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マッチ率100%の二人だが、君は彼女で私は彼だった  作者: naomikoryo


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34/50

第34話:”リョウ”を探して

五月十一日木曜日の朝。

目覚ましが鳴る少し前に目が覚めてしまった。

胸の奥に薄い氷みたいな緊張が張り付いていて、寝返りを打つたびにそれがきしむ。

昨夜のやり取りの最後の一行が、暗い天井に白い文字で浮かぶように思い出される。

「もしお互いに気づけたら」。


(気づくって、何にだ。

顔も知らないのに。

声も知らないのに。

でも、同じ建物で働いてる。

それだけで、いつもより息が浅くなる)


洗面所で蛇口をひねると水はまだ冷たかった。

指先が痛むほどの冷たさが、逆に頭を冴えさせる。

鏡の中の自分は、いつもより顔色が悪い。

髭を剃る手が少し震えて、肌がひりついた。

その痛みが現実に戻してくれて、少しだけ救われる。


朝食は食パン一枚とインスタントのスープ。

味がよく分からないまま飲み下す。

スマホを手に取りそうになって、やめた。

今日はLINEはしないと決めている。

(送ったら、揺らぐ。

揺らいだら、仕事が手につかない)


家を出ると、郊外の空気はまだ夜の名残を含んでいた。

駅までの道で、いつもより鳥の声が耳につく。

通勤客の波に乗ると、身体が勝手に歩調を合わせていく。

電車に乗って四十五分。

吊り革に掴まりながら、窓に映る自分の顔を何度も見てしまう。

(今日、あの人はどんな顔をしてる。

どんな服を着て、どんな匂いがする。

“リョウ”じゃない彼女を、俺は見つけられるのか)


昨夜、互いに嘘を告白した。

彼女は男の振りをしていた女で。

自分は女の振りをしていた男。

ややこしいのに、どこか綺麗に腑に落ちた。

気づけば、わからないはずの相手が、毎日の生活の中に“気配”として居ついてしまっていたから。


◆◇◆


百貨店の従業員口は、朝の匂いがする。

消毒液と、段ボールと、乾いた床のワックスの匂い。

カードキーをタッチして、機械的な音を聞く。

いつもの挨拶。

いつもの動線。

それなのに、足裏だけが妙に落ち着かない。


(今日から、同じ建物の“どこか”に彼女がいる。

俺は、彼女を探してしまう。

仕事のついでみたいな顔をして)


更衣室でネクタイを結びながら、同僚の会話を拾う。

「やっと休み終わったね」。

「今日、出勤メンバー少ないらしいよ」。

その言葉の端々に、彼女の存在が混じっていないか探してしまう。

自分でも嫌になる。

でも止められない。


◆◇◆


部署の朝礼。

数字、予定、催事の反省。

耳には入るのに、頭の半分は別のことを考えている。

(女のふりをしていた俺が、女の誰かを探す。

男のふりをしていた彼女を、女として探す。

そんなの、滑稽だ)


午前中、売場を回る用件が入った。

各階の動線確認と、昨日までの混雑の残りを整理する。

エレベーターを上がる。

扉が開くたびに、別の匂いが鼻に入る。

紳士フロアは革と整髪料。

婦人靴は新しいゴムと香水。

化粧品フロアは甘いアルコールと、粉の匂い。

無意識に、目が忙しくなる。

女性スタッフの顔、声、立ち姿。

(どれが“彼女”だ。

いや、今は“彼女”と決めつける情報がない)


昨日までのLINEの中で、彼女は総合職の男を演じていた。

だから自分は、彼女もバックヤード側の人間だと想像していた。

それが自分の盲点だった。

売場の女性たちを見上げながらも、どこかで「違う」と思ってしまう。

(男のふりをしていた女。

彼女は、男っぽい雰囲気なのか。

いや、そういうのは偏見だ)


