第五十章 ―怪物の進撃、止まらず 前編―
一 近江、完全制圧
永禄七年(1564年)、秋から冬へ。
浅井と朝倉を片付けた信長は——止まらなかった。
次の標的は、近江の六角家だった。
六角家は、かつては近江の守護大名として栄えた家だった。
しかし長年の内紛と、信長との過去の戦いで、既に力を大きく落としていた。
「六角は——もう終わりだ」と信長は言っていた。
それは見立てではなく、事実だった。
織田軍が近江に進んだ。
六角義賢は、本拠の観音寺城に籠もった。
しかし城の兵が、少なかった。
「皆、逃げてしまった」と義賢は言った。
家臣が逃げていた。
国人が逃げていた。
信長が来ると聞いただけで、六角への忠義を捨てた者たちが、続々と降伏していた。
「殿——もはや、これまでかと」と残った家臣が言う。
義賢は城を見渡した。
かつては数千の兵で守られていた城が、今は数百にも満たなかった。
「退くか」と義賢は言った。
抵抗する力が、残っていなかった。
六角義賢は観音寺城を捨て、逃げた。
織田軍は追わなかった。
追う必要がなかった。
近江全体が、既に信長の前に頭を垂れていた。
七島に、成瀬が報告を持ってきた。
「六角義賢が、戦わずに城を捨てました。近江が——信長の手に」
時貞は地図を見た。
尾張、美濃、越前、北近江。
そして今、南近江も加わった。
「……近江が全て信長のものになった」と時貞は言った。
「はい」
「次はどこへ向かうと思いますか」と倉橋が問う。
時貞は地図を指でなぞった。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「信長の次の目標は——伊勢国と推定されます。近江を完全に押さえれば、次は東海道の西端にある伊勢を取ることで、畿内の包囲を完成させることができます。そして京への安全な通路を確保することができます」
「史実と——同じ方向か」
「はい。しかし速度が史実より速い。このまま進めば、信長は史実より一年から二年早く伊勢を手中にする可能性があります」
時貞はしばらく地図を見た。
「信長の動きを——記録し続けてくれ」と時貞は言った。「史実との乖離を、全て記録する。それが今の俺たちにできる最善だ」
二 松永久秀の暗躍
同じ頃。
松永久秀は、岐阜城で信長に仕えながら、その才を全力で発揮していた。
「久秀よ」と信長は言った。「伊勢に詳しいか」
「詳しゅうございます」と久秀は言った。「伊勢の国人衆との繋がりは、大昔から持っております」
「使えるか」
「使えます」と久秀は即座に言った。
信長は久秀を見た。
「——やはり、時貞がこの男を送ってきたのは正解だった」と信長は呟いた。
「何か仰いましたか」
「独り言だ」と信長は言った。「伊勢の内情を、俺に教えろ。特に——北畠の弱点を」
久秀は少し笑った。
「はっ、喜んで」
久秀は、伊勢の地図を広げた。
「北畠具教という男は——剣の腕は天下一かもしれません。しかし政の才は、そこまでではない。それに——北伊勢の国人衆は、北畠に従いながら、内心ではそれぞれの独立を守ろうとしています」
「つまり、束ねる力が弱い」
「はい。そこに切れ目を入れれば——崩れます。特に、長野工藤氏あたりから攻めれば」
「長野か」
「長野の当主の養子に、北畠の次男・具藤が入っています。しかしこの具藤は——北畠より長野の当主として振る舞うことに、実は傾いています。そこを突けば、北畠と長野の間に亀裂が生まれます」
信長は久秀を見た。
「よく調べている」
「調べることが——私の仕事でございます」と久秀は言った。
信長は少し笑った。
「時貞が『使い倒せ』と書いてきていたな」
「は」と久秀はわずかに顔をしかめた。
「いい人材を送ってきた、ということだ」
久秀は深く頭を下げた。
しかし——その目は、笑っていなかった。
(いつか必ず、一矢報いる)
その思いは、消えていなかった。
三 九鬼嘉隆と鉄甲船
志摩国。
九鬼嘉隆は、苦境に立っていた。
志摩の十三人衆と呼ばれる海賊衆に、本拠地を追われていた。
二十三歳の若い武将だった。
「どうすれば——」と嘉隆は呟いた。
数少ない家臣たちが、暗い顔をして並んでいた。
