番外編:第1話「琴美という共犯者」
新堂真子は、従業員口の自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、心臓の位置を確かめるように胸に手を当てた。
掌の下で脈が速く打っている。
たぶん、さっきからずっと。
(落ち着け。
今日はただの出勤日。
ただの平日。
……なのに、なんでこんなに世界がうるさいの)
バックヤードの空気は、消毒液と段ボールと、床のワックスの匂いが混ざっていた。
百貨店特有の、裏側の匂い。
前に進むほどに、あらゆる音が反響して、真子の鼓膜に張り付く。
台車のキャスターが擦れる音。
インカムの短い呼び出し。
誰かの「すみません」の乾いた声。
真子は受付へ向かう細い通路を歩きながら、自分の中に二つの時間が同時に流れているのを感じていた。
ひとつは、いつもの仕事の時間。
もうひとつは、アプリの向こうで一か月積み上げた時間。
その二つが、同じ建物の中で重なろうとしている。
重なった瞬間、何かが壊れそうで、何かが始まりそうで、胃のあたりが軽く痛んだ。
◆◇◆
受付カウンターの角に、山瀬琴美がいた。
きっちり整えられた制服。
いつも通りの笑顔。
いつも通り、周囲に気を配りながら、目だけで真子を見つける。
その目が「裏へ来て」と言っている。
琴美は案内用のパンフレットを揃えるふりをして、真子を受付裏の小さなスペースへ誘導した。
裏といっても物置みたいな狭い場所で、書類棚とコピー用紙の束があり、壁際に小さな椅子が二脚置いてある。
そこに入ると、外の喧騒が薄い壁一枚ぶんだけ遠くなった。
「顔、死んでる」
琴美が開口一番、小声で言った。
「死んでない」
真子は言い返したつもりだったが、声が妙に乾いていた。
自分でも分かる。
落ち着いたフリをしているだけで、内側がざわざわしている。
琴美は真子の顔をじっと見て、それから手元のペンでパンフレットの端をトントンと叩いた。
「昨日、何があった。
“例の人”と進展した?」
琴美は声のトーンを、同期の雑談のそれに合わせてくれる。
この百貨店の中で、そういう配慮ができる人は、案外少ない。
真子は一度だけ息を吸って、吐いた。
吐く息が細い。
それだけで、自分がどれだけ緊張しているか分かってしまう。
「……私、男のふりしてたじゃん」
「うん」
「相手も」
琴美の眉が上がった。
「……相手も?」
真子は頷いた。
「女のふりしてた。
千佳っていう女は、男だった」
琴美が口を押さえて、笑いそうになったのを必死で堪える顔をした。
笑いの形になりかけた口元が、すぐ真剣な線に戻る。
「ちょっと待って。
え、じゃあ、結果的に……」
「異性だった」
「うわ、やば」
琴美は小さく呟き、真子の隣の椅子に腰を下ろした。
椅子がギシッと鳴る。
その音がやけに現実的で、真子は少しだけ安心した。
「で」
琴美が続ける。
「そいつ、うちの百貨店?」
真子の喉がきゅっと締まった。
そこを口にするのが、まだ怖い。
でも、言ってしまった方が楽になる気がした。
「……同じだった」
琴美が一拍遅れて、目を見開く。
「は?」
「同じ百貨店。
場所まで一致した」
「え、まじで」
琴美は一瞬、冗談かどうかを見極めるように真子の瞳を覗き込んで、真子が笑っていないのを見て、ゆっくりと息を吐いた。
「怖」
「怖いよね」
「てか、運命って言っていいレベルじゃん」
「そういうの、今いらない」
真子が言うと、琴美は「ごめん」と小さく笑って、すぐに真面目な顔に戻った。
「でもさ」
琴美は声をさらに落とした。
「同じ百貨店って確定したなら、どこかで会うよね。
いや、もう会ってるかもしれない」
その言葉で、真子の背筋に冷たいものが走った。
(会ってるかもしれない)
それはずっと考えないようにしてきたことだった。
