04. 「幼馴染の定義を知っていらして?」(幼馴染視点)
幼馴染(もはや赤の他人)回。
エクトル・アルトーには大切に想う幼馴染がいた。
隣の屋敷に住む可愛らしい令嬢、フェリシー・エルトランジェだ。
領地自体は近くなかったが、王都のタウンハウスは隣同士で子の年齢も近ければ、交流があるのも当然で。
まだ幼いフェリシーに華やかな雰囲気こそ無かったが、笑顔が可愛くて、素直に話を聞いていてくれるところが好きだった。
伯爵家には二人の息子がいて、末娘であったフェリシーが後を継ぐことはない。
ならば、エクトルのお嫁さんになるのだろうと思うのは当然のことで。
エクトルの両親は若干渋ったものの、フェリシーが年齢に見合わぬ賢さを見せることから、打診してみようとは言ってくれた。
そして、ここでエクトルの人生は捻じ曲がることになったのだ。
「アルトー子爵令息、そんなに娘と婚約したいの?」
婚約の打診への緊張と少しの期待を胸に、少しでもフェリシーと仲良くなろうと、勉強の合間を縫ってせっせとエルトランジェ伯爵邸へと通う。
いつものように応接間でフェリシーを待っていたら、姿を見せたのはエルトランジェ伯爵夫人だった。
慌てて背筋を正すエクトルに、侍女も伴わずに現れた伯爵夫人は目の前のソファに腰かける。
そうしてからフェリシーに似ている顔を曇らせて、そっと目を伏せた。
「あんな不出来な子なのに婚約を申し込んでくれて、本当にアルトー子爵令息は優しいのね。
こんなに憐れみをかけてくれるのだから、私もアルトー子爵令息との婚約を望んでいるのだけど」
伯爵夫人の言葉にぱっと表情を明るくするも、だけど、と続く言葉に居住まいを正す。
「でも残念だわ。旦那様は伯爵家より上の令息を望んでいるもの」
自然と視線が落ちていくのを止められない。
それはエクトルではどうにもできない話だった。伯爵家から見て家格の高い家など、歴史の長い由緒ある伯爵家か侯爵家であり、子爵家のエクトルなんてお呼びではない。
傍から見てもガッカリした様子を隠さないエクトルに、伯爵夫人が眉の端をさげながら笑いかける。
「あの子には、アルトー子爵令息と結ばれてほしいと思っているの。
だって、あの子を好いてくれているのでしょう?」
伯爵夫人からの指摘に頬が熱くなる。
「二人の婚約の為に、助けになりたいの。でも一人では難しいわ。
だから、アルトー子爵令息も協力してくれるわよね?」
伯爵夫人の目が細くなった。
少しだけ、ほんの少しだけ躊躇いそうになる。
けれど、伯爵夫人の言う通りにすればフェリシーと婚約できるのだ。
エクトルはぐっと身を乗り出した。
「僕は何をすればいいのですか?」
「簡単なことよ。あの子が頭の悪い、マナーの一つも身に付いていない娘だと、他の子達に言うだけ。
どんなに旦那様が望んでも、評判の悪い娘とは誰も婚約しないでしょう?」
エクトルでもできる簡単なことだ。
伯爵夫人からの提案に飛びつこうとして、けれど意味も分からず湧き上がる不安に、そっと伯爵夫人を窺う。
「もしフェリシーが、僕が悪口を言っていることを知ったら」
「大丈夫。二人のためだということを、私から説明するわ」
それならばフェリシーに誤解されることはないのだと、エクトルは胸を撫で下ろす。
後はいつフェリシーに対して、お嫁さんになってほしいと言えるのかだ。
「いつまでフェリシーの悪口を言えばいいですか?」
エクトルの問いに、フェリシーを大人にしたような伯爵夫人が、小首を傾げて思案する素振りを見せ、
「そうね、学園を卒業するまでかしら。
その間は関係を疑われても困るから、フェリシーには会いに来ないでちょうだい」
「そんなに⁉︎」
返された言葉に、エクトルは思わず大きな声を上げた。
「そうよ。学園こそ、普段交流の無い貴族子女との出会いの場。
旦那様も良縁の為ならば、学園に通う間は誰かれ構わず縁談なんて受けないでしょう」
エクトルの中に生まれた躊躇いが顔に出ていたのか、伯爵夫人は笑顔のまま囁いた。
「アルトー子爵令息が心配ならば、簡単な契約をしましょう。
私の旦那様がフェリシーの婚約者を探すのを諦め、そしてアルトー子爵令息がご両親を説き伏せるまで。
