番外編:おまけ「窓際の席、もう一度」
月曜日の朝。
百貨店の裏口はいつも通り消毒液の匂いがして、床はワックスで光っていた。
人の足音が反響する通路は、忙しさのスイッチを強制的に入れてくる。
それでも、今日は少し違った。
新堂真子はカードキーをタッチする音を聞いた瞬間、胸の奥に小さな合図が灯るのを感じた。
(今日も、いる)
(同じ建物のどこかに、和人さんがいる)
それは恋の高揚というより、生活の支えに近い安心だった。
一か月前なら、同じ建物に“リョウ”がいるかもしれない、と想像するだけで胸がざわついた。
今は、ざわつきは残っているのに、そのざわつきに居場所がある。
嘘の中の不安ではなく、現実の中の緊張。
現実の緊張は、逃げなくても受け止められる種類のものだと、真子はようやく知り始めていた。
受付のカウンターでは、山瀬琴美がすでに“完璧な顔”をしていた。
笑顔の角度が一定で、声のトーンが明るく、目の奥だけが忙しい。
真子が近づくと、琴美はパンフレットを揃えるふりをして小声で言った。
「昨日、答え合わせしたんでしょ」
「した」
「で」
琴美はにやっとする。
「告白は」
「してない」
「だろうね」
琴美は肩を揺らして笑いそうになり、ぐっとこらえた。
受付にはお客さんがいる。
声には出せない。
でも顔の筋肉が楽しそうにしている。
「なんでそんな楽しいの」
真子が呆れると、琴美はさらっと言った。
「楽しいから」
そして目だけで真子を見て、最後に小さく付け足す。
「でも、ちゃんと進んでるからね」
真子は返せる言葉が見つからず、パンフレットを置いて「じゃ」とだけ言って売り場へ戻った。
歩きながら、琴美の言葉が胸に残る。
進んでる。
確かに進んでいる。
けれど進み方は遅い。
遅いけれど、二人にとってはちょうどいい。
化粧品売り場に立つと、香りの波が一気に押し寄せる。
パウダーの粉っぽさ。
リップの甘さ。
アルコールの揮発。
ライトの白さ。
そのいつもの“濃い空気”の中で、真子は仕事の顔を作った。
笑顔。
提案。
確認。
在庫。
いつもと同じ流れ。
いつもと同じ言葉。
ただ違うのは、休憩時間が近づくにつれて心拍が少しだけ上がることだった。
(今日、会う約束はしてない)
(でも、会うかもしれない)
(会ったら、どうする)
考えるだけで、口の中が乾く。
それでも真子は自分を叱った。
(期待しすぎるな)
期待が大きいと、外れた時に自分が崩れる。
一か月間、画面の向こうに期待しすぎて痛い目を見た経験が、まだ体に残っている。
◆◇◆
昼休憩。
真子はタイミングよく売り場を離れた。
社員食堂へ向かう通路で、ふと窓際の光が思い出される。
一番奥の窓際。
あの席。
昨日までは“特別な席”だった。
今日も、特別でいてほしい気持ちと、特別にしすぎたくない気持ちがぶつかる。
社員食堂の入口をくぐると、揚げ物の匂いが濃くなる。
トレーを取って、列に並び、日替わりを受け取る。
いつもの行動。
いつものはずなのに、心だけが一番奥を先に見てしまう。
窓際の席。
今日は、空いていた。
誰も座っていない。
真子の胸が少しだけ沈む。
(そりゃそうだ)
(和人さんだって、毎日窓際に座るわけない)
自分に言い聞かせて、別の席に行こうとした。
その時だった。
背後から、控えめな声がした。
「新堂さん」
名前で呼ばれた瞬間、真子の背中に細い電気が走る。
振り向くと、佐伯和人がトレーを持って立っていた。
スーツ姿。
でも昨日より少しだけ肩の力が抜けている。
目が合う。
その目に、言葉にしない“続き”が映っている気がした。
「……佐伯さん」
真子が呼び返すと、和人は少しだけ笑った。
笑い方が、窓際の時より自然だった。
自然なのに、真子の胸がきゅっとなる。
「ここ、座ってもいいですか」
和人が窓際を顎で示す。
真子は一瞬、迷った。
特別な席に戻るのが怖い。
でも、逃げる方がもっと怖い。
真子は頷いた。
「……どうぞ」
二人は窓際に座った。
昨日とは違う。
約束していない。
指定もしていない。
ただ偶然に見えて、偶然じゃない。
(たぶん、どっちも探してた)
真子はそう思った。
でも口には出さない。
◆◇◆
食べ始めは、やっぱりぎこちなかった。
箸の音が気になる。
味噌汁の湯気が目にしみる。
周囲の会話が遠い。
それでも、昨日より息がしやすい。
昨日は“初めての現実”だった。
今日は“二回目の現実”だ。
二回目は、少しだけ現実に慣れる。
和人がぽつりと言った。
「昨日、言ってた“普通の約束”」
真子の指が一瞬止まる。
和人は続けた。
「……今週、どこかでしませんか」
真子は、心の中で琴美の顔を思い浮かべた。
(ほら、進んでるって言ったじゃん)
その声が聞こえた気がして、真子は笑ってしまいそうになる。
でも笑いは我慢した。
代わりに、ちゃんと返事をした。
「……いいですよ」
和人の表情が、ほんの少し明るくなる。
大げさじゃない。
でも確かに、喜びがそこにある。
「土曜の夕方とか」
「うん」
「カフェでも、散歩でも」
「うん」
「……ちゃんと、会うやつ」
「うん」
短い返事だけで、二人の間に合意が積み上がる。
まるで一か月分のメッセージみたいに、少しずつ、確実に。
食べ終えて、トレーを返却口へ運ぶ。
昨日と同じ動き。
でも今日の背中は、昨日より軽かった。
返却口の水音の前で、真子はふっと思う。
(これ、もう“会う前提”の関係になったんだ)
それが怖くて、嬉しい。
トレーを置き終えたところで、和人が真子に向かって小さく言った。
「……今夜も、連絡していいですか」
真子は頷いて、昨日より自然に笑った。
「うん。待ってます」
和人が目を丸くして、すぐに笑う。
「それ、この前の俺のセリフ」
「じゃあ、おあいこ」
真子が言うと、和人は「おあいこですね」と言って、少し照れたように視線を外した。
その照れを見て、真子は思った。
(気づいてない)
(まだ二人とも、恋って言ってない)
でも、恋って言わなくても育つものがある。
育ってしまったものがある。
受付カウンターの向こうで、琴美がきっと今、楽しそうに笑っている。
そんな想像をしながら、真子は自分の売り場へ戻った。
午後の仕事が始まる。
日常が始まる。
でも、日常の中に“約束”がひとつ増えた。
その約束の重さが、真子の背筋を少しだけ強くしていた。




