突然ボンドは倒れこむように私の前にひざまづき、私の右肘から先の、ちょうど噛みちぎられた部分に、優しく両手ですくうように触れた。私はハッとした。
ボンドの目から涙が溢れ出していた。「ああ、陛下、陛下、こんなお姿になられて」ボンドは苦しそうに目をつむった。「私めのせいです。私めがしっかりしていれば、陛下をこんな目に合わせずに済んだのです」
「君のせいではない」
「いいえ、私めの責任です。陛下をお守りできなかった。陛下に責任はございません。私があなたを突き落としたも同然なのでございますー海へ。孤独の海へ。」
私は目をそらし、話題を転じた。
「君はどうしてここへ…」
「迎えに参ったのです、陛下」ボンドは泣き腫らした目で私を見た。「せめて陛下のお骨だけでも持ち帰らねばと、海という海を探し回って参りました」
ボンドは私の左手を握りしめた。彼のみすぼらしい平服は、土と泥とで汚れていた。頬はこけ、彼の威厳を高めていたあの上品な長い髭は、アゴまで剃り上げられていた。疲れと悲嘆に濁った瞳が、私を見つめてぶるぶる震えた。
「しかしまさかーまさか生きて会えるとは!」
「あの男たち…奴らは海賊なのか?」
「はい。ここは危険な海域ー心苦しくも、この近辺を知り尽くしている、野蛮な輩どもの手を借りねばなりませんでした」
ボンドの温かな温度が、冷え切った手を通して、私の心臓まで伝わってくるようだった。「君は海賊があんなに嫌いだったのに」
ボンドは一層強く手を握った。「全ては陛下のために」
「ボンド…」私は顔を上げた。「私はこれから、どうなるんだろう」
「私が責任を持って、陛下を隣国に亡命させるよう取り計らいます」
私はボンドの泣き腫らして真っ赤な瞳を見据えた。
「さすれば生き延びられましょう」
私はボンドを見た。ボンドはうなづいた。私はボンドのささくれ立ったその小さな手を強く握り返した。日がすでに傾きかけていた。国旗はうす闇に溶けて、船は満ち潮に揺れていた。
「もう夜になる」私は呟いた。「夜の出航は危険だが…」
「明日の夜明けとともに出発しましょう」ボンドは私を引っ張って立ち上がらせた。
「すぐに一等室を用意させます。と言っても、あのように、ひどく汚い船ですがー」
「いや、いいんだ。私の洞窟ーいや、サロンがあるから」私は顔を上げた。「そうだ、君も泊まっていかないか?」
「サロン」という言葉に、ボンドは怪訝そうに眉をひそめた。




