第39話最終回:改めまして…
社員食堂の一番奥、窓際の席は、昼の光が少しだけやさしかった。
ガラス越しに見える空は薄い青で、建物の影が淡く地面に落ちている。
食堂の中心では湯気と油の匂いが渦を巻き、箸の音や笑い声が波のように押し寄せては引いていく。
その喧騒が、窓際だけを不思議な“半個室”のようにしていた。
佐伯和人は、定食のトレーを前にして、箸を持ったまま止まっていた。
味噌汁の湯気が薄く立ちのぼり、彼の視界をふわりと曇らせる。
そこへ、新堂真子がトレーを抱えて立った。
手はしっかりしているのに、指先の力がほんの少しだけ強い。
落とすまい、揺らすまいという緊張が、手首から伝わってくる。
彼女は「失礼します」と言いかけて飲み込むように口を閉じた。
声に出した瞬間、現実が確定してしまう気がしたのかもしれない。
和人も同じだった。
「リョウさん」と呼びそうになって、喉の奥で言葉が消える。
ここには“千佳”も“リョウ”もいない。
そう思うほど、足元が揺らぐ。
真子が椅子を引く音が小さく響く。
椅子の脚が床を擦り、その音は周囲の喧騒に溶けるはずなのに、二人の耳にはやけに鮮明だった。
真子が腰を下ろす。
トレーが机に置かれ、皿の縁がカチャリと小さく鳴る。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
沈黙が長いわけではない。
けれど、その数秒の間に、互いの心臓が互いの鼓膜にまで聞こえるような錯覚があった。
窓際の光が、真子の頬の輪郭を柔らかく照らす。
和人は目の前の女性を見て、昨日売り場で感じた“言葉の間”を思い出していた。
真子は目の前の男性を見て、昨日自分が背中を追ってしまった理由を確信しかけていた。
最初に息を吐いたのは、真子だった。
彼女は、ほんの少しだけ肩を落とし、視線をテーブルの上へと逃がした。
そして小さく、しかしはっきりと口を開いた。
「……えっと」
その声は、想像していたより柔らかい。
男のふりをしていた“リョウ”の声ではなく、現実の女性の声。
けれど響き方に、どこか懐かしさがあった。
和人は、胸の奥が一瞬だけ痛んだ。
理想を演じるために作った“千佳”の言葉遣いが、今の自分の唇の裏側でじたばたしている。
でも、演じる必要はもうない。
そう自分に言い聞かせて、口角をほんの少し上げる。
無理に作った笑顔ではなく、ぎこちないままの笑顔だった。
「……来てくれて、ありがとうございます」
和人の声は、普段の仕事の声より少しだけ低く、少しだけ掠れていた。
言葉の端が震えそうになるのを、彼は飲み込むように抑える。
真子はその一言を聞いて、胸の奥が少しほどけた。
誰かが“受け入れる”ために言った言葉だった。
責めない、追い詰めない。
ただ、来たことを肯定する。
そのやさしさが、彼の文章のやさしさと繋がっていた。
「……こちらこそ」
真子は小さく頷いた。
「えっと、改めて……」
ここでやっと、二人は“自己紹介”をする必要があることに気づいた。
今まで何万文字も言葉を交わしてきたのに、本名も年齢も知らない。
逆に言えば、知らないからこそ、心が繋がっていた。
その不思議を抱えたまま、現実の自己紹介を始めるのは、妙な羞恥があった。
和人は一呼吸置いてから言う。
「佐伯和人です。……販促のほうで、売り場回ったり、資料作ったりしてます」
自分の名前を口にした瞬間、身体のどこかが現実に固定される。
“千佳”で漂っていた自分が、“和人”として床に立った感じだった。
真子は「佐伯さん……」と小さく繰り返した。
琴美が言っていた候補のひとつ。
昨日、売り場で資料を持って現れた男性。
その人物が今、目の前にいる。
確信がじわじわと形になるのに、真子はあえて表情に出さなかった。
出した瞬間に、相手の逃げ道まで奪ってしまう気がしたからだ。
「新堂真子です。……化粧品売り場で働いてます」
言い終わると、彼女は自分でも驚いたように微笑んだ。
化粧品売り場で働いていることを、彼に言うのは初めてではない。
けれど“新堂真子”として言ったのは、これが初めてだった。
その“初めて”が、口の端に照れを生む。
二人は揃って箸を持つ。
まるで“食べ始める”ことが、次の段階へ進む合図のようだった。
<完>




