13、ネロの記憶
「あの日、海はひどく穏やかでした。給仕係がラム酒をたっぷり注ぐと、アランドラ陛下は上機嫌に洒脱なご冗談を述べられました。陛下は晩餐の間じゅうも、ずっと飼い猫が海に落ちぬかどうかを気にかけておられました。まさかその数分後に発狂し、自ら海に飛び込まれるとはー」
ネロはそこで「失礼」と言ってナプキンで涙をぬぐった。
胸元の猿の形の紋章が、ろうそくの明かりに反射して、高潔に煌めいた。ネロの話に聞き入っていた列席者一同は、その気持ちを慮るように俯いたり、咳払いしたり、口元に手を当てて、悲しみを現してみたりした。
「彼は私の少年時代からの友人でもありました。アランー 恐れ多いことですが、そう呼ばせて頂いておりました」
ネロは乱れた前髪に触れ、湿った睫毛を瞬かせた。
「陛下はいつ、どんな時も優しく、ほほえみを絶やさぬ方でした。目下の者にも優しく声をかけ、冗談を言って楽しませ、場の空気が悪くならぬようにいつでも気を使っておられたー」
「マア」ネロの隣の隣に座る、胸元を下品にならぬ程度に程よく開け広げた、厚いつけまつげの婦人が、抑えた口調で言った。「心痛お察しいたしますわ、閣下」
その言葉に、他の婦人たちが賛同するようにうなづいて見せた。食堂に据え付けの長机にずらりと座った貴婦人たちの熱いまなざしは、この若い美男の革命家、ネロその人に一斉に注がれており、誰もが彼の気を惹こうと必死になっているのが見て取れた。
だがそれは婦人たちに限ったことではなかった。同席する高位の紳士たちもまた同じであった。今やこの国の誰も彼もがこの若い皇帝に敬意を示し、新しいリーダーとして彼を心から受け入れていた。
「私は彼の優しさを何よりも愛しておりました。かつてはこんなこともありましたー私がまだ貧乏だった時分のことです」
ネロはそこで口元をふっと緩ませた。健気さを湛えたその表情に、婦人たちは釘付けになった。つけまつ
げ婦人に至っては、身を大きく乗り出し、たわわに実る乳をテーブルに乗せて、今にも彼を抱きしめたそうにしていた。
「あれは忘れもしない、陛下の戴冠式の日の出来事です。パレードの真ん中に飛び出した、汚らしい私を見つけるやいなや、兵隊の一人が私を口汚ない言葉で罵って、つまみだそうとしたのです。そこへなんと陛下が馬から降りて近づいていらして、私の頭に王族と司祭しか触れることの許されない王冠を乗せて、こうおっしゃられました」
ごくん…と息を飲む音が豪華絢爛な宮廷の食堂に響いた。
「『この王冠は私のものではない、すべての国民のものだ。』と」
大きなため息が食堂を満たした。「マァ…」ひときわ大きな声でそう呟いたのは、もちろんつけまつげ婦人である。
「弔いの席でいうことではないと百も承知しておりますが」ネロはまっすぐな眼差しで一人一人を順番に見つめた。「私は彼がまだ、どこかで生きているように思えて、夜も眠れないありさまなのです」
誰もが口をつぐんだ。ネロは膝の上にいる、真っ白い猫を辛そうに撫でた。それはまぎれもないアランの猫、キッド船長であった。猫の首にはシルクのリボンが巻かれていた。キッド船長は気持ちよさそうに喉を鳴らして、その手に頬をこすりつけていた。猫は間抜けなかつての主人のことなどすっかり忘れてしまったように見えた。
「悲しみにくれる私に、彼の長年の従者であったボンド卿が、こう申し出てくれました。必ずや、私が彼の骨を拾ってまいりますと。もちろん、あまりにも危険すぎる、と何度も止めました。あの海域は海賊の巣ですからーしかしボンド卿は陛下をきちんと弔いしたい、これは私の身勝手な願いなのです、と力強く語られました。私もそれで、ようやく彼を送り出す決心がついたのです。それがつい、三日前のことです」
どよめきが部屋を包んだ。
「ボンド卿が無事、目的を果たして帰還すれば、私も彼の死を受け入れ、安心してこの国のリーダーを務めることができる、今はそんな風に前向きに考えることができるようになりました」
そこでとうとう堪えきれなくなったのか、つけまつげ婦人がネロの手を強く握った。ネロと婦人の間に座っていた老紳士が、その勢いに思わず上体を反らしたほどだった。
「あなたこそ、この国が待ちわびていたお方ーまさに、そう、救世主ですわ!」彼女は目を潤ませてネロの手を一層強く握りしめた。他の女たちは目配せしあって、抜け駆けによる代償を少しも恐れぬこの若い女を、沈黙のうちに糾弾した。
ネロは手を引っ込めるでもなく、だが彼女に対し非礼にならぬよう、柔らかい感謝の笑みを浮かべ、「ありがとう、クラリス」と言って、彼女のキメの細かい絹のような手を優しく押し戻した。その動作に、ピンと張り詰めた場の空気は、自然と和らいだ。
ネロはワイングラスを鳴らした。給仕たちがボトルを片手に入室し、一人一人のグラスに注いで回った。
中でもひときわ若い少年給仕が、嫌味なほど深いお辞儀をして、まだうっとりとネロを見つめているクラリスの横に大股で進み出、そのグラスにワインをなみなみと注いだ。
