06. 「兄妹だなんて思ったことはなくてよ」(兄視点)
内面は母親によく似た長男回。
「有責にされないだけ感謝してもらいたいというのに」
穏やかにも聞こえる声とは裏腹に、明確な拒絶の言葉は、エヴァリストの顔から貴族らしくと取り繕った表情を奪っていく。
落ち着けと荒ぶる感情を自制すれども、相手は格下だとはいえ長く子爵当主を務めていた威厳に勝てそうになかった。
「子爵は少しばかり誤解をされているのでは?」
言いながら、ジラルデ子爵の横に座る婚約者のミレイユへと微笑みかけるも、いつだって向けてくれていた穏やかな微笑みは一切消え失せている。今の彼女に浮かぶのは、淑女の笑みですらない無表情だ。
「誤解? エルトランジェ伯爵令息が第二王子殿下達の騒動に悪乗りし、ミレイユに婚約の破棄を伝えた。それに何の間違いが?」
子爵から言われたことに間違いはない。
学園で行われた卒業パーティーで、第二王子達が婚約者に向かって婚約破棄を宣言する中、初めて飲んだ酒の高揚感から冗談のつもりで、ミレイユに対して婚約破棄を宣言したのだ。
多くの生徒や教師達がそれを見ている。
「けれど、それは冗談のつもりでしたし後からそう言うつもりでした。それにミレイユなら察してくれると思っていましたから。
それなのに、身勝手にも婚約破棄を承諾した上に帰ったのですよ?
互いの気持ちが通じ合っていないという部分では、双方反省するべきことです」
ちょっとした余興のつもりだったのだ。
成人する前のささやかな、少しだけ羽目を外したお遊び。それを大事にしたミレイユ、それから周囲にいた同級生や教師達の方が問題だろう。
こうして大事にせず、角の立たないようにとエヴァリストから歩み寄っているのに、子爵の顔は一層険しくなっていく。
「話にもならない。何でも酒のせいにすれば、婚約者の名誉に傷をつけても問題ないという考えが問題だ。
君は本当に貴族の、それも跡取りなのか」
伯爵家と比べると広くはない応接間に、ジラルデ子爵の声が良く響く。
屈辱で震えそうになるが、それでも婚約が無くなるのは体裁が悪いと、エヴァリストは言い返したいのを我慢する。
「いくら婚約者の家とはいえ、子爵家風情。伯爵になる私に些か言葉が過ぎるのでは?」
これが何の関係も無い相手だったら、家の威光を示すために公の場にて処罰を求めただろう態度。だが、ジラルデ子爵の方はお構いなしのようだった。
「エルトランジェ伯爵令息はまだ手にしていない権力を、むやみやたらにと振りかざしているようだが、当家の寄親はバルバストル侯爵家。
それも当主と深い縁のあることも、まさか知らないはずはなかろうが」
聞いていない。婚約が決まったのだと知らされた時に、ちゃんと貴族名鑑を見ておくようにと言われたぐらいだ。
貴族名鑑はリスト化された貴族の名前が、事務的に並んでいる書物だ。そのせいで貴族間の繋がりが把握しにくかったし、特にミレイユから何も言われなかったから気にもしなかった。
これはミレイユの説明不足が原因だと思ったが、さすがに今の雰囲気の中で口にする勇気はない。
「不満そうな顔だな」
ジラルデ子爵から吐き捨てられた言葉に、自身の表情が何一つ取り繕えていないことに気づかされる。
「これ以上話し合うのは無意味だ。
当家としては円満に婚約解消でも良いと思っていたが、令息はそうでもないらしい」
お引き取りを、と言われてすぐに、子爵家の家令が取り澄ました顔で扉を開ける。
ミレイユを見たが、視線が合うことはなかった。
「ミレイユ。婚約破棄を承諾したことに対して、引っ込みがつかないだけなのだろう?
