07. 「当主の判断として正しいのかしら?」(父親視点)
当主であり父親の優柔不断回。
「アルバン、好きな方を選んでちょうだい」
母親の大きな溜息に身を縮こませながら、目の前の書類をただ見つめる。
エルトランジェ伯爵当主であるアルバンの前にあるのは、最愛の妻との離縁を申し出る書類と、もう一枚は当主としての全権を従弟のテオトルに譲るという申請書だった。
愛を取るか、立場を取るか。
根っからの貴族である母親は、両方を取ることを許してくれないらしい。
「事なかれ主義で優柔不断であろうとも、当主となったら覚悟できるかと思ったのだけど。ここまで使えないとは嘆かわしいこと」
当たり前のように執務席室で一番大きな机のある席に座り、真冬の朝よりも寒く感じる声音で話す母親は、いっそアルバンよりも当主らしかった。
近くの机にいるはずの、タウンハウスの家令の姿はなく、代わりに母親が連れてきた側近が他の者にあれこれ指示を出している。
何が起きているのかわからないが、それよりも今は家族のことだ。
「待ってください、母上。ロクサーヌと息子達はフェリシーのことを考えての行動で、侯爵閣下は家族間のことを大袈裟に」
「他家の、それも侯爵家を巻き込んだ大騒動で間違いないでしょう」
遮る声がピシャリと言い放ち、アルバンの言葉を封じる。
「格上のバルバストル侯爵の夜会に勝手に人を増やして押しかけようとした挙句、実の娘とはいえ侯爵令息夫人となったフェリシーを叩くなんて。
それを大袈裟だと済ませようとするお前に、危機感も貴族としての常識もないことがよく理解できました」
「母上は見ていないからわからないでしょうが、あれはフェリシーがロクサーヌを怒らせたからです。
我が子から愛されていないと言われては、親として許せないでしょう」
確かに夜会の場で騒ぎを起こしたロクサーヌもよろしくないが、あの時のフェリシーの態度は本当に酷かったのも事実だ。
どうにも二人の間に溝があることを気にかけていたつもりだったが、まさかこんなことになるなんて。
「フェリシーには私から手紙を出し、侯爵閣下に取り成してもらいましょう。
あの子だって大切な家族が困っていると知れば、薄情なことはしないはずです」
「お前は本当に何もわかっていないわね、アルバン」
呆れたように言われたので肩をすくめて返そうとし、けれど眼光の鋭さにソファで身じろぐだけに留める。
「解決できないことはないはずです。
私達は家族なのだから」
ロクサーヌは跡取りである息子達を厳しく育てる余り、フェリシーは甘やかして育てたのかもしれないと嘆いていた。
幼い頃から内向的で大人しい娘だったが、ロクサーヌからは届く手紙には、年々素行不良が噂されているのだと聞いて心配していたから、バルバストル侯爵家とのご縁をもらった時には安心したというのに。
まさか、こんなところで子どもじみた嫌がらせをしようとは。ロクサーヌが反対した通り、侯爵家の妻なんて向いていなかったのかもしれない。
考えるアルバンなど気にせずに、母親は忙しなく手を動かしている。
聞けば、バルバストル侯爵家への謝罪を手紙に認めているということだ。
「母上。当主は私ですし、私がフェリシー宛に手紙を書くと言ったではないですか」
アルバンが言えば、心底呆れたと言わんばかりの顔が机から上げられた。
「バルバストル侯爵家で起こした騒動を、先ずは当主に謝罪せずに? フェリシーに責任をなすりつけると?」
ドンと鈍い音が机から響く。
「お前はどこまで愚かなの。中継ぎくらいなら許してもよいかと思っていたけれど、本当に駄目ね」
もう結構と、吐き捨てられた言葉に家族としての愛などない。
もはや情を乞うことなどできないだろう。
「ロクサーヌとの離縁すら決められないなら、さっさと当主の座を譲りなさい。
お前も、その家族も全部不要よ」
狂気じみた気迫すら感じられる母の表情に怯えながらも、それでも当主としての切り札を使って、家族を守らなければならない。
「当主である私が署名しなければ、どちらの書類も有効にならないですよね?」
アルバンの言葉に母親が目を細める。
そう、アルバンが当主である以上は、彼が署名しなければ重要な書類は公式とは見做されない。
アルバンにとって、ロクサーヌも息子達も大切な家族であったし、フェリシーもそれは理解できているはずだ。
少しだけフェリシーが譲ってくれたら、今まで通りの生活が送れるというのに。
アルバンが領地で過ごすようになってから一年程して、一度だけフェリシーからの手紙が届いたことがある。
そこには年の離れた兄と変わらぬ勉強をさせられる苦痛と、そうして母親から愛されない嘆きが書かれていた。
アルバンは娘から唐突に届いた手紙に困惑した。
何故なら隔週で届く妻からの手紙には、子ども達は恙無く過ごしていることと、年相応の勉強を始めたフェリシーの態度が良くないことが相談として届いていたからだ。
ロクサーヌはちゃんと育てないといけないと必死な様子が窺えたし、月に一度届く二人の息子からの手紙もフェリシーの手紙のような内容は書かれていない。