いつかあなたが娘に婚約を申し込んでくれるまで、あの子は誰とも婚約させないと」
これなら安心でしょうと言われ、エクトルは大きく頷く。
自分のすることはフェリシーと一緒にいるためなのだと、強く自身に言い聞かせて。
伯爵夫人が嬉しそうに笑い声を上げ、少し待っていて、と席を立つ。
部屋を出たかと思えば、少しして紙とペン、小ぶりなインク瓶を持って戻ってきた。
「こうして約束として書いておけば、お互い安心でしょう?」
さらさらと紙に書き付けられていく。
見れば、幼いエクトルにもわかりやすいようにという配慮か、わかりやすい文章で約束事が書かれていた。
その中には、フェリシーと婚約するためにエクトルが協力することと、その間フェリシーは誰とも婚約しないでアルトー子爵家からの縁談を待つことも書かれている。
「さあ、お互いの名前を書きましょう」
まるで大人扱いだと、気持ちが高揚しているエクトルが名前を書く。
横に添えられたのはフェリシーの名前だ。
娘も同意するから問題ないわと、また伯爵夫人が笑い声を上げた。
伯爵夫人が嬉しそうに笑った意味や、当主の署名もない、形式に則っていない契約書は有効ではないことなど、この時のエクトルはわかっていなかった。
結局この日はフェリシーと会うことも無く子爵家に帰り、そうしてからフェリシーとは会えなくなった。
その間にエクトルは約束通りにフェリシーの悪口を、出会った子ども達に言いふらし、学園に入学する頃には両親からもフェリシーに会うことを禁じられた。
***
「だから、フェリシー・エルトランジェを王都の酒場で見かけたって話だよ。
やっぱり身持ちの悪いふしだらな女だって噂は本当じゃないのか」
学園にある男子寮の歓談室は賑やかだ。
校舎では話せないような、ちょっとした下品な話や眉を顰めるような噂も、ここでは躊躇いなく口にできる。
あれ以来、フェリシーの評判を落とそうとしているエクトルには、格好の場所であった。
今日だって寮住まいではないのに、悪友の手引きで入り込んでいる。
目的はもちろん、フェリシーの悪い噂を流すことだ。
まったく会わないフェリシーへの思慕など続くことはなく、学園に入る頃には初恋なんて淡い感情は薄れてしまった。
今では学園で得た新しい友人達とつるむ方が楽しく、彼らがもたらす刺激にのめり込む毎日を送っている。
フェリシーの悪口をいかに上手く流すかも、彼らの中では一種のゲームとなっていた。
噂を流し、流れてきた噂に尾鰭を付けて再度放流する。
面白いようにクラスの皆は信じ、男女問わず噂を右から左へと伝えていく。
今やエクトルのいるグループだけではなく、学園の大半が噂を知っているくらいに、フェリシーは立派な悪女に仕立て上げられていた。
「こんだけご立派な悪女に育ててやったんだからさ、少しぐらい美味しい思いを俺たちにもさせてもらえないかねえ。
高位貴族のご令嬢は、美人だし触り心地も良さそうだ」
男爵家の次男である悪友が、下品な笑いを浮かべて言い、周囲がどっと沸く。
「止めとけよ。いまだに婚約者の一人もいないなんて、本当に淫乱な悪女かもしれないぞ。
どんな病気を持っているか怪しいもんさ」
誰かが続けば、また笑い声が大きくなった。
順調だ。
入学してから四年。エクトル達の地道な努力によって、フェリシーの評判は最悪なものとなっている。
遠目で見る限り、高位貴族の何人かはフェリシーと交流しているようだが、それだって気軽な会話を交わしている様子もなく、表面上のお付き合いでしかなさそうだった。
フェリシーを思い出す。
クラスが違うので話しかけることがなくなったが、どこか物憂げな表情を浮かべるようになったフェリシーは、少女から大人の女性へと変わる様が美しかった。
そんな彼女が裏では噂に苦しんでいると思うと、奇妙な高揚感で満たされていく。
不思議な感情の理由は自身でも理解できなかったが、フェリシーが悲しむと思うだけ湧き上がる興奮を止めることができなかった。
本人の耳にも噂は入っているだろう。
エクトルが噂を流しているのだって、おそらくは知っている。
それなのに抗議してこないのだから、伯爵夫人が上手く言ってくれているに違いない。
卒業まで半年。そろそろ両親に頼んで、婚約の打診をしてもらった方が良いかもしれない。
