番外編:第2話「千佳のレシピ帳」
四月の終わり頃から、佐伯和人のスマホのメモ帳には、ひとつの“レシピ”が蓄積されていった。
料理のレシピじゃない。
「千佳」を作るためのレシピだ。
言葉の温度、間の取り方、絵文字の頻度、気遣いの角度。
そして何より――“理想の女性像”の輪郭を、現実のどこかから借りてくるための材料。
(理想って、空想だけじゃ作れない。
現実の匂いが混ざってないと、嘘がバレる)
和人はそれを、どこかで分かっていた。
だから彼は、無意識に素材を探していた。
通勤電車の中の女性の笑い声。
コンビニでレジを打つ手の仕草。
百貨店の売り場で交わされる、短いけれど温度のある言葉。
そのひとつひとつを、心の中で“千佳っぽい”に変換していった。
ただ――ある日、ふと気づいてしまった。
自分が拾っていた材料の中に、特定の誰かの影が濃く混ざっていることに。
◆◇◆
和人は部屋の片づけをしていて、机の引き出しの奥から、折りたたまれた紙を見つけた。
裏紙の束。
販促の使い終わったチェックリストの裏に、走り書きがびっしりある。
それは、メモ帳を使う前に書き殴った“千佳の試作品”だった。
・絵文字は多すぎない(多いと軽く見える)
・丁寧語とタメ口の間(敬語だけだと距離が縮まらない)
・「かわいい」より「いいね」を使う(媚びない)
・仕事の愚痴は言いすぎない(でも弱音は吐く)
・疲れてる人には“休んでね”を入れる(押しつけない)
・香りの話は具体的に(生活感)
・コスメは“知ってるけど語りすぎない”(好きが自然に見える)
その中に、ひとつだけ、紙の端に書かれた言葉があった。
――「新堂さんみたいな感じ」
和人は、一瞬、呼吸が止まった。
(……新堂?)
紙を持つ指が、わずかに強張る。
脳内に、職場の記憶が浮かび上がる。
化粧品売り場の奥。
在庫表を手に、スタッフに短く指示を出す女性。
切り替えが速い。
言葉が少ないのに冷たくない。
笑うときだけ、ほんの少しだけ頬が緩む。
(新堂真子。
……あの人だ)
和人は、椅子に腰を下ろして、紙を見つめた。
その名前を書いた自分の字が、他の走り書きより少しだけ丁寧に見えて、妙に腹が立つ。
自覚がなかった。
いや、正確には――“気づかないふりをしていた”。
新堂真子という名前は、和人にとって特別な存在ではなかったはずだ。
同じ百貨店で働く人間のひとり。
顔と、雰囲気と、仕事の仕方をなんとなく知っている程度。
販促の資料を持って化粧品売り場へ行けば、彼女と視界が交わることはあった。
直接言葉を交わす機会は少なくても、彼女が“場を回している”ことは伝わってくる。
それだけのはずだった。
なのに――「千佳」の材料にしていた。
(俺は、勝手に見てたんだ)
(勝手に、真子さんの“こういうとこ”を拾って)
(勝手に、理想の女性像に混ぜ込んで)
(それで、リョウに送ってた)
胸の奥が鈍く痛んだ。
“千佳”は理想だ。
でも理想には現実が混ざっている。
その現実に、誰かの顔があった。
しかもその誰かが、これから自分の前に“リョウ”として現れるかもしれない相手だと思うと、息が詰まる。
(最低だ。
盗んだみたいじゃないか)
和人は紙を握りつぶしそうになって、指の力を緩めた。
握りつぶしても、消えない。
むしろ証拠を隠したような後ろめたさが増えるだけだ。
彼は紙をそっと戻し、代わりにスマホのメモ帳を開いた。
「千佳」の設定が並ぶページ。
そこに今日の日付で一行だけ追加した。
――「千佳は、誰かから借りてた。たぶん、真子さんからも」
入力して、すぐに画面を閉じた。
これ以上見れば、どこまで借りていたか掘り起こしてしまいそうで怖かった。
◆◇◆
翌日、出勤。
百貨店のバックヤードはいつも通りの匂いで、いつも通りの音だった。
けれど和人の心だけが、昨日見つけた紙切れのせいで少し重い。
どこか後ろめたい。
たとえ本人が知らなくても、自分の中ではもう“借りた”ことが確定している。