何より長らく手紙を書かない娘のことなどアルバンは忙しくて忘れかけていた。
急に届いたかと思えば一方的な物言いに、他の家族よりもフェリシーを疑うのは当然で。
けれど一方的に叱るのも良くないだろうと、母親を信じて歩み寄るよう助言したし、ロクサーヌにはフェリシーから届いた手紙の内容を教えて、誤解を解くようにと伝えた。
それ以降はフェリシーからの手紙が届くことはなかったので、上手くいったのだろうと思っていたのに。
何が悪かったのかが全然わからない。
「お前がそういった態度を取るならば、私にも考えがあります」
母親の手から静かにペンが置かれる。同時にアルバンへと向けられていた怒りが一切消え失せ、感情の読めぬ無表情で見据えていた。
その変わり様に恐ろしさも感じたが、家族と立場は守れたのだと自身を鼓舞する。
「やはりお前にバルバストル侯爵家への対応も、王都での社交も任せられないわ。
明日の朝一番に領地へ戻りなさい。代わりにテオトルを呼びます」
どういうことだと聞く前に、領地から連れてきた母親に忠実な使用人達が、アルバンの肩に手を置く。
退室しろという合図だ。
再び部屋に押し込められる前に、せめて家族の顔を見てからでも良いかと聞く前に、母親が先に口を開く。
「お前はフェリシーから手紙を貰ったことがあって?」
問いかけに一度だけと答える。
「そう。フェリシーに付けたメイドを経由して、私はよく手紙を貰っていましたけどね」
母親から返された言葉の意味と、どうして手紙の数など聞かれたかの意図が読めずにアルバンは瞬きをして母親を見る。
「お前がそんなだから教えてあげましょう。
私がドレスや誕生日のプレゼントを贈っても、フェリシーには一つも届いていなかったわ」
「なんですって」
記憶の中のフェリシーを思い出そうとする。
どれも幼い時のままで、いつだって可愛らしいドレスを着ていた。
「その上、ドレスは全てあの嫁が選ぶものしか許さなかったと、あちらに置いた私が配したメイドから聞いています。若い娘らしさのない紺や灰色のドレスばかりだったとか」
「そんな馬鹿な」
成長期に入った娘はどうだったのだろう。ロクサーヌの手紙には華やかなドレスを嫌がる、令嬢らしくない娘だと書かれていた気がする。
いつだって、そう、いつだってロクサーヌから届く手紙の中のフェリシーは令嬢だとは思えない娘だった。
「ロクサーヌがそんなことをするわけがありません。
フェリシーは私達の娘なのですよ」
けれどアルバンに視線すら向けなくなった母親は、無表情を貫いたまま。
「アルバン、お前がフェリシーに贈ったものも、同じように処分されていたのだとしても?
お前は同じことが言えるのかしら」
どうして。
そんなはずはないと否定しようとしても、言葉が口から出なかった。
ロクサーヌに好意的ではなかった母親だったが、嫌がらせの一つもしなかったのは知っている。それだけの分別はあるのだ。
湧き上がる焦燥に、口の中が渇いていく。
「どうして、それを言ってくれなかったのですか」
「フェリシーが救いを求めた時、信じなかったお前が言うの?」
母親の口にしたことが、真実なのか嘘なのか判断できない。頭を抱えたくなっても、使用人達に腕を掴まれ、それすらもままならなかった。
「私がお前に告げなかったのは、家族だから分かり合えると現実から逃げて、適当に茶を濁すだけだったからよ。
そして私が王都のタウンハウスに過度に干渉しなかったのは、あの嫁にいらぬ刺激を与えてフェリシーを酷い目に遭わせないため。
中継ぎのつもりだから優秀な人材を揃えたというのに、お前が仕事の一つも満足にできないせいで、領地を離れるわけにいかなかったからもあるけど」
どうして今更そんなことを言うのか。
黙っていてくれたら、そこまで言うなら母親が上手くやってくれたら、アルバンがこんなに悩むことはなかったのに。
「それを踏まえて、もう一度だけチャンスをあげましょう。
離縁と蟄居。お前はどちらを選ぶの?」
考えがまとまらないまま口を開き、けれど何の結論も出せないまま母親をただ見つめる。
そんなこと考えたくない。ただ時間が過ぎて、何も無かったことになればよいのに。
家族に囲まれて笑顔でいられれば、それだけで。
少しだけ、本当に少しだけフェリシーが我慢してくれたらよいだけの、それだけの話。
ただ時間が過ぎるのを待つかのようなアルバンに視線を向けることのないまま、暫くの時間そうして放置した母親は、一つ仕事を終わらせたのを区切りに手で追い払う仕草をする。
「邪魔だから部屋に押し込んで、荷造りをさせて頂戴。
明日領地に返す予定は変わらないわ」
紙を捲る音が妙に静かな部屋に響く。
ようやっと顔を上げた母親がアルバンを眺め、
「そうそう、先日通った道で盗賊が現れたらしいの。
まだ犯人は見つかっていないそうだから、道中気をつけてお帰りなさい」
そう一言だけ告げて顔を机へと戻す。
今度こそアルバンは執務室から連れ出され、再び自室へと閉じ込められた。