エクトルがフェリシーの噂を流しているせいなのかもしれないが、エクトルにも婚約者がいなかった。
子爵家の嫡男だ。
本来ならば複数の縁談の打診があっても良いはずだが、周囲の似たような家格の令嬢達は皆、既に誰かと婚約している状態で。
だからフェリシーで手を打とうというのだ。
周囲の人間も最初はフェリシーに冷たい態度を取るかもしれないが、フェリシーは学園で首位を守る才女だ。
賢い彼女ならば、エクトルや両親の言うことに逆らわず、子爵家の為に尽くすだろう。後はエクトルに従順で貞淑な妻の姿を社交でも見せれば、数年もすれば噂も落ち着くはず。
そうなった時に、誰もがフェリシーという妻を持ったエクトルを羨むのだ。
エクトルにあるのは、いつかくるフェリシーとの再会だ。
だが、唐突に感情の見えない声が、歓談の輪の外から掛けられた。
「フェリシー・エルトランジェという令嬢は、そんなに愚かでも軽はずみな性格ではないが?」
聞き覚えの無い声に、悪友たちが声の先へと視線を向ける。
そこにいたのは、彼らでは媚を売ることしかできない相手だった。
「……バルバストル侯爵令息」
誰かから漏れ出た名前に、皆が警戒の色を見せる。
クロード・バルバストル侯爵令息。この国には三家しかない、侯爵家の長男。
王族も公爵子女もいない世代で、彼と侯爵令嬢が学園にあるヒエラルキーの頂点だ。
当然のように生徒会長を務める彼は、規則正しく堅物だということで有名である。おそらく同じクラスの女生徒の名前が出たので、生徒会長として注意をしようとでも思ったのだろう。
「いや、俺たちは噂話をしていただけで。確かに少々下世話な内容ですが、そもそも噂になるような女なんですよ」
薄ら笑いを浮かべて悪友の一人が口を開けば、他の者達も追随して大きく頷く。
「そうそう。いやあ、侯爵令息が庇うような相手じゃありません。
なんせ清らかな乙女ではないと噂だし、俺の友人も酒場で何度も彼女を見かけたと言っていましたから」
「なるほど」
眼光が鋭くなったバルバストル侯爵令息が、一歩こちらに近づいた。
「つまり、成人していないにも関わらず、酒場になど通っている生徒がいるということだな。
これは由々しき問題だ」
あ、と端的な音だけが散らばる。
後に続くはずの言い訳はどこからも出てこない。何か言おうものなら、さらに墓穴を掘りそうだったからだ。
「その件は話が逸れるので、後で教師も同席で詳しく聞かせてもらおう。
話は戻すが、お前達がフェリシー・エルトランジェをまだ侮辱する意向だとは理解できた」
バルバストル侯爵令息が歓談室に現れてから、既に部屋の空気は寒気がするほどに冷え込んだ気がする。
夜更けの誰もいない場所だと、好き勝手騒いでいただけなのに何故こんな状況に陥っているのか。エクトルも悪友たちもさっぱりわからない。
ただ、非常に不味いのではという気持ちだけが、焦燥を伴ってぐるぐると体を巡っている。
「こちらの件についてはバルバストル侯爵家より各家に正式な抗議の文書を送り、それを公の場で広めさせてもらう」
途端、誰もが息を呑み、そして気づかれまいと動揺を飲み下す。
このまま彼の発言を許してしまうと、彼らの将来が吹き飛ぶようなとんでもないことになってしまう。それだけは理解できた。
「いくら生徒会長様だからって、特定の令嬢を贔屓するなんてどうかと思いますが」
エクトルの絞り出すような声に、他の者も我先にと声を上げる。
「そうそう、それだけフェリシー・エルトランジェの肩を持つのは、彼女と関係を持っているって噂をされても仕方がない話ですよ?」
「バルバストル侯爵令息もふしだらな令嬢なんて相手にしていては、将来的にもまずいんじゃないですか」
「確かに美人ですけど、教養のない女って顔をしているし」
口々に飛び出す侮辱の言葉を見届け、エクトルは愛想よく笑う。
「バルバストル侯爵令息は何も知らないでしょうが、俺はフェリシーとは幼馴染だったから、彼女のことは一番良く知っていますよ。
あれはバルバストル侯爵令息に相応しくない」
ここまで言えば十分だろうと判断する。
「ほら、これだけ言われるのは、彼女に問題があるからでしょう。
生徒会長も巻き込まれたくなければ、見ない顔をするのが一番ですよ」