「嘉隆様、志摩から出るしかありません」と家臣の一人が言った。
「どこへ行く」
「織田様のもとへ——」
嘉隆は少し考えた。
その時、外から声がした。
「九鬼嘉隆殿はおられますか。織田信長様の家臣、丹羽長秀様の使者でございます」
使者が入ってきた。
「織田様より、九鬼嘉隆殿にご提案がございます」
「聞かせてくれ」と嘉隆は言った。
「志摩十三人衆を撃破し、志摩国を統一してください。その際、織田家から全面的な支援を行います」
「支援とは」
使者は少し間を置いた。
「船の技術です。織田家が建造を援助する——鉄の船があります。鳳凰寺の鉄の船に倣い、我々も研究を進めてきました。まだ完成度は鳳凰寺のものには及びませんが——この海域では十分な力を持ちます」
嘉隆が目を細めた。
「鉄の船——」
「さらに」と使者は続けた。「南蛮から購入した大砲を搭載します。この海域で、あなたの船に対抗できる者はいなくなります」
嘉隆はしばらく沈黙した。
「……信長様は、なぜ俺を選んだのですか」と嘉隆は問う。
「嘉隆殿は——まだ若い。そして志摩を知っている。新しい戦い方を学べる者が必要だったのです」
嘉隆は立ち上がった。
「受けましょう」と嘉隆は言った。
数ヶ月後。
志摩の海に、鉄甲船が現れた。
完全な鉄張りではなかった。
しかし——甲板と船腹に鉄板が張られ、南蛮の大砲が搭載されていた。
志摩十三人衆が、その船を見た時。
誰もが、言葉を失った。
「あれは——何だ」
「見たことがない船だ」
「あんなものに勝てるか——」
嘉隆の鉄甲船が、先陣の船に近づいた。
大砲が火を噴いた。
海上に、水柱が上がった。
海賊衆の船が、一艘、大砲の直撃を受けた。
船が傾いた。
「退けっ」と海賊衆の指揮官が叫んだ。
しかし——退く間もなく、二発目が来た。
志摩の統一は——三ヶ月で終わった。
十三人衆の多くが、嘉隆に降伏した。
抵抗した者は、鉄甲船の大砲の前に沈んだ。
「志摩を——統一しました」と嘉隆は信長への報告書に書いた。
信長はその報告書を読んで、頷いた。
「よし。次は伊勢だ」
嘉隆の鉄甲船が、海上から伊勢を圧迫する役割を担うことになった。
七島に、その情報が届いた。
「信長が鉄甲船を——作りました」と天元が報告した。
参謀室が静まり返った。
「鳳凰寺の鉄の船を——真似した」と木島が言う。
「真似ではありません」と天元は言った。「参考にして、この時代の技術で実現できる形に落とし込んでいます。鳳凰寺の護衛艦とは比較にならない性能ですが——この時代の他の船に対しては、圧倒的な優位を持ちます」
「信長は——俺たちを観察して、取り入れた」と時貞は言う。
「はい。鳳凰寺が乱世に持ち込んだ『鉄の船』という概念を、信長は自分の技術で再現した。南蛮の大砲も組み合わせることで、海上覇権を目指しています」
「鳳凰寺の存在が——信長を進化させた」
「そう言えます」と天元は言った。
時貞はしばらく、地図を見た。
「信長が伊勢を取れば——畿内の西側を除いて、信長が全て押さえることになる。畿内の西側は——鳳凰寺の影響下だ」
「はい。信長の版図と鳳凰寺の版図が——伊勢を境に、接することになります」
「境界線を——きちんと確認する必要がある」と時貞は言った。「信長と、改めて話し合わなければならない」
四 伊勢侵攻、始まる
信長の軍が、伊勢に向けて動き始めた。
二方向から攻める作戦だった。
北から——信長の本軍が、北伊勢の国人衆を切り崩しながら南下する。
海上から——嘉隆の鉄甲船が、志摩国側から伊勢の海岸線を圧迫する。
同時に、久秀の調略が、伊勢国内で静かに進んでいた。
北伊勢。
員弁郡の国人衆が、信長軍を前にして、動揺していた。
「信長が来る」
「どうする。戦うか」
「神戸氏は——すでに信長に使者を送ったとか」
「関氏も、動きが怪しい」
北伊勢四十八家と呼ばれる国人衆は、元々まとまりがなかった。
各自が独立を保ちながら、緩やかに連携していた程度だった。
その緩さを、久秀は正確に把握していた。
「各家を個別に切り崩せばいい」と久秀は信長に助言していた。「まとまった時に正面からぶつかれば苦労する。しかし個別に対応すれば——一つ一つは小さい」
信長はその助言通りに動いた。
