番外編:第8話「見守り席、受付カウンター」
朝の受付は、今日も“いろんな顔”が流れていく。
遅刻ギリギリの顔。
寝不足の顔。
連休明けの魂が半分抜けた顔。
誰かに怒られて肩が落ちている顔。
逆に、妙に機嫌がいい顔。
山瀬琴美は、その全部を笑顔で受け止めながら、内心では別のものを見ていた。
受付という場所は、百貨店の心臓みたいなところだ。
館内の空気の流れがここを通る。
スタッフの気配も、客の機嫌も、噂も、すれ違いも、全部ここに集まっては散っていく。
そして今、琴美の視界の端に、明らかに“恋の気配”が漂っていた。
しかも、本人たちが気づいていないやつ。
いちばん見ていて楽しい種類のやつ。
(あーー、はいはい。
これ、もう両方好きじゃん)
琴美は顔には出さない。
受付の笑顔は崩さない。
でも心の中では、今日もニヤけていた。
◆◇◆
午前九時すぎ。
販促の佐伯和人が受付前を通った。
書類の束を抱えて、いつも通りの落ち着いた歩幅。
きょろきょろするタイプじゃない。
目立つこともしない。
なのに、今日の彼は“視線の置き方”がほんの少しだけ違った。
受付の端末を見ているふりをしながら、館内の奥――化粧品フロアの方角を一瞬だけ確認する。
琴美は、その一瞬を見逃さない。
受付はそういう場所だ。
一瞬の癖が、その人の心の動きを教えてくれる。
(探してる。
いや、探してないフリして探してる)
和人がカウンターに近づく。
「山瀬さん、おはようございます。
今日、化粧品の導線、変更ありましたっけ」
声は平静。
完全に仕事の声。
でも琴美には分かる。
“用件”は口実だ。
本題は、そこじゃない。
琴美は受付の端末を操作しながら、わざと少しだけ間を作った。
その間に、和人の視線がほんの少しだけ泳ぐ。
泳いだ先が、やっぱり化粧品フロアの方角。
(はい、恋)
琴美は知らん顔で答える。
「今日は変更なしです。
昨日のまま」
「ありがとうございます」
和人はきちんと頭を下げて、また歩き出す。
その背中はいつもと同じ。
でも琴美の目には、背中の中心に小さな“矢印”が刺さっているように見える。
矢印の先には、新堂真子。
(自分の気持ちに気づいてない男ほど、背中でバレるんだよなあ)
◆◇◆
その数十分後。
化粧品売り場の新堂真子が、受付を横切った。
パンフレットを届けに来たらしい。
手元の束を抱え、早歩き。
仕事の顔。
凛としている。
なのに、受付前を通る瞬間だけ、目がきょろりと動いた。
ほんの少しだけ。
“誰か”を探す動き。
(はい、こっちも恋)
琴美は思わず笑いそうになり、口元に力を入れてこらえる。
受付の笑顔のまま、真子に声をかける。
「真子、おはよ」
真子は一瞬だけ足を止めた。
「おはよ、琴美」
声はいつも通り。
だけど、その声の奥に、昨日よりほんの少しだけ温度がある。
それが琴美には面白い。
「今日、肌ツヤ良くない?」
琴美がからかうように言うと、真子は目を細めた。
「やめて。
寝不足なだけ」
「へー」
琴美はわざとらしく頷いた。
「寝不足ねえ」
真子はそれ以上突っ込まれたくないのか、パンフレットを置いて「じゃ」と言って去ろうとした。
琴美は、ここで“ちょっとだけ”仕掛けることにした。
わざと軽い声で言う。
「そういえばさ、販促の佐伯さん、さっきこの辺通ってたよ」
真子の動きが、ほんの少し止まった。
ほんの、コンマ数秒。
でも琴美の目にははっきり見えた。
真子はすぐに何でもない顔を作って、肩をすくめる。
「へえ」
「へえ、だって」
琴美は心の中で拍手をした。
(へえ、の温度じゃなかったよね今)
真子は言い訳みたいに続けた。
「忙しいよね、販促って」
琴美は頷く。
「忙しい。
でも、佐伯さんって真面目だよね」
真子は軽く「うん」と返した。
その“うん”が、いつもより少しだけ柔らかい。