考えた瞬間に、世界が変わるから。
真子は唇を噛んだ。
「……顔も名前も知らない」
「相手の?」
「うん。
相手も私の本名も年齢も知らない」
「じゃあ、探すしかない」
琴美が即答した。
それが、受付の人間の即断なのか、琴美という人間の勘なのかは分からない。
でも、その迷いのなさに、真子は救われた。
(私一人だったら、ここで固まってた)
琴美は受付の端末の画面をちらっと見た。
「“百貨店勤務っぽい”って情報だけで一か月会話してたんだよね。
どの部署かは言ってない?」
「言ってない。
私は総合職っぽい男の設定で話してたけど、あっちは化粧品売り場担当って。でもうちの男たちの気が全くしない…」
「ふーん」
琴美は指を折って考え始めた。
「じゃあ候補は、現場と関わりが多い男。
販促、外商、総務寄りの調整役、あと売り場責任者クラス。
……もしくは、現場の男なのに、現場じゃないふりしてる可能性もある」
真子は目を瞬いた。
「そんなややこしいことある?」
「あるよ。あんたがやってんじゃん」
「やめて」
「ごめん」
琴美は笑いながらも、その笑い方が軽くて、真子は少しだけ息がしやすくなった。
それから琴美は、受付の仕事の隙間に、まるでゲームの攻略みたいに“候補者リスト”を作り始めた。
「まず、最近化粧品フロアに頻繁に出入りしてる男。
販促の佐伯さん。
あと外商の若い葛城さん。
あと紳士の補佐の後藤さん。
この三人」
琴美は紙の端にメモを走らせる。
真子はその紙を見て、心臓がまた早くなった。
(佐伯)
名前が具体的になると、それだけで現実の手触りが強くなる。
知らなければ、まだ安全な曖昧さの中にいられるのに。
でも、もう曖昧さでは守れない。
守れないから、進むしかない。
「で、真子。
相手の文章の癖とかないの」
「癖……」
真子は思い出そうとした。
“リョウ”は丁寧だけど堅すぎない。
絵文字はたまに。
言葉を選ぶ。
妙に観察が細かい。
人の疲れ方を分かっている。
でも、それは“性格”であって、現実の人物の決定打じゃない。
「文章だけで分かるほど、簡単じゃないよ」
「だよね」
琴美が頷いて、少しだけ眉を寄せた。
「じゃあ、現場で探すしかない。
でも探し方を間違えると、あんたが壊れる」
その言い方が、琴美らしかった。
真子を面白がりながら、ちゃんと守る。
「壊れないよ」
真子は言った。
言ったけれど、胸の奥がふわふわして、自信がない。
琴美は真子の言葉を信じるふりをして、でも念のために釘を刺すように言った。
「壊れそうになったら、逃げていいからね」
◆◇◆
琴美は“それっぽい男”を見かけるたびに、真子に短い報告を入れた。
「今、佐伯さん、化粧品フロアの前通った」
「葛城さん、受付で迷子対応してた」
「後藤さん、バックヤードで段ボール運んでた」
真子はそのたびに胸が反応し、同時に「違ったらどうする」と怖くなった。
候補が増えるほど、確信は遠のく。
(結局、私は相手の顔を知らない)
自分が一か月間、会話していた相手の顔を知らない。
そのことが、今さら怖かった。
怖いのに、どこかで誇らしくもある。
顔より先に、心で人を好きになった。
そんな理想みたいなことが、自分にも起きた。
でも、それが“嘘から始まった”という事実が、胸の奥で鈍く痛む。
真子は在庫確認支援で化粧品売り場へ行った。
忙しさに救われながら、棚の奥を覗き込み、数字を追う。
その時、資料を持った男が現れた。
スーツの男。
ネクタイ。
控えめな所作。
胸元の名札。
佐伯和人。
(佐伯……)
琴美の候補の一人。
ただそれだけのはずなのに、真子の心は明らかに反応した。
彼が話す声。
丁寧な間。
余計な言葉を足さないのに、冷たくない感じ。
それが、アプリの向こうの“リョウ”の輪郭と重なる。