◆◇◆


昼前、受付カウンターの前を通った。

制服姿の女性が二人、忙しそうに館内案内の紙を揃えている。

そのうちの一人が、誰かに向けて笑った。

笑い方が、少しだけ“リョウ”の文章の行間に似ている気がした。

胸が一瞬跳ねた。

でもすぐに、別の来客対応に彼女は向き直り、表情が仕事のものに切り替わる。

(勝手に重ねるな。

今のはただの癖だ)


思い切って、受付の女性に声をかけた。

「すみません、今日って化粧品フロア、何かイベントありますか」。

自分の声は平静を装っていたけれど、喉の奥が乾いている。

受付の女性は手元の予定表を見て、「本日は特に大きな催事は…」と答えた。

ついでに「昨日までの混雑で、化粧品は朝から少し混みやすいです」と付け足す。

その“少し混みやすい”の言い方が、妙に優しかった。

(誰でもこう言う。

誰でもこう言うのに、俺は意味を探す)


◆◇◆


昼休憩。

社員食堂はいつもより空いている。

四連休明けで、まだ体が戻っていないのか、みんな口数が少ない。

自分は味噌汁をすすりながら、ふと、誰かの会話に耳を澄ませる。

「化粧品の新堂さん、今日も早番だって」。

スプーンが止まった。


新堂。

その苗字が、舌の上で転がる。

(しんどう。

知らない名前。

でも、なぜか引っかかる)


続いて「真子さん、手が早いよね」と笑う声。

真子。

その二文字が、胸の内側のどこかに触れた。

(まこ。

真子。

……マコトじゃない。

あくまでも、リョウ…

でも…)


自分は箸を置いてしまいそうになり、慌てて食べ続けた。


◆◇◆


午後、用件で化粧品フロアへ向かった。

自分に言い訳を与えるために、仕事の理由を増やす。

販売促進の資料を渡すためだ。

ただそれだけだ。

そう言い聞かせながらエスカレーターで降りる。

化粧品売場の空気は、朝より少し熱を持っている。

ライトの光が白く、肌をきれいに見せる。

カウンター越しに笑顔が行き交い、試供品が小さな紙袋に入れられていく。


(新堂真子。

その人がここにいるなら。

でも、ここには女性が多すぎる)


資料を渡す先の担当者に声をかける。

「すみません、販促の件で」。

相手は受け取りながら「助かります」と頭を下げる。

そのやり取りの間にも、目が勝手に周囲を探す。

黒髪をまとめた人。

ショートカットの人。

前髪を流した人。

マスク越しでも分かる笑い皺。


ふいに、奥の通路から一人の女性が出てきた。

ブランドの制服ではなく、黒に近い落ち着いた服装。

けれど動きは売場に馴染んでいて、他のスタッフが自然に道を開ける。

彼女はカウンターの端に近づき、何かを小声で確認して、ペンでメモを取った。

その仕草が、妙に“男のふりをしていた女”という言葉と繋がる。

背筋がまっすぐで、要点だけを掴むみたいな所作。

けれど同時に、指先の動きが繊細で、口元の力が柔らかい。


(あの人。

……いや、決めつけるな)


彼女が振り返った。

一瞬だけ、目が合った気がした。

こちらを見たというより、空間を確認しただけの目。

でもその一瞬に、胸の奥の氷が音を立てて割れた。

川沿いのカフェ。

テラス。

ラテの底の甘さ。

隣の席でスマホを見て、ふっと笑った横顔。

あの時の“引っかかり”が、今、形を持って浮かぶ。


(同じだ。

似てるじゃない。

笑い方じゃなくて、空気だ。

そこにいる時の、落ち着き方)


彼女の近くにいたスタッフが、声をかけた。

「新堂さん、これ、在庫確認お願いします」。

新堂さん。

その呼び方が、背中を押した。

彼女は短く頷く。

「了解」。

たった二文字。

でも、その短さが、LINEで“リョウ”が時々見せた端的な返しと重なる。


(新堂。

さっき食堂で出た名前。

新堂真子。

真子、だっけ。

……その人が、彼女?)