使者を各家に送った。
「織田に従えば、所領を保証する。従わなければ——」
残りは言わなかった。
しかし言わなくても、伝わった。
浅井が消えた。朝倉が消えた。六角が消えた。
それが、答えだった。
神戸氏が降伏した。
関氏が降伏した。
赤堀氏が降伏した。
次々と、北伊勢の国人衆が、信長に頭を下げた。
海上では。
九鬼嘉隆の鉄甲船が、伊勢の湾岸に現れた。
北畠の水軍が出てきた。
「あれが——鉄の船か」と北畠の水軍指揮官が言った。
「はい。しかし——それほど大したものではないでしょう。鳳凰寺の鉄の船ほどではないはずです」
「鳳凰寺とは関係ない。今は信長だ」
北畠の水軍が近づいた。
嘉隆の鉄甲船が、大砲の角度を調整した。
「撃て」
海面に、水柱が上がった。
北畠の木造船の一艘が、直撃を受けた。
船体が裂けた。
「引け——」と北畠の指揮官が叫んだ。
しかし鉄甲船が追ってきた。
次の砲撃が来た。
さらに一艘が沈んだ。
北畠の水軍が、総崩れになった。
海上から、伊勢の海岸線が、嘉隆の手に落ちていった。
五 北畠具教の抵抗
南伊勢、多気御所。
北畠具教は、状況を把握していた。
北から信長。
海から嘉隆。
そして内側から、久秀の調略による裏切り者が出始めていた。
「長野工藤氏が——信長に使者を送ったとのことです」と家臣が報告した。
「具藤が裏切ったか」と具教は言った。
「具藤様は——長野の当主として、長野の家を守ることを優先されたようです」
具教は少し目を閉じた。
(息子に等しい者が、家のために裏切った)
(それを責められるか)
「他には」
「北伊勢の国人衆は——ほぼ全員、信長に降りました。残るは我々と一部の家臣だけです」
具教は刀を手に取った。
剣豪として名高い当主の手が、刀の柄を握った。
「戦う」と具教は言った。
「しかし——兵力が」
「わかっている」と具教は言った。「しかし——北畠が戦わずに降れば、何百年の名が廃る。俺は戦う。しかし——家の者は逃がせ。俺一人が残ればいい」
「具教様——」
「俺は剣が好きだ」と具教は言った。少し笑いながら。「最後の戦いも——剣で終わりたい」
織田軍が、多気御所に近づいた。
具教は、少ない兵を率いて打って出た。
圧倒的な兵力差だった。
しかし——具教の指揮は、鬼気迫るものがあった。
「北畠の当主自ら——出てきた」と信長の将が言う。
「突破できるか」
「難しい。あの男が正面にいる間は」
信長は前線の報告を聞いた。
「久秀」と信長は呼んだ。
「はい」と久秀が来た。
「北畠の当主を——どう扱う」
久秀は少し考えた。
「殺さない方がいい、と私は思います」と久秀は言った。
「なぜだ」
「北畠は伊勢の古い名門です。殺せば、伊勢の民が長く恨みを持ちます。しかし——名目上は北畠を残して、実権を織田家が取れば、民は納得しやすくなります」
「北畠の当主と話し合え、ということか」
「はい。具教殿は剣豪です。しかし政の現実はわかっている方でもあります。条件次第で——話し合える可能性があります」
信長は少し考えた。
「——使者を出せ」
使者が、具教の元に届いた。
「北畠家の存続を保証する。伊勢の統治に、北畠家を関与させる。その代わり——信長への臣従を求める」
具教は使者を見た。
「信長の条件か」
「はい」
具教はしばらく黙った。
周囲の兵を見た。
疲れていた。
少なかった。
「——わかった」と具教は言った。
声が、重かった。
しかし——家を残す選択をした。
「北畠は、信長に臣従する」
北畠具教が降伏した。
その知らせが、伊勢全土に広まった。
最後の抵抗が消えた。
伊勢国が——信長の手に落ちた。
六 長島だけが残った
伊勢の制圧がほぼ完了した時。
一つの地域だけが、信長の手に入らなかった。
長島だった。
木曽川と長良川の間に浮かぶような土地。
そこに——浄土真宗の願証寺を中心とした、一向一揆の勢力が根を張っていた。
「長島は——どう致しまするか?」と家臣が信長に問うた。
信長は少し間を置いた。
地図を見た。
長島の地形を、目でなぞった。
川に囲まれた地。
門徒が多い地。
一揆が起きた時の民の熱さを、信長は肌で知っていた。
「今は手を出さない」と信長は言った。
