番外編:第10話「マッチ率100%の答え合わせ」
日曜日の午後。
雨上がりの空気は薄く冷たくて、街路樹の葉の匂いが少しだけ濃い。
二人が選んだのは、百貨店の近くでも社員食堂でもない場所だった。
駅から少し歩いた先にある、小さなカフェ。
ガラス張りの窓に雫の名残が残っていて、外の光が柔らかく屈折している。
真子は先に来ていた。
奥の席。
壁際。
人の流れが視界に入りにくい場所。
トレーもなく、制服もなく、インカムもない。
それなのに、席に座っているだけで背筋が伸びてしまうのは、まだ“百貨店の中の自分”が抜けきっていないからだ。
(落ち着け。
今日は仕事じゃない。
でも……仕事より緊張してるの、なんで)
テーブルの上には、真子のスマホが伏せて置かれていた。
さっきから何度も起こしては閉じて、また伏せる。
指先が落ち着かない。
待ち合わせは三分後。
たった三分が、妙に長い。
ドアベルが鳴った。
和人が入ってくる。
スーツじゃない服装の彼は、職場で見るより少しだけ柔らかく見えた。
でも、歩幅は同じ。
迷わない歩き方。
それが真子の胸の奥をじんわり温める。
和人は真子を見つけて、ほんの小さく笑った。
真子も同じように笑い返してしまう。
その笑いが、まだどこかぎこちない。
でも、ぎこちないまま笑えることが、今の二人にはいちばん大切だった。
◆◇◆
「……こんにちは」
「こんにちは」
挨拶が重なる。
重なったことに、二人とも少しだけ照れる。
照れて、視線が一瞬だけ逃げる。
それがまるで、社食の窓際を再演しているみたいだった。
注文を済ませ、カップが置かれ、湯気が立つ。
コーヒーの匂いと、ミルクの甘い匂い。
その“普通の匂い”が、二人を少しだけ普通にする。
真子が先に口を開いた。
「……ねえ、答え合わせ、する?」
和人は一瞬だけ眉を上げて、それから頷いた。
「うん。
……怖いけど、したい」
真子はスマホを起こした。
画面には、保存してあるトーク履歴のスクリーンショットが並んでいる。
消さなかった。
棚にしまった。
でも、今日は鍵を開ける日。
“千佳とリョウ”の卒業アルバムを、二人でページをめくる日。
和人もスマホを起こす。
同じように、同じ履歴を保存していた。
スクショの順番は少し違う。
選んだ箇所も少し違う。
それがもう、面白い。
同じ時間を過ごしたのに、刺さったところが違う。
違うのに、根っこは同じ。
「最初の頃ってさ」
真子が画面を指で滑らせながら言う。
「私、めちゃくちゃ“男のふり”してる」
和人が小さく笑った。
「俺も“女のふり”してる」
「ね。
でも、今読むと……」
真子はスクショを見つめる。
「ふり、なんだけど。
その中に本音も混ざってる」
和人はゆっくり頷いた。
「混ざってるね。
俺、千佳でいる時の方が、正直だったかもしれない」
言った直後に、和人は自分で少しだけ驚いた顔をした。
言葉にすると、痛い。
でも言葉にしないと、ずっと痛いまま残る。
真子はカップに触れて、熱さで指先を現実に戻した。
「私も。
リョウの方が、変に強がれた。
強がれるから、本音を言えた」
「矛盾だよね」
「矛盾」
二人は同じ言葉を繰り返して、笑ってしまう。
笑い方が、少しだけ似ている。
真子は次のスクショを開いた。
「これ、覚えてる?」
画面には、既読がつかない夜のやり取りが映っている。
真子が「大丈夫ですか?」と送ってしまって、後悔して。
和人が遅れて返して、謝って。
それだけの夜。
なのに、真子にとっては“終わるかもしれない”夜だった。
「覚えてる」
和人の声が少し低くなる。
「俺、あの日、返せなくて」
「うん」
「怖かった」
和人は言葉を選びながら、指先でカップの縁を撫でた。
「千佳の言葉が、上手く出てこなくて。
返したら薄っぺらくなる気がして」
真子はその言葉に、胸の奥がきゅっとなった。
自分は“返信がない恐怖”を抱えていた。
和人は“返信が薄くなる恐怖”を抱えていた。
恐怖の種類は違うのに、出どころは同じだ。
失うのが怖い。
傷つくのが怖い。
また一人になるのが怖い。
「私ね」
真子は笑うふりをして、視線を落とした。
「既読がつかないだけで、世界が終わるって思ってた」
和人は苦く笑った。
「俺は、既読をつけるだけで、世界を壊すって思ってた」
沈黙が落ちた。
でも痛くない。
痛くない沈黙に変わったことが、二人の中で小さな勝利だった。
◆◇◆
真子は画面を閉じずに、別のスクショを開いた。
「これも」
そこには、“見るだけ”の話が出始めた頃のメッセージがある。
会いたいのに会えない。
友達なら会えるのに。
会う意味が重すぎる。
その言葉の端々が、今読むと切ない。
「この頃の私たち、めちゃくちゃ遠回りしてる」
真子が言うと、和人は首を振った。
「遠回りじゃないよ。
あれがないと、窓際に行けなかった」
真子が目を上げる。
「……ほんと?」
「ほんと」
和人は言い切った。
言い切ったことに、自分でも少し驚いているようだった。
でもその言い切り方が、真子には嬉しかった。
真面目な人が、覚悟を決めた時の声だ。