午前中、販促の用件で受付前を通ったとき、山瀬琴美が視界に入った。
受付の制服をきっちり着て、相変わらず笑顔が上手い。
琴美とは、仕事でたびたび話す。
落とし物、迷子、館内放送、催事の導線。
販促が動くと、受付と連携することも多い。
「佐伯さん、おはようございます」
琴美がいつものトーンで言った。
「おはようございます」
和人が返すと、琴美は書類を整える手を止めずに、ちらっと目だけで見てきた。
「今日、化粧品のほう、混みそうですよ」
「またですか」
「またです(笑)」
琴美は軽く笑った。
その笑い方は柔らかいのに、目の奥がよく見ている。
人を観察する目。
受付という場所にいる人の目だ。
「新堂さん、今日早番って言ってました」
琴美が何気なく言う。
和人は、喉が小さく鳴るのを自覚した。
(新堂さんみたいな感じ)
昨日の紙が脳内にフラッシュバックする。
「……新堂さん」
和人は、名前を繰り返してしまった。
琴美が一瞬、ほんのわずかに表情を変えた。
ほんの一瞬だけ、探るような目。
でもすぐに受付の笑顔に戻る。
「そう。真子さん」
琴美は、当たり前のように言った。
その“真子さん”が、和人の胸の中で微かに響く。
(真子)
“リョウ”が名乗っていた“マコト”の音。
似ている。
似ているだけなのに、心が勝手に繋げたがる。
「佐伯さん、化粧品に詳しいですよね」
琴美が言った。
冗談のようで、冗談に聞こえない。
和人は笑うふりをして、言葉を選んだ。
「詳しいっていうほどでも……仕事で、多少」
「ふーん」
琴美の返事が軽いのに、和人は背中に薄い汗を感じた。
琴美は、何かに気づいているのか。
それともただの雑談か。
分からない。
分からないのが怖い。
(琴美さん、真子さんと同期って言ってたよな)
(仲いいって聞いたこともある)
(……もし真子さんが“リョウ”なら、琴美さんは)
そこまで考えて、和人は思考を止めた。
証拠もないのに疑うのは早い。
それに、勝手に他人を巻き込みたくない。
◆◇◆
その日の夕方、和人は在庫確認支援のために化粧品売り場へ行った。
資料を渡し、短い確認をして、戻ろうとしたとき、視界の端に新堂真子がいた。
在庫表を持って、スタッフに指示を出している。
相変わらず言葉が少ない。
でも周囲の空気が滑らかに流れている。
彼女がいるだけで、売り場の“詰まり”がほどける感じがする。
(千佳の題材にした人)
(そして、もしかしたらリョウの本体)
和人は背中に意識を感じて、ふと振り返った。
新堂がこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
その目に、和人は“リョウ”の行間を見た気がした。
確証なんてない。
でも、胸の奥の氷がきしむ音がした。
和人は、自然な微笑みを作った。
ただの同僚としての、ただの会釈。
それだけを残して通路の奥へ戻った。
その瞬間、胸の奥で何かが決まる感覚があった。
(俺はもう、逃げられない)
(借りたままじゃ終われない)
(“千佳”の中に混ぜたものを、ちゃんと返さなきゃいけない)
その夜、和人はアプリを開き、少しだけ手が震えるのを見つめた。
相手は女だ。
千佳を演じていた自分と同じように、男を演じていた女。
そして――職場のどこかにいる女。
その女が、新堂真子である可能性が、限りなく濃い。
でも、確信を言葉にするのは怖かった。
もし違ったら、壊れる。
もし当たっていたら、もっと壊れる。
だから和人は踏み込まないまま、今日の出来事を送り合った。
そして、最後に自分から言った。
「明日のお昼休みに社員食堂で会いませんか?」
送信した瞬間、和人は思った。
(これで、借りたものの分、ちゃんと向き合える)
(千佳は、もう必要ない)
その言葉が、嘘なのか本当なのかはまだ分からない。
でも、和人の胸の奥には、確かに“千佳を卒業するための決意”が芽を出していた。