今なら無かったことにするから、君も子爵を説得するんだ」
格下の家に婚約破棄されそうだなんて周囲に知られたら。
母親は慰めてくれるだろうが、祖母はエヴァリストを責めるだろう。
「お引き取りを、エルトランジェ伯爵令息様」
既に他人行儀となった呼び方で退居を求められる。
席を立ちながらも未練がましく視線を向けた先にいるミレイユは、エヴァリストのことなど視界にも入れていなかった。
「君なら家族と上手くやっていけると思ったのだが。
それにフェリシーも君に懐いていたというのに」
今になって婚約が無くなることの不利益を、そして妹という存在をダシにして気を引こうとしてみたものの、ミレイユの表情が変わることはなかった。
「本当に。フェリシーさんと姉妹になれることだけは楽しみだったので残念です。
フェリシーさんはとても聡明でしたのに、一体どうしてこんなに違うのかしら」
ミレイユから呆れ含みの言葉を浴びせられてカッとなり、こぶしを握り締めて睨みつける。
だが、怯えすら見せずに嫌悪の眼差しを向けてくるジラルデ子爵とミレイユに、我に返って振り上げそうになった手を下ろす。所在無げに手は落ち着く先を探し、手にしていた帽子を持ち直すことで誤魔化した。
「君のその態度も随分と問題だが、婚約の話を当主も来ずに進めようとするのも理解できん。
婚約破棄に関しては、バルバストル侯爵家との連名で君の父上の方に直接送らせてもらう」
これはもう、自分で何とかできることではない。
ようやく気づいたエヴァリストだったが、互いにあった溝を深めてしまって修復はできない状況にまで陥っている。
言葉を重ねることを諦め、無言のままにジラルデ子爵邸を立ち去った。
***
「お帰りなさい、エヴァン。
ジラルデ子爵は納得されたかしら」
エントランスホールへと足を踏み入れたエヴァリストを、母親が心配そうな顔で迎えてくれる。
それが、と言いながら言葉を探す。
母親は優秀なエヴァリストなら、上手にジラルデ子爵をあしらって帰ってくると信じて、一人で問題ないと送り出したのだ。散々な結果を知らせるのはきまりが悪い。
「フェリシーが」
最後のやり取りでした妹の話題を思い出し、つい口にすれば、母親の表情が変わる。
エヴァリストは、母が妹に対して厳しいことを良く知っている。そして、それは妹の出来が悪いからなのも理解していた。
ならば、それを利用すればいい。
「ミレイユからはフェリシーの小賢しいことを指摘されました。どうして私とこうも違うのかと残念そうで」
決して婚約破棄に切り替わったことを口にしないし、受け取り方によっては与える印象も変わるが、嘘も言っていない。
母親がどう受け止めるかの話だ。
これはエヴァリストが社交術の一環として学んだことだ。貴族としての嗜みを、ここで遺憾なく発揮させてもらうだけである。
「まあ、まあ何てこと!」
案の定、母親は悲鳴にも似た声を上げ、美しいラインを描いていた眉を吊り上げる。
「あの子の存在がエヴァンの婚約を邪魔するなんて……」
悲嘆に泣き崩れそうになる母親は美しかった。
母親の美貌は社交界でもそれなりに評判だ。若い頃からアランストル伯爵家の令嬢として厳しく育てられたことからか所作は美しく、けれど時に若い娘のように感情豊かな表情を見せてくれる。
いつだって年若い令嬢のようだ。
父親も「可愛らしい君」と呼んでは、若い娘が着るような華やかなドレスを購入することを許し、そして淡い色合いが良く似合った。
領地から離れられない父に代わって母親をエスコートする時には、そこらの若い夫人と見劣りしない華やかな母親を誇らしく思っている。
「大変だったわね、エヴァン。
私はフェリシーの部屋に向かうけれど、貴方はゆっくり休んでちょうだい」
エヴァリストを労わってから背を向ける、母親を見送る。
これで暫くは誤魔化せる。
父親に今日の話し合いのことが伝わっても、領地から離れられない罪悪感からか、父親がエヴァリスト達を叱ることはほとんどない。さすがに苦言は呈されるだろうが、まあそれぐらいだ。
問題は苛烈な祖母の方だが、祖母に対して母親は過剰に反応する。今回も何かあれば父親に泣きついてくれてエヴァリストを庇ってくれるはず。
それに、母親はフェリシーが原因だと思っている。 エヴァリストからも手紙を送って、話は適当に誤魔化してしまえばよい。
今頃フェリシーはしかられているだろうか。
そう思っても、エヴァリストには罪悪感など一つもなかった。