真子はカップを一口飲んだ。
苦みが舌に残る。
その苦みが、妙にちょうどいい。
甘すぎない。
逃げない味。
「じゃあさ」
真子が少しだけ軽い声を出した。
軽い声を出さないと、泣いてしまいそうだった。
「一番の答え合わせ、する?」
和人が息を飲む。
「……うん」
◆◇◆
真子はスマホのメモを開いて、そこに書き留めていた言葉を読み上げた。
「私が“男のふり”をしてた理由。
最初は、真面目な男が本当にいるのか確かめたかった。
……でも途中から、違った。
私、あなたと話す時間を失いたくなくて、戻れなくなった」
真子が言い切ると、テーブルの上が静かになる。
周囲の客の声はあるのに、二人の席だけが少しだけ密度を増す。
和人は、同じように自分のスマホのメモを開いていた。
「俺は」
和人はゆっくり言った。
「千佳を作ったのは、女の人にどう接していいか分からなかったから。
理想の女性を演じたら、ちゃんと話せる気がして。
……でも、途中から千佳が俺の理想じゃなくなった」
真子が目を瞬く。
和人は続けた。
「千佳は、たぶん。
誰かから借りてた」
真子は言葉の意味を理解して、息を止めた。
和人は少しだけ目を伏せて、白状する。
「俺、職場で見た真子さんの雰囲気を、千佳の中に混ぜてた。
知らずに。
勝手に。
……気づいた時、最低だと思った」
その告白は、真子の胸を刺すはずだった。
でも刺さらなかった。
代わりに、胸の奥が熱くなった。
(この人、ちゃんと自分の汚いところも言う)
言うのが怖いはずなのに、言う。
その誠実さが、真子の中の疑いを一枚剥がした。
「最低じゃないよ」
真子はすぐに否定しなかった。
否定するのを急ぐと、軽くなる気がしたから。
だから、少し考えてから言った。
「……でも、勝手に借りたなら。
返して」
和人が顔を上げる。
「返す」
「どうやって?」
真子の問いは、冗談じゃない。
和人も分かっている。
答えは一つしかない。
和人は、真子を見て言った。
「真子さんの前で、千佳をやめ続ける」
真子は小さく笑った。
「それ、長期戦だね」
和人も笑う。
「うん。
でも、やる」
そのやり取りが、恋の告白みたいで、告白じゃない。
二人はまだ「好き」を真正面から言わない。
言わないくせに、もうとっくに恋をしている。
恋の定義を避けながら、恋の作法だけが増えていく。
その不器用さを、二人はまだ“自覚していないふり”をしていた。
真子はスマホを置いて、両手でカップを包んだ。
「ねえ、和人さん」
「うん」
「次の約束、普通のやつにしよ」
「普通のやつ」
「うん。
“窓際の一番奥”みたいなやつじゃなくて。
ちゃんと会うやつ」
和人は目を瞬いて、それからゆっくり頷いた。
頷き方が慎重で、でも逃げない。
「……うん」
「怖い?」
真子が聞くと、和人は正直に言った。
「怖い」
「私も」
「でも」
和人が続ける。
「怖いけど、嬉しい」
その言葉に、真子の喉の奥が熱くなった。
泣くのは嫌だ。
今日は泣きたくない。
でも泣きそうになる。
真子は笑ってごまかした。
「マッチ率100%すぎ」
和人も笑って、「ほんとだ」と言った。
◆◇◆
会計を済ませて、店を出る。
雨上がりの道路が薄く光っている。
二人は並んで歩く。
肩は触れない。
でも距離は近い。
近いのに、急がない。
急がないことが、今の二人の優しさだった。
駅に向かう途中、受付の琴美から真子に短いメッセージが入った。
「どう?進展した?」
真子は一瞬だけ画面を見て、すぐ伏せた。
和人に見られたくないわけじゃない。
でも、まだこれは自分の“逃げ込み口”として残しておきたかった。
(琴美、楽しんでるな)
その予感は当たっている。
琴美はきっと受付のカウンターの向こうで、今日もニヤニヤしながら二人を想像している。
“本人たちが気づいてない恋”を、面白がって。
でも、面白がりながら守ってくれる。
そういう人だ。
真子は短く返信した。
「進展してない。
ただ、答え合わせした」
そして付け足す。
「たぶん、これが一番進展」
送信して、真子はスマホをバッグにしまった。
和人が横で「どうしたの」と聞く。
真子は笑って言う。
「同期から。
見守り係」
和人が少し不思議そうに首を傾げる。
その“分かってない顔”に、真子はまた少し笑ってしまう。
(気づいてない)
(ほんとに、まだ気づいてない)
(恋心って、本人には見えないものなのかな)
駅前で足が止まる。
別れ道。
ここからは、それぞれの生活に戻る。
でも、戻り方がもう違う。
一か月前の孤独には戻らない。
戻れない。
真子が言った。
「じゃあ、また」
和人が言った。
「また」
言葉は短い。
でも短い言葉ほど、余白が大きい。
その余白に、これからが詰まっていく。
二人はそれぞれ、別の改札へ向かった。
背中が離れていく。
離れていくのに、不安は前ほど大きくない。
LINEがある。
次の約束がある。
そして何より、相手が“実在する”という確信がある。
その確信が、二人にとっての「マッチ率100%の答え」だった。