「えっ」と家臣が驚く。
「聞こえなかったか。今は、手を出さないと言った」
「し、しかし——長島を放置すれば、背後の脅威に」
「わかっている」と信長は言った。静かに。「しかし——準備が必要だ。長島に手を出せば、多大な犠牲が出る。今の俺には、その準備が整っていない」
信長が「止まった」
その判断に、家臣たちは驚いた。
信長が慎重になることは——珍しかった。
しかし信長は、伊勢制圧の過程で、一向宗の門徒の強さを肌感覚で理解していた。
信仰で戦う者は——恐れを知らない。
普通の兵とは違う。
「時貞の言葉を——思い出した」と信長は一人で呟いた。
「急がない、か」
その言葉が、今の信長の判断に影響していた。
七島に、報告が届いた。
「信長が——長島だけは手を出さなかった」と天元が報告した。
時貞は少し驚いた。
「信長が止まった」
「はい。長島の一向宗については、信長が自ら『準備が必要』と判断したとのことです」
「……信長が、急がないという選択をした」と時貞は言う。
成瀬が少し目を細めた。
「時貞様の言葉が——信長殿に届いているのかもしれません」
「届いているかどうかはわからない」と時貞は言う。「しかし——信長は学んでいる。俺たちを観察して、使える部分を取り入れている。それは事実だ」
「それが——信長殿をより恐ろしくしていますね」と木島が言う。
「そうだ」と時貞は言う。「速さに慎重さが加わった信長は——より手強い」
七 松永久秀の領国整理
伊勢が信長の手に落ちたことで——隣接する大和国も、正式に信長の領国として組み込まれることになった。
大和は、松永久秀の治める国だった。
「久秀よ」と信長は言った。「大和は引き続き、お前が治めろ。しかし——俺の名代として」
「はい」と久秀は答えた。
「ただし条件がある。大和の統治は俺の方針に従え。余計なことはするな」
久秀は少し笑った。
「余計なこと、とは」
「わかっているだろう」と信長は言った。「謀略は——俺の指示に従う範囲でやれ。俺の知らないところで動くな」
「心得ております」と久秀は言った。
(まあ——建前上はな)
久秀は内心で思った。
しかし顔には出さなかった。
「それと——伊賀だ」と信長は言った。
「伊賀ですか」
「久秀、お前は伊賀の者たちと繋がりがあるだろう」
「昔から、少しは」と久秀は言った。慎重に。
「伊賀を——まとめてくれ」と信長は言った。「あそこは特殊な場所だ。忍者の国だ。正面から攻めれば、俺の兵が大量に消える。しかし上手く取り込めれば、俺にとって使い勝手のいい勢力になる」
久秀は少し考えた。
「条件は何を出しますか」
「自治を認める。伊賀の統治は伊賀の者たちがやればいい。ただし——この俺に仕えることを条件にする。そして——俺の指示があれば、動いてもらう」
「それは——伊賀の者たちにとっても、悪くない条件です」と久秀は言った。
「ならやれ」
「はい」
久秀は少し笑った。
(これは——面白い交渉になる)
久秀が伊賀に入った。
伊賀惣国一揆と呼ばれる、地侍・国人・忍者集団の連合体に、接触した。
久秀は伊賀の指導者たちと向き合った。
「織田様は——伊賀の自治を認めます。伊賀の土地は伊賀の者が治める。しかし——織田様の配下として動いていただく」
伊賀の指導者が言った。
「我々を——配下として使うということは、戦に駆り出すということか」
「そうです。しかし——戦だけではありません。情報収集。工作。交渉。伊賀の者たちが持つ能力を、全て活かします」
「伊賀が持つ能力——」と指導者は繰り返した。
「信長様の元では、鳳凰寺の風間殿のような役割を担えます」と久秀は言った。
「鳳凰寺の諜報か」と指導者は言った。「あれは——聞いている。優秀な組織だ」
「信長様のもとで、それと同等の役割を持っていただく」
伊賀の指導者たちは、互いに目を合わせた。
長い沈黙があった。
「——条件を、文書で出してもらいたい」と指導者は言った。
「もちろんです」と久秀は言った。
伊賀が、織田家に臣従することになった。
八 版図の確定と、境界線
全ての動きが落ち着いた時。
信長の版図が、確定した。
尾張、美濃、越前、近江、伊勢、志摩、大和、伊賀。
