番外編:第9話「千佳とリョウの卒業式」
夜のLINEは、昼間よりも呼吸に近かった。
仕事の言葉も、丁寧な敬語も、売り場の笑顔も脱いだ後の、素の温度がそのまま流れ込んでくる。
新堂真子の部屋では、カーテンの隙間から街灯の明かりが細く差していて。
佐伯和人の部屋では、机の上のスタンドライトが白い円を作っていた。
同じ百貨店で働いて、同じ日に窓際の席で会ったのに。
二人がいま触れているのは、また画面の中の文字だった。
けれどそれは、もう“アプリの中の文字”ではない。
LINEのトーク画面の上には、互いの本名が表示されている。
「佐伯和人」
「新堂真子」
その名前がそこにあるだけで、身体のどこかが少しだけ落ち着く。
真子は送信ボタンの上で指を止めた。
今日一日、何度も思ったことがある。
(“リョウ”って、もういないんだよね)
いないのに、履歴の中にはずっといる。
“男のふり”で吐き出した強がりも。
“男のふり”で書いた、ぎこちない優しさも。
全部残っている。
真子はトーク一覧の画面を一度だけスクロールし、古い履歴を見つけてしまった。
“出会いサイト内メッセージ”から始まり。
敬語が混じった距離感から。
絵文字の探り合いから。
いつのまにか、一日の終わりが「おやすみ」で固定されるまで。
その流れが、今さら読むと少し笑えて、少し泣きたくなる。
(これ、どうするんだろう)
(残すのかな)
(消すのかな)
(消したら、嘘がなかったことになっちゃう気がする)
(でも残したら、ずっと嘘を抱え続けるみたいで怖い)
◆◇◆
同じ頃、和人もまた、古い履歴を見ていた。
“千佳”として打った言葉が、そこには山ほどある。
今読むと、上手いところと、痛いところが混ざっていた。
丁寧なふり。
自然なふり。
理想の女性のふり。
それが、時々自分の本音と混ざっているのが分かる。
(千佳は、俺を守ってくれた)
(でも、俺は千佳に隠れてた)
(そして、真子さんを勝手に材料にしてた)
その後ろめたさが、いまでも指先に残っている。
和人は、トーク画面の入力欄に打った文字を、いったん全部消した。
「今日もお疲れさまでした」
そんな当たり障りのない文章は、今夜には似合わない気がした。
代わりに、逃げない文章を探す。
上手くなくていい。
でも、真子の胸に残るような言葉を。
そして、ようやく送った。
「真子さん。
ひとつ、相談してもいいですか。」
送信。
既読がつくまでの時間が、いつもより長く感じる。
長いといっても数秒なのに、心臓の鼓動だけが先に何度も鳴る。
真子は既読をつけたまま、少しだけ迷ってから返した。
「うん。
なに?」
その二文字が、和人の背中を押した。
和人は、いちばん言いにくいことを言う前に、いちばん大事な前置きを打った。
「俺。
“千佳”のこと、嫌いじゃないです。」
真子の指が止まった。
胸がきゅっとなる。
嫌いじゃない。
その言葉が優しいのに、少しだけ痛い。
だって真子も同じだったから。
“リョウ”を嫌いになれない。
“リョウ”がいたから、ここまで来れた。
真子が返す前に、和人の続きが届く。
「でも、
これから先も、千佳とリョウを残したまま進むのって、
なんか違う気がして。」
真子は息を吐いた。
(同じこと考えてる)
画面の向こうで、同じところに引っかかっている。
それだけで、少し笑いたくなる。
マッチ率100%って、こういうことなのかもしれない。
答えが一致するというより。
引っかかる場所が、同じ。
真子は返した。
「私も。
リョウのまま残しておくと、
また戻っちゃいそうで怖い。」
和人はすぐに返す。
「うん。
だから、
“卒業”しませんか。」
“卒業”。
その単語が妙に可笑しい。
学生みたいに大げさで。
でも、確かにそれくらい大切な区切りだった。
真子はスマホを握ったまま、ソファの背にもたれた。
天井の白がぼんやり見える。
自分の呼吸の音が聞こえる。
そして心の奥に、あの一か月が映画みたいに流れる。
(卒業したい)
(でも、消したくない)
矛盾が同時にある。
どっちも本当。
真子は、正直に打った。
「卒業したいけど。
履歴、消すのは怖い。」
和人の返信は、少し遅れた。
遅れたぶんだけ、考えてくれているのが分かる。
そして届く。
「俺も怖いです。
消したら、
“嘘だった”だけが残る気がして。」
真子の胸が少しだけ熱くなった。