クラリスは唇を可愛らしく突き出して、少年を食い入るようにじっと見つめた。「マア、あなた、髪がぐしゃぐしゃだわ」クラリスはそっと手を伸ばした。「へたっぴなお辞儀のせいね」
だが少年は彼女の手を勢い良く払いのけた。クラリスは目を見開いて、少年を蛇のように睨みつけた。だが、すぐに柔らかい笑顔に戻って、何事もなかったかのようにテーブルに向き直った。そうして飾られた目の前のヒナギクの花を見つめながら、一人で微笑んだ。それは社交界に慣れた彼女が、激しい怒りを飲み込む時によく使う上級者の仕草だった。
その取るに足らない、ささやかな事件に気づいたのは、その部屋のうちで、老いぼれの黒人の給仕頭デールと、ネロのみであった。少年は唇を固く結び、やや前傾姿勢で、虚空を睨みつけて立っていた。
「それでは」ネロは咳払いをした。「アランドラ陛下のために!」
ネロははるか遠い天井のシャンデリアに向かって高々と献杯した。列席者たちは「陛下のために!」と唱和し、杯を上げた。給仕たち一人一人はそれに合わせて深くお辞儀した。だが、クラリスの後ろの少年だけは、微動だにせず、直立不動のまま、じっと虚空を見つめていた。
ネロはちらりと横目で彼を見つめた。そうして、何か思いついたように、突然「新しい国家のために!」と叫んで、もう一度杯を空に捧げた。列席者たちは慌ててそのあとに続いた。「新しい国家のために」
ネロはこっそり少年を見やった。彼は突き刺さって傾いた画鋲のように、不自然な前傾姿勢で突っ立ったままだった。クラリスがネロの視線を追いかけて振り向いた。その時、クラリスは、その少年給仕の「国王陛下、万歳」というかすかな声を聞きつけた。
「もう一度言ってみなさいよ」クラリスは少年の手を取った。「言ってみなさいったら!」
クラリスの剣幕に、客たちは静まり返った。一斉に注目を浴びた彼を、給仕部屋から飛び出してきたデールが真っ青な顔で引っ張っていった。わずかな沈黙が流れ、部屋には戸惑いが残された。だが、料理が運ばれてくると、その戸惑いはすぐに忘れ去られた。クラリスだけが前菜にも手をつけず、一人黙々とワインを飲み続けていた。
*
給仕部屋の四隅にはネズミの糞が散乱して、給仕たちの私物がそこらじゅうに投げ出されていた。キッチンとゴミ出し場に挟まれたこの部屋では、給仕たちの汗の匂いと、油や生ごみ、食べ残しの匂いが逃げ場なく混ざりあって、なんとも言えぬ悪臭を放っていた。
デールに首を宣告されると、少年は黙ってうつむいた。デールは部屋を出て行こうとした。が、カーテンをめくって目を剥いた。そこにはネロが立っていたのだ。
「閣下、こんな蛸壺に、どんな御用です」
「彼、名前はなんていうんだい」
ネロは部屋の隅で着替えを始めている少年を指し示した。デールは少し迷った後、
「おい、名前はなんだ?」とぶっきらぼうに尋ねた。デールは、印象の薄い部下たちの名前を無理に覚えようとはしない主義であった。
「いわにゃならんですか」少年は棒を飲み込みでもしたかのように、まっすぐ突っ立ったまま答えた。
「当たり前だ!」デールが憮然と答えた。「閣下が直々に聞いておられるのだ!」
少年は羽織途中の茶色いシャツを脱ぐでも着るでもなくほったらかしにしたまま、「ナポレオンです」と
静かに答えた。彼は一瞬顔を引きつらせる。まるでその名前を言うのが何よりの屈辱であるかのように。
「ほう!」ネロは愉快そうに目を輝かせた。
「驚きましたな、閣下。名前負けとは、こういうことですな」デールはベテラン給仕らしい、適度に馴れ馴れしい、だが分を弁えた親しげな口調でそう言った。ネロはその冗談を交わすように微笑むと、「ナポレオンと話したいんだがね」と言った。
ネロの申し出に、デールは大仰に肩をすくめてみせた。
そそくさと立ち去ろうとするデールの背中に向かって、ネロは「彼を首にするわけじゃないんだね?」と確かめた。デールは振り返って「もちろん、もちろんですとも!」とさらに大げさな身振りで返した。
二人きりになると、ネロはマントが床の油をこするのも構わず、ナポレオン少年の前に、どかっとあぐらをかいて座り込んだ。彼は驚く様子もなくじっとしていた。
「ミスターナポレオン」ネロは半分優しげな、半分からかうような瞳で老人を見据えた。
「君、あの船に乗っていたね?陛下に給仕をしていただろう。」
「左様でございます」
「君、あの日のことを、覚えているね?」
「もちろんでございます」
「僕を憎んでいる?」ネロは苦しげに俯いた。
「とんでもございません」
前髪の合間から、ナポレオンの濁った瞳が覗いた。
「ただ私めは、陛下がなぜ…」ナポレオンは皺の寄った瞼を閉じた。「ご自分から飛び降りになられたのか、
ただもう毎日、そればかりを考えております」
「そうだとも、その通りなんだ」ネロはうっすら浮かんだ涙を拭った。「今でも夢に見るよ、彼が飛び降りた瞬間のことを。」
「私めにはわかりません」ナポレオンは目を伏せた。「いくら考えても、わからない。その答えがわかるまで、閣下ー私は、国王陛下への万歳をやめるわけにはまいりません」
「わかった。君の好きにするといいよ。」
ネロは強く、揉み込むようにナポレオンの肩に触れた。