東海から畿内に向けて、信長の旗が並んだ。
長島だけが、例外として残っていた。
七島で、時貞は地図を見た。
西日本が、鳳凰寺の影響下にある。
東から——信長の版図が近づいていた。
「接してきている」と時貞は言った。
「はい」と天元が答えた。「鳳凰寺の版図と信長の版図が——近づいてきてます。将来的に摩擦が生まれる可能性があります」
「信長に書状を送る」と時貞は言った。
「境界線について、ですか」と成瀬が言う。
「そうだ。いずれ話し合いで決める。力でではなく」
時貞は筆を取った。
信長殿へ。
伊勢の制圧、知りました。
志摩の九鬼殿の活躍も聞きました。
速かった。
一つ、確認させてください。
鳳凰寺の版図と信長殿の版図が、近づいてきています。
いずれその境界線を——はっきりさせましょう。
曖昧なままでは、将来、誰かが利用します。
信長殿が持っている場所は信長殿のもの。
俺が持っている場所は俺のもの。
重なる部分は話し合って決める。
前久殿に仲介を頼もうと思っています。
信長殿のご意向をお知らせください。
時貞より。
追記——九鬼殿の鉄甲船、見事な発想です。
いつか見てみたいと思っています。
封じた。
成瀬に渡した。
時貞は窓を開けた。
秋の海が広がっていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「信長の動きが——止まった。長島だけ残して」
「はい」
「俺は今日、一つのことを考えていた」と時貞は言う。
「何ですか」
「信長という男は——俺が思っていたよりも、はるかに学ぶ力がある」と時貞は言う。「俺たちを観察して、取り入れた。急がないという判断も、部分的にではあるが、取り入れた。鉄の船も、形を変えて再現した」
「はい」
「そういう男が——いつか、俺たちと向き合う」と時貞は言う。「その時、どんな信長が向き合ってくるか——俺には、まだ完全には読めない」
「それは——恐ろしいですか」と天元は問う。
時貞は少し考えた。
「恐ろしい」と時貞は言う。正直に。「しかし——面白い」
天元が少し間を置いた。
「妙覚寺の会見の時に——信長が言っていた言葉ですね」
「そうだ。あの時、信長は俺のことを面白いと言った」と時貞は言う。「今日、俺も同じことを思った。信長は——面白い脅威だ」
その夜。
信長から返書が来た。
速かった。
時貞へ。
境界線の提案、受け入れる。
前久を仲介に、いずれ話し合いを進めよう。
一つだけ言う。
お前の版図が大きくなるのは構わない。
俺の版図が大きくなるのも構わない。
ただし——重なった時は、そこで決める。今から決めることではない。
九鬼の鉄甲船を見たいとのこと。
いつか機会を作る。
それと——長島は、まだ手を出さない。
準備が整ってから、やる。
急ぐと失敗する、という言葉を——最近、俺も使うようになった。
誰かに影響されたな。
信長。
時貞は返書を読んだ。
「急ぐと失敗する——誰かに影響されたな、か」
成瀬が横で読んで、少し笑った。
「信長殿も——変わってきましたね」
「変わっていない部分の方が多い」と時貞は言う。「しかし——少し、変わってきた」
「それは——いいことですか」
「わからない」と時貞は言う。正直に。「信長が変わることが、俺にとっていいことか悪いことかは——まだわからない。しかし、変わっていることは確かだ」
成瀬は少し考えてから言った。
「上様が変わったように——信長殿も変わっている」
「そうだな」と時貞は言う。「お互いに、影響を与え合いながら、それぞれの方向へ動いている」
時貞は返書を机に置いた。
九 次の一手
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「信長の版図が確定し、俺たちの版図も確定した。次の段階に入る」
「次の段階とは」
「帝への奏上だ」と時貞は言った。「信長も止まった。俺たちも、一区切りついた。今が——帝に話しに行く時だ」
「準備は整っています」と天元は言った。
「来年の春——必ず、帝のもとへ行く」
時貞は窓を開けた。
