番外編:第7話「アプリの外へ」
夜の部屋は、昼間よりも音が少ない。
冷蔵庫の低い駆動音と、外を走る車のタイヤの音、それからスマホが震える小さな振動だけが、世界の輪郭を作っている。
真子の部屋では、ソファの上に投げたクッションが少しだけ傾いていて、テーブルの上には飲みかけの麦茶が置かれていた。
和人の部屋では、脱いだネクタイが椅子の背にかけられていて、机の端に置いたスマホの画面だけが時々光った。
二人は、同じ夜を別々の場所で迎えながら、同じトーク画面を見つめていた。
“リョウ”と“千佳”という、もう卒業したはずの名前。
その履歴の上で、今日は「真子さん」「和人さん」と本当の呼び方を交わしたばかりだった。
そこまで来て、真子も和人も気づいてしまった。
このまま“アプリの中”に居続けることが、急に不自然になったことに。
メッセージはまだ続いていた。
仕事の小さな出来事。
午後の混み具合。
お互いの「変な感じでした(笑)」という余韻。
その中で、和人がふと、言葉を選びながら打ち始めた。
《LINE画面ではなく、アプリ内メッセージ画面》
(※二人はまだアプリ上で連絡している)
和人(千佳のアカウント):
真子さん。
ちょっと、言っていいですか。
真子:
うん。なに?
和人の指が止まる。
(今言ったら、空気が変わる)
でも、変わらないまま進むのは、もう違う気がした。
この一か月、アプリという“安全な箱”の中でしか言えなかった言葉が、今は箱のせいで息苦しい。
箱があったから話せた。
でも箱の中にいる限り、いつまでも嘘の残り香が消えない。
和人は、深呼吸をしてから文字を置いた。
和人:
俺、正直……
このアプリに居続ける気持ちが、もうあんまりないです。
送った瞬間、胸がきゅっと縮む。
拒絶される怖さじゃない。
「急ぎすぎ」と思われる怖さ。
「重い」と思われる怖さ。
そして、何より――自分の本気を自分で認めてしまう怖さ。
既読がつくまでの数秒が長い。
真子は画面を見つめたまま、指を止めていた。
(わかる)
その言葉が喉まで来て、でも一瞬だけ迷う。
もし自分だけがそう思っているなら、和人を追い詰めることになる。
でも、そうじゃない。
真子も今日、社員食堂で会ってしまってからずっと、アプリの画面が“薄い”と感じていた。
本当の名前で呼び合ったのに、アプリのプロフィールに戻ると、嘘の世界へ引き戻されるみたいで気持ちが悪い。
真子は、ゆっくり打った。
真子:
……私も。
今日会ってから、ずっと思ってた。
ここにいるの、変な感じする。
その返信を見た瞬間、和人の肩がふっと落ちた。
救われた、というより、同じ場所に立っていたと分かった。
同じ方向を見ていた。
それが嬉しかった。
和人は続ける。
今度は、逃げ道を残しすぎないように。
でも押しつけにならないように。
言葉を丁寧に選んで。
和人:
これからは、アプリの中でじゃなくて……
連絡先を交換して、LINEでやり取りしませんか。
送信ボタンを押した瞬間、指先が少し熱くなる。
たったそれだけの提案なのに、意味は大きい。
LINEに移るということは、アプリの“偶然の出会い”から、現実の“選んだ関係”に変わるということだから。
もう戻れない。
でも戻らない。
真子は画面を見て、小さく笑った。
笑うしかなかった。
だって、それは真子が言おうとしていた言葉でもあったから。
(同じタイミングで同じこと考えるの、マッチ率100%すぎる)
そして同時に、胸の奥が少しだけ痛む。
(ここまで来ても、まだ“嘘がスタート”だった事実は消えない)
けれど、今は嘘を減らす方向へ進んでいる。
その事実が、真子の罪悪感を少しだけ軽くした。
真子は、素直に打つ。
真子:
うん。
私もそれがいい。
アプリの中にいると、まだ“リョウ”と“千佳”に戻っちゃいそうで。
もう戻りたくない。
その言葉に、和人は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
(戻りたくない)
その一言が、二人の今をちゃんと肯定してくれた。
和人は、少しだけ冗談を混ぜる余裕が出てきて、短く返す。
和人:
じゃあ、交換しましょう。
……今さらだけど、緊張してます(笑)
真子も返す。
真子:
私も(笑)
でも、嬉しい。
そこから先は、実務的なやり取りになるはずなのに、二人の指はどこか慎重だった。
ID。
QR。
追加。
送信。
承認。
その一つ一つが、現実へ足を踏み出す手続きみたいで、心臓が忙しい。
真子は、アプリの画面のまま、ふとプロフィール欄を見てしまった。
性別:男。
名前:リョウ。
そこにはまだ“嘘の自分”が残っている。
それが急に可笑しくて、少しだけ切ない。
和人も、アプリの“千佳”のプロフィールを一瞬だけ見てしまった。
化粧品売り場の女性。
理想の女性。
その理想が、自分を守り、同時に真子をここまで連れてきた。
(ありがとう)
(でも、もう大丈夫だ)
やがて、真子のLINEに新しい通知が出る。
「佐伯和人が友だち追加しました」
その文字列は、奇妙なほど現実味があった。
そして胸が熱くなる。
(名前って、こんなに温度があるんだ)
和人のLINEにも表示される。
「新堂真子が友だち追加しました」
和人はその文字を、何度も読み返してしまった。
“真子さん”ではない。
“新堂真子”。
仕事で何度か見た名前。
でも、今日からそれは“画面の向こうの人”の本名でもある。
二人は、アプリのトーク画面で最後の一言を交わす。
和人:
じゃあ……
ここ(アプリ)では、これで最後にしますか。
真子:
うん。
なんか、卒業式みたい(笑)
和人:
千佳とリョウの卒業式。
真子:
だね。
……おやすみ、和人さん。
和人:
おやすみ、真子さん。
LINEで、また。
送信して、二人はほぼ同時にアプリの画面を閉じた。
画面が暗くなる。
そこに残るのは、夜の静けさと、少しだけ軽くなった呼吸。
そして、LINEを開く。
新しいトーク。
新しい画面。
新しい名前。
“嘘の箱”から抜け出して、現実の連絡先へ。
まだ何も始まっていないのに、もう始まっている。
そんな夜だった。