出来の悪い妹など家族とは思っていない。
同じ家庭教師から学び、けれどいつだってエヴァリストやロイクより点数の低い結果しか出せない出来損ない。
弟のロイクは優秀だからか、エヴァリストより少し低いぐらいの点数を保っていたというのに。
家庭教師達もいつからかフェリシーの評価をしなくなった。フェリシー個人には伝えているとのことだったが、エヴァリスト達の耳に入れないようにしているというのは叱る必要があるからに違いない。
そんな六歳下の妹は、エヴァリストと入れ替わるようにして学園に入学する。
あんな恥しかない妹が視界に入らなくて良かったと思う一方、弟のロイクは三年も同じ学園生活を送るのかと心底同情する。
やはり学園になど通わさず、領地にでも送って屋敷に閉じ込めておけばよかったのに。
一度母親にそう言ったが、困った顔で「それでも娘ですからね」と返された。あんな妹でも大切にする母親は本当に立派な人だ。
そんな母親によく似た顔立ちをフェリシーはしていたが、若い娘らしいドレスを選ばないせいで、いつだって地味な印象しかない。
灰色めいた若草に、黒と見紛う紺色、錆にも似た鈍い赤。
まるで祖母のドレスかと思うような色達。
いつだって母親の頭を悩ます存在。
「あれがいるせいで」
令嬢らしからぬ妹のせいで、ジラルデ子爵家からの印象が悪かったのかもしれない。
きっとそうだ。ミレイユは淡い色合いのドレスが好きだったから、さぞ気が合わずに苦労しただろう。
ならば、エヴァリストが言った冗談を真に受けたのも、フェリシーの陰気さの影響を受けたからかもしれない。
いつしか本来あったはずの理由を捻じ曲げて、エヴァリストは自分に都合の良いように考え始めていることに気づかずにいた。
***
「あいにくですが、夜会の招待リストの中にはエルトランジェ伯爵令息のお名前はございません」
事務的に告げられて、エヴァリストは瞬きをした。
耳から入った言葉が反芻され、じわじわと怒りがこみ上げてくる。
「そんなはずはない。エルトランジェ伯爵家からバルバストル侯爵家には、私の参加を事前に連絡していたはずだ」
怒りを喉元に押し留めながら低くなる声で言えば、侯爵家の家令らしい人物は表情を変えることなく首を横に振った。
「今宵の招待客は全て把握しておりますので、間違いございません」
そうして慇懃無礼な様子でエヴァリストを見下ろした。
「そもそもですが、当家の主人はエルトランジェ伯爵家に返事をしておられないはず。
どうしてそれを許可だと思ったのか」
今度こそエヴァリストは馬鹿にされたのだと思い、エスコートしていた従姉妹の手を振り解いて家令に詰め寄る。
「一介の家令風情が、伯爵家の嫡男に無礼な!
いいから中に入れろ! そこでフェリシーとは話をつける!」
エヴァリストの名を呼ぶ従姉妹の声は耳を素通りしていく。
人々の前で恥をかかされたのだ。家令だけではなく侯爵令息の夫人となったフェリシーに頭を下げさせなければ気が済まない。
恥知らずな妹は運良く侯爵家に嫁いだだけであって、決してエヴァリストより上なわけではないのだ。それを思い知らせ、公言させなければならないのだという気持ちだけが心を急かす。
目の前の家令が言うことを聞かないのならば、妹同様に躾をするまでだ。
問答無用とこぶしを振り上げる。
周囲で上がる悲鳴。
その瞬間に視界は大きく動いて、我に返った時には美しく敷き詰められた石畳が顔の間近に迫っていた。
次いで地面に強く押さえつけられた体が痛みを訴える。
あっという間にエヴァリストの体は地面に縫いとめられていた。
「失礼ながら暴力を行使されようと見受けられましたので、自衛させていただきました」
ご容赦を、と上から降ってくる言葉は冷静で、それが一層エヴァリストの怒りに燃料を注ぐ。
だが、どんなに抵抗しようとしても、体は少しも自由にならなかった。
騒ぎを聞きつけてか、中にいただろう人々がちらほらと姿を見せ始め、みっともない姿を見られた恥ずかしさから羞恥で顔が赤くなる。
どうにか押さえ込む手から逃れようとしても、押さえる力が強くなるばかりで身動きできないまま。
耳に届く戸惑いと、そして我慢できずに零れたらしい笑い声。
冷えた地面と裏腹に、エヴァリストの体は火が付いたようだった。
「エルトランジェ伯爵令息、暴れないほうが身のためかと。ご当主様からは狼藉者には容赦なくて構わないと言われていますので」
親切めいた声掛けはよく響き、周囲の人々にエヴァリストが誰であるかが周囲に知らされる。