心臓がやかましくなる。

耳の裏で脈が打つ。

手のひらが汗ばむ。

仕事の資料の角が、指に食い込んで痛い。

(落ち着け。

まだ、確証はない。

名前を知っただけだ。

彼女が“リョウ”だと決まったわけじゃない)


それでも、目が追ってしまう。

新堂と呼ばれた女性は、カウンターを移動しながら、スタッフに短い指示を出し、客に向けては柔らかい笑顔を作る。

その切り替えの速さ。

その場の空気を読んで、言葉の量を調整する感じ。

(文章の人だ。

言葉を選ぶ人だ。

それが、目の前にいる)


◆◇◆


夕方、閉店に向けて客足が少し落ちた頃。

自分は用件を終えても、すぐには帰れなかった。

バックヤードへ戻る通路の角で、ほんの少しだけ立ち止まってしまう。

仕事のふりをして在庫表を眺めながら、視界の端で彼女の動きを追う。


(明日、俺は“和人”としてここに来る。

彼女は“真子”としてここに来る。

でも彼女は、俺のことを“千佳”だと思っている。

俺の顔を見たら、どう思う。

……きっと気づかない。

女の人を探してるはずだ。

男の俺を見ても、素通りするはずだ)


その瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。

(それでいいのか。

自分だけが気づいて、相手は気づかない。

あの夜、二人で言ってしまった。

「きっと自分のことは分かっちゃいますね」って)


新堂さん、と誰かがまた呼んだ。

彼女は「はい」と返事をして、少しだけ笑った。

その笑い方は派手じゃない。

でも確かに、誰かの疲れをほどく種類の笑い方だった。

自分はその笑い方を知っている気がした。

知らないはずなのに。

一か月分のLINEの行間で、何度も見た気がする。


(見つけた。

たぶん。

いや、ほとんど確信に近い。

“リョウ”は、新堂真子だ)


通路の向こうで、彼女が一瞬こちらを向く。

目が合った。

今度は気のせいじゃない。

互いに、互いを見た。

ただの偶然の視線の交差。

それだけなのに、喉が詰まる。

何も言えない。

言ってはいけない。

今日の自分は、まだただの社員だ。

彼女も、ただの同僚だ。

(でも明日、俺はどうする。

気づいたって言うのか。

それとも、気づかないふりをするのか)


彼女は視線を外して、仕事に戻った。

その背中が遠ざかるのを見ながら、自分は初めて、軽く息を吸った。

息を止めていたことに、今さら気づく。

胸の痛みは消えない。

でも、痛みの形がはっきりした分だけ、怖さが少し減った。


(明日、もし彼女が俺に気づけなくても。

俺は、彼女を見つけた。

それだけで、何かが始まるのか。

それとも、俺だけが勝手に始めてしまうのか)


◆◇◆


帰りの通路のワックスの匂いが、朝より強く感じた。

百貨店の灯りが少しずつ落ちていく。

外はもう夕方の色を越えて、夜の気配が混じっている。

駅へ向かう足取りは重いのに、胸の奥は妙に熱い。

スマホを取り出しそうになって、ぐっと握りしめる。

(今、送ったら崩れる。

明日、目の前で確かめたい。

“リョウ”が本当に彼女なのか。

彼女が本当に、俺に気づくのか)


電車の窓に映る自分の顔は、朝より少しだけ表情が変わっていた。

緊張と、期待と、罪悪感と、

それでも消えない小さな嬉しさが、同じ場所に詰まっている。

そして胸の中で、名前がひとつ、静かに響いた。


新堂真子。

まだ呼んではいけない名前。

でも明日、もしも。

もしもお互いが気づけたなら。

その時はきっと、ちゃんと呼ぶ。

そう決めながら、和人は暗い窓の向こうの街灯を見つめた。

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