(同じだ)
(この人、ほんとに同じだ)
真子は指先に力を込めて、ゆっくり打つ。
言葉を選ぶ。
ここでの一文は、二人の未来の足場になる。
「じゃあ、消さない。
でも、
リョウと千佳に“ありがとう”って言って、
棚にしまおう。」
送信した瞬間、真子は自分が泣きそうになっているのに気づいた。
たったそれだけの提案なのに。
嘘の自分たちに、ありがとうと言うなんて、変だ。
でも変だからこそ、救われる。
嘘を責めるのではなく、役割を終えた仮面として丁寧に扱う。
そうすれば、罪悪感が少しだけ軽くなる気がした。
和人は画面を見て、しばらく動けなかった。
「棚にしまおう」
その言葉が、優しくて、賢くて。
自分ひとりでは絶対に出てこない発想だった。
千佳を作るために“借りた”ものの中に、こういう強さもあったのかもしれない。
そしてそれを言えるのは、真子本人だ。
借りたものの持ち主が、許してくれるみたいで。
胸の奥がじん、と鳴った。
和人は短く返した。
「うん。
それがいい。」
◆◇◆
それから二人は、まるで小さな儀式をするみたいに、やり取りを始めた。
画面の上の履歴を遡り。
印象に残ったメッセージを一つずつ貼り付けて。
それに“今の自分”としてコメントをつける。
恥ずかしいのに、止められない。
笑ってしまうのに、胸が痛い。
真子がまず貼ったのは、最初期のやり取りだった。
「『お互い無理しないでいきましょう』って、リョウが言ってる。
あの時、私ほんとに救われてた。」
和人はすぐに返した。
「その時の千佳、
『それでも今日をやり切ったのえらい』って返してる。
今読んだら、
俺が自分に言ってほしかった言葉だった。」
真子は笑った。
(笑うしかない)
二人とも、自分が欲しい言葉を、相手に届けていた。
だから噛み合った。
だからマッチ率100%だった。
やり取りが少し落ち着いた頃。
真子がふと、核心に近いことを打ってしまう。
「ねえ。
私たち、もう好きなんじゃない?」
送信した瞬間、真子の全身が熱くなった。
(言っちゃった)
(やばい)
(冗談のつもりなのに、冗談じゃない)
和人の既読がつく。
返信が遅い。
真子の心臓が速くなる。
速くなるほど、指先が冷たくなる。
(やっぱり言い過ぎた?)
(引かれた?)
(好きって、言葉にしたら責任になる)
ようやく和人の返信が届いた。
「……好きって、
どの好きですか。」
その返しは、逃げでも拒絶でもなく。
ただの不器用な確認だった。
真子はその不器用さに、胸の奥がきゅっとなる。
(この人、ほんとに真面目だ)
だからこそ、真子は少しだけ柔らかく返した。
「まだ、言葉にできるほどじゃない。
でも、
“いなくなったら困る”の好き。」
和人は、しばらく既読のまま動かなかった。
スマホを持つ手に汗がにじむ。
息が浅くなる。
そんな自分を自覚しながら、和人はようやく打った。
「それなら、
俺も同じです。」
その一文で、真子は画面を見つめたまま、静かに涙をこぼした。
涙は派手に流れない。
頬を濡らすだけ。
でも、確かに落ちた。
“リョウ”のふりをしていた一か月の中で、何度も飲み込んだ本音が、ようやく今、言葉になったから。
二人は、そこから先を急がなかった。
急がないことが、二人の優しさでもあった。
恋の形にすぐ名前をつけない。
名前をつけると壊れそうだから。
でも、名前をつけなくても、同じ方向に進めると分かったから。
最後に、真子が言った。
いや、打った。
「千佳とリョウ、
ありがとうって言おう。」
和人は返した。
「うん。
ありがとう。
千佳。」
真子も返す。
「ありがとう。
リョウ。」
その瞬間、二人の中で何かがきちんと終わった。
終わったから、次に行ける。
嘘を消したわけじゃない。
嘘を否定したわけでもない。
ただ、役目を終えた仮面を、丁寧に棚にしまった。
真子は最後に、少し笑って打った。
「じゃあ、明日からは
真子と和人で。」
和人は、同じように笑って返した。
「うん。
真子と和人で。」
画面の上では、まだ過去の履歴が残っている。
消えてはいない。
でも、二人の心の中ではもう、居場所が変わった。
大事な箱の中。
鍵をかけて保管する場所。
そして、二人は同じタイミングで「おやすみ」を送り合った。
たったそれだけの言葉が。
今夜は、卒業証書みたいに胸に残った。