余りのことに真っ白になった頭では何も考えられず、ただただ無礼な相手への怒りで身を震わせながらも俯くしかなかった。
だから、見覚えのある人物が近づいても気がつかなかったのだ。
「あら、エルトランジェ伯爵令息ではありませんか」
懐かしい声に思わず顔を上げる。
精一杯に視線を上げた先、淡い色合いのドレスが似合うミレイユが立っていた。
銀の刺繍が随所に刺された薄い水色のドレスは溶ける間際の氷のようで、涼やかな空気を纏っている。身を飾るアクセサリーも洗練されていて、特に耳を飾るイヤリングの真珠はそこらで手に入らないような大粒だ。
ミレイユ、と名を呼べば、扇が広げられて顔が隠される。顔は僅かに背けられ、視線だけは見下すように投げつけられた。
「嫌だわ。何年も前にそちらの有責で婚約破棄をしたというのに、名前で呼ぶ図々しさは変わりませんのね」
はあ、と溜息が一つ。
「私のことはバルテルミ男爵夫人とお呼びくださいな」
そう言って微笑むミレイユは子爵令嬢だった頃と比べても、格段に美しくなっていた。
元々の素材は良かったのもあるが、美しく着飾られた体は女性らしいまろやかさと変わり、そのくせ令嬢の頃と変わらない線の細さを保っている。
男爵家ごときにくれてやるには惜しい姿だ。もっと格上の家に嫁げば、さらに輝くばかりの美しさになっただろうに。
──この女を手に入れられれば。
それは酷く魅力的な考えだった。
「男爵家などと格下に嫁ぐなんて、さぞや苦労をしているのだろうな」
精一杯の憐みを表情に貼り付ける。
「本来なら他人の手垢のついた女など論外だ。だが運の良いことに私には妻がいない。我が家に従順であるのならば、跡取りがいない時の為の保険として、第二夫人として迎えてもいい」
エヴァリストにしてみたら破格の申し出だ。
暫くは他所の男の子どもを宿していないか確認期間が必要となるが、それを我慢すれば伯爵夫人と言う座を手に入れられるのだ。たかだか男爵夫人にしかなれなかった子爵令嬢が。
だが、ミレイユは少しの間エヴァリストを見つめたかと思えば、唐突に笑い出した。
「学生気分が抜けないままかしら。変わらずご冗談がお好きなようですね」
不意にピタリと笑い声が止まる。
「本当にいつだって笑えない冗談ばかり。ご遠慮申し上げますわ」
離れた場所からミレイユの名が呼ばれる。
途端、彼女が嬉しそうに後ろを振り返った先、エヴァリストがギリギリで見えるそちらには、彼女の夫らしい人物がいて息を呑んだ。
美しい男だった。男爵というのだから、さぞ品の無い中年男でも姿を見せるのかと思ったが、ミレイユの傍に立ったのは若く、そして高位貴族と間違えそうな程に麗しい青年で。
「相変わらず貴族名鑑は棚のお飾りなのでしょうね。私の旦那様は他国の貴族ですがバルバストル侯爵様の外戚にあたられ、まだまだお義父様がご健在でいらっしゃるので、一時的に男爵位を貸し与えられているだけですのよ」
パチンと扇子が閉じられる。
「ご親戚という意味ではエルトランジェ伯爵令息もそう変わりませんのに、本当に何もご存知ないのですね」
扇子の閉じられた先にある表情は晴れやかだった。
見惚れるほどに美しくなった元婚約者を見つめるも、ミレイユがとろけるような眼差しで見上げるのは彼女の夫だけ。
「バルテルミ男爵家と旦那様に嫁げて、本当に良かったですわ」
「私もだ、ミレイユ。君のように聡明で美しい人を手放す者がいるなど、当時は本気で驚いたよ」
貴族らしい微笑みを浮かべたバルテルミ男爵は、憐みにも似た感情を瞳に浮かべてエヴァリストを見下ろす。
「ご心配されなくても、彼女は私が幸せにしますのでご安心を」
そうしてからバルテルミ男爵は護衛達に声をかけた。
「バルバストル侯爵閣下には許可を頂いている、
押しかけてきた狼藉者を外に摘み出せ!」
乱暴な手つきでエヴァリストの体が引き起こされる、汚れた身なりを隠すことすらできず、周囲にいる貴族や関係者たちの目に晒されながら外へと向かう体。
必死に身をよじって振り返る。ミレイユに苦し紛れの捨て台詞を吐こうとしたが、それは叶わなかった。
エヴァリストの視界の中、侯爵邸から同じように連れ出される両親の姿。フェリシーの名を出して罵る母親を取り巻いて、波のように広がる小馬鹿にした笑い声。
全てがエルトランジェ伯爵家の敵にしか見えない。
結局何も言えないまま、エヴァリスト達は侯爵邸の外へと出されたのだった。