(この人かもしれない)
初めて、真子は“意識して”その男を見た。
これまでも何度か同じ空間にいたはずだ。
でも、その時はただの同僚の一人だった。
今日だけは違う。
“千佳”の影をまとった男として、目の前に立っている。
その後、彼がバックヤードへ戻ろうと歩き出した時、真子はふいに、その背中を見つめてしまった。
背中。
肩。
歩幅。
急がないのに迷いのない歩き方。
その背中は、なぜか“知っている気がする背中”だった。
そして彼が振り返った。
視線が合った。
ほんの一瞬。
その瞬間に、真子の心臓が跳ねた。
彼は軽く微笑んで、そのまま行ってしまった。
その微笑みが、真子の胸の奥を決定的に揺らした。
ただの社交辞令の笑みのはずなのに、そこに“受け止める”感じがあった。
責めない。
押しつけない。
ただ、そこにいる相手を肯定する。
それが、あのアプリの優しさと同じ質感だった。
(この人だ)
(……たぶん)
たぶん、という曖昧さが残るのに、心だけはほとんど決めてしまっていた。
それが怖かった。
でも同時に、嬉しかった。
会話の相手が“実在する”ことが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
◆◇◆
その夜。
真子と和人はアプリで、確信には踏み込まずに一日を報告し合った。
互いに、目が合った気がしたことだけを、曖昧なまま共有した。
そして最後に、和人が言った。
「明日のお昼休みに社員食堂で会いませんか」
「12時半に一番奥の窓際の席に座っているから」
真子はスマホの画面を見つめたまま、しばらく指を動かせなかった。
“会う”という言葉が、画面から飛び出して喉元に触れたような感覚。
ここまで来たら、逃げたら終わる。
逃げたら、あの一か月を自分で否定することになる。
でも、行ったらどうなる。
行ったら、全部が変わる。
(変わっていいの?)
考えながら、結局、指が勝手に動いた。
「わかりました」
それだけ返して、画面を閉じた。
閉じた瞬間、胸の奥が熱くなる。
怖いのに、決めてしまったことへの安堵が混ざって、涙が出そうになった。
真子はその後すぐに琴美にLINEして、状況を報告した。
◆◇◆
翌朝。
真子は受付へ行き、琴美を見つけた。
琴美は真子の顔を見ただけで察したように目を細めた。
「行く顔してる」
真子は小さく頷いた。
「……行く」
琴美は、ほんの少しだけ真子の肩を叩いた。
「大丈夫。
あんたが思ってるより、世界はちゃんと優しい」
その言葉は、慰めではなく、現実を知っている人間の言葉だった。
受付に立つ琴美は、毎日いろんな人の表情を見ている。
怖がっている人。
期待している人。
失敗した人。
救われた人。
その全部を見てきた目で、真子を見ている。
「もし、違っても」
真子が言いかけると、琴美はすぐ遮った。
「違っても、あんたは今日一歩進めたってことになる。
それだけで勝ち」
真子はその言葉に、喉の奥が熱くなった。
そして、いつもみたいに笑えないまま、でも確かに頷いた。
「ほら」
琴美は小さく顎で示した。
「行っておいで」
真子は背筋を伸ばし、社員食堂へ向かう通路を歩き出した。
心臓は速い。
手のひらは汗ばんでいる。
でも足は止まらない。
止めない。
(琴美がいる。
だから私は行ける)
“共犯者”という言葉は軽く聞こえるかもしれない。
でも真子にとって琴美は、ただの共犯者じゃなかった。
嘘から始まった恋が現実に触れる瞬間、背中を押してくれる人。
勇気を貸してくれる人。
世界が怖い日に、怖いままでいいと言ってくれる人。
そして真子は、12時半、一番奥の窓際の席へ向かった。
そこに座る男が誰であれ、今の自分が“行く”と決めた事実だけは、もう嘘じゃなかった。