それで琴美は確信する。
(好きじゃん)
(いや、本人は“好き”だと思ってない。
“気になる”とか“落ち着く”とか“話しやすい”とか。
そういう言葉でごまかしてる)
(でも、恋ってそういうところから始まる)
真子が去っていく背中を見送りながら、琴美は受付の端末に視線を戻した。
落とし物の問い合わせが入る。
迷子の案内がある。
館内放送の依頼が飛ぶ。
いつもの忙しさ。
それでも琴美の心は軽い。
だって今日は、“見守り席”に座っている気分だったから。
◆◇◆
昼前。
和人から内線が入った。
「すみません、山瀬さん。
今日の社食、混みますかね」
琴美は受話器を握りながら、目を細める。
(おいおい)
(まだ社食の話引きずってるのか)
それがもう答えだ。
昨日、窓際で会った相手。
今日も気になる。
だから社食の混み具合が気になる。
完全に恋。
琴美は平然と答える。
「今日は普通だと思いますよ。
雨じゃないし」
「ありがとうございます」
通話が切れる。
琴美は受話器を置き、心の中で言う。
(“普通”って言葉を、今のあなたたちは信じないでしょ)
◆◇◆
午後。
真子が売り場から受付へ戻ってきた。
今度は館内放送の確認。
琴美が原稿を読み上げると、真子は頷きながらペンでチェックを入れる。
その指先の動きが、ほんの少し落ち着かない。
早い。
必要以上に早い。
焦りの早さだ。
琴美は、さらっと言った。
「真子、今日さ」
「うん」
「……スマホ見る回数、増えてる」
真子のペン先が止まった。
「は?」
「は、じゃない。
増えてる。
仕事中はダメだよ~?」
琴美が冗談っぽく言うと、真子は顔を赤くした。
「見てないし」
「見てる」
「見てない」
「見てる」
やり取りはいつもの同期の喧嘩みたいだ。
でも琴美は、真子の目が一瞬だけ泳いだのを見逃さない。
真子は負けを認める代わりに話題を変えた。
「……琴美は、そういうのないの」
「ないよ」
琴美は即答した。
「私は受付が彼氏」
「うわ、きっつ」
「でしょ」
二人は小さく笑う。
その笑いの中で、琴美は真子の肩にそっと手を置いた。
ほんの一瞬だけ。
「大丈夫だよ」
声に出さない。
でも、その手の温度だけで伝える。
真子は一瞬だけ動きを止めて、すぐに「……うん」と小さく返事をした。
◆◇◆
夕方。
和人がまた受付前を通った。
今度は書類が少ない。
歩幅が少しだけ軽い。
でも、視線の先はやっぱり化粧品フロア。
琴美はもう笑いを堪えるのも面倒になってきて、心の中で実況する。
(はい、また見てる)
(今日、会わないのに)
(会ったんだから落ち着け)
(落ち着けないんだろうなあ)
和人が一瞬だけ受付の方を見る。
琴美と目が合う。
琴美は、受付の完璧な笑顔のまま、ほんの僅かに口角を上げた。
“分かってますよ”という合図。
和人は不思議そうに眉を寄せて、すぐに視線を外した。
(気づいてない)
(自分の気持ちにも、私の目線にも)
(鈍い男)
(でも、そういう男ほど、いざ気づいたら一途なんだよね)
琴美は受付のカウンターの下で、小さくガッツポーズをした。
今日も二人は、少しずつ近づいている。
しかも本人たちは、まだそれを“恋”と呼ばない。
恋と呼ぶには、まだ怖いから。
恋と呼ぶには、責任が生まれるから。
だけど琴美は知っている。
責任が怖い人ほど、本気になった時、ちゃんと向き合う。
逃げない。
誤魔化さない。
嘘から始まった二人が、嘘をやめていく速度を、琴美は一番近くで見ている。
(いいなあ)
(こういうの、好き)
受付のガラス越しに、夕方の光が差し込む。
その光の中を、誰かが走っていく。
その背中の行き先が、きっと誰かの心臓の方角だと、琴美は今日も勝手に決めつけて楽しんでいた。
そして、本人たちが気づかないまま――
恋心は今日も、きちんと育っていた。