エクトルが得意げに言い切れば、誰もがやり切った顔でバルバストル侯爵令息を眺めた。
逃げ切れたという安堵感と、意味のなさない達成感。そして侯爵令息をやり込めたという奇妙な優越感。
それがすぐに打ち砕かれるなんて思わずに。
「残念だが、フェリシー・エルトランジェを一番良く知るのは私だ」
睨みつけているのかと思うほどに目を眇め、真一文字に引いた唇が開かれたと思ったら、思わぬ言葉がバルバストル侯爵令息から出てくる。
美しいロイヤルブルーに見据えられ、エクトルの体がブルリと一度震えた。
「彼女は私の婚約者だからな」
今度こそ彼らのヒュッと息を呑む音が小さく響き、そして表情に焦りが浮かぶ。
椅子から腰を浮かす者や、深々と身を沈めていたソファから起き上がろうともがく者。彼らを見下ろすバルバストル侯爵令息に容赦という言葉は無かった。
「バザン商会長令息、ゴティエ騎士団長補佐令息、ブーレー男爵令息、ナヴァール外交官令息、そしてアルトー子爵令息」
一人ずつ名前を呼ばれ、知られていることからの恐怖で身が竦みそうになる。
聞いていないといった顔で悪友たちがエクトルを睨みつけ、肝心のエクトルは目の前の相手にフェリシーを奪われたというショックで身動きできずにいた。
「それぞれの家に送る抗議書は、厳重な注意を促すものではない。適切に対処をしなければ、こちらもそれなりの対応をするというものになる」
抗議なんてものじゃない。明らかにエクトル達を処分させる気だとわかる言葉に、誰もが血の気を引いていく。
エクトルもまた同じで、ここで逃げ切らなければという強い焦燥感に追いかけられながら、何か言わなければと口を開いては閉じる。
けれど、悪友の一人はまだ少し余裕があったらしい。
突然余裕綽々とした表情になり、伝い落ちる汗をハンカチで拭いながら立ち上がった。
「残念だが証拠がない。ここでの会話を聞いたのはバルバストル侯爵令息だけだ。
俺たちが口を噤んでしまえば、いくら侯爵令息だろうと、一人の発言なんて証拠不十分で誰も信じないさ!」
「いや、証人は他にもいるが?」
え、という声が間抜けにもエクトルの口から漏れる。
バルバストル侯爵令息の視線が動くのにつられて歓談室の出入り口を見れば、開けたままの扉から蔑んだ視線を投げてくる他の男子生徒達と、エクトルたちの担任が凄まじい形相で顔を覗かせているのに悲鳴を上げた。
気が遠くなりそうな中で、そういえば担任が今年の昇任面談に臨むことを思い出す。
自身の保身の為に、エクトル達を売り飛ばすことに躊躇わないだろう。そういう顔をしている。
「エ、エルトランジェ伯爵は抗議なんて望んでいないはず」
苦し紛れに放つ一言。それがエクトルに僅かな希望を与える。
そうだ。元々はフェリシーの母親に言われてしたことだ。ならば、きっと伯爵夫人が抗議などさせないよう説得してくれるだろう。
フェリシーも今はバルバストル侯爵令息の婚約者かもしれないが、こんな醜聞だらけの娘など侯爵家も認めるはずがない。すぐに婚約解消されてしまうはずだ。
だが、エクトルが自業自得の沼で溺れて足掻くたびに、目の前の男は沼底へと押し込もうとするのだ。
「エルトランジェ伯爵家は関係ない。バルバストル侯爵家の婚約者への不遜な態度を抗議するのだ。当家が抗議をしてはならない道理などはない」
そう言ってから、バルバストル侯爵令息は僅かに唇の端を上げた。
「それに、長らく噂を流し続けた悪質な生徒の名が挙がれば、彼女の名誉も回復されるだろうからな」
立ち上がりかけていた体が椅子へと落ちる。背筋に伝い落ちていた汗はシャツへと滲み、逃げ場のない絶望に気持ち悪さを足していた。
誰が呼んだのか、学園の護衛が入ってくる。「逃げないように」と腕を取られ、一体どこに連れて行かれるのだろうか。
一人逃げようとした者は、踏み出した先で足を引っかけられて無様に転んだ。手荒に体を起こされてからは反抗する気も無くなったのか、エクトルの前で引き摺られていく。
どうしてこんなことになった。
エクトルはただ、フェリシーの噂を流していただけなのに。
一体何が悪かったのかわからないまま、エクトルの体も目的地の知らぬ場所へと歩かされ始めた。