秋の海が広がっていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「信長という男は——俺が思っていたよりも、はるかに学ぶ力がある」と時貞は言った。「俺たちを観察して、取り入れた。急がないという判断も、部分的にではあるが、取り入れた。鉄の船も、形を変えて再現した」
「はい」
「そういう男が——いつか、俺たちと向き合う」と時貞は言った。「その時、どんな信長が向き合ってくるか——俺には、まだ完全には読めない」
「それは——恐ろしいですか」と天元は問うた。
時貞は少し考えた。
「恐ろしい」と時貞は言った。正直に。「しかし——面白い」
天元が少し間を置いた。
「妙覚寺の会見の時に——信長が言っていた言葉ですね」
「そうだ。あの時、信長は俺のことを面白いと言った」と時貞は言った。「今日、俺も同じことを思った。信長は——面白い脅威だ」
成瀬が入ってきた。
「上様」と成瀬は言った。
「何だ」
「官兵衛から——返書が届きました」
時貞が顔を上げた。
「官兵衛から」
「はい。播磨から」
時貞は書状を受け取った。
開いた。
読んだ。
鳳凰寺時貞殿へ。
ご返書、ありがとう存じます。
力があるからこそ、丁寧に動く。
百年後まで残る統治を作るために、信頼が必要だから。
——なるほど、と思いました。
俺は今まで、力があれば全てを解決できると思っていました。
室山の戦いで負けるまでは。
力があっても負けることがある。
なぜ負けたか、俺は自分なりに問答をしました。
答えは——信頼のある者が、信頼のない者に勝った、ということでした。
相手の将は——地の利と民の支持を持っていた。
俺には、まだそれがなかった。
時貞殿の言葉は——その答えと、一致しています。
改めて、時貞殿に問います。
鳳凰寺は——播磨に来るつもりがありますか。
俺は——正直に知りたいのです。
鳳凰寺が来るなら、来ることを前提に動きます。
来ないなら、来ないことを前提に動きます。
曖昧なまま動くことが、一番の失敗の元だと思っているからです。
あと一つだけ聞かせてください。
時貞殿は——この乱世に、何を作ろうとしていますか。
黒田官兵衛。
時貞は書状を読み終えた。
しばらく——動かなかった。
成瀬が横で待った。
「……面白い」と時貞はようやく言った。
「どういう内容でしたか」と成瀬が問うた。
「播磨に来るつもりがあるかと——直接聞いてきた」と時貞は言った。
「十九歳が」と成瀬が言った。
「そうだ。そして俺に——この乱世に何を作ろうとしているかを、聞いてきた」
「……それは」と成瀬は言った。
「俺が長宗我部に送った書状と——同じ種類の問いだ」と時貞は言った。「俺は元親に、四国に来るつもりだと正直に伝えた。官兵衛は俺に、播磨に来るつもりがあるかを正直に聞いてきた」
成瀬が少し間を置いた。
「官兵衛殿は——時貞様のやり方を、研究していたのかもしれません」
「そうだ」と時貞は言った。「そして同じ方法で、俺を試してきた。この男は——十九歳で、それができる」
時貞は筆を取った。
官兵衛殿へ。
正直な問いを、ありがとうございます。
正直に答えます。
播磨に来るつもりがあるかどうか——今は、まだわかりません。
俺の版図は西日本に及んでいます。播磨はその東の隣です。
しかし——今すぐ播磨に向かう予定はありません。
今は、帝への奏上と、西日本の統治の安定が先です。
官兵衛殿の問いに、もう一つ答えます。
俺がこの乱世に作ろうとしているものを——言葉にします。
力ではなく、仕組みで動く日本を作りたい。
誰かが強いから従うのではなく、仕組みが正しいから従う。
そういう統治を、百年かけて作りたいと思っています。
官兵衛殿が室山の戦いで学んだことと——俺が目指しているものは、根っこが同じかもしれません。
一つだけ言います。
官兵衛殿の持っている力を——無駄にしないでほしい。
鳳凰寺時貞。
封じた。
風間に渡した。
「届けてくれ」
「はい」と風間は言った。「この官兵衛という男——本当に面白いですね」
「そうだ」と時貞は言った。「この乱世で——俺が正直に話せる相手が、また一人増えるかもしれない」
秋の七島の夜が、静かに更けていった。
信長の版図が確定した夜に。
播磨の十九歳と、最初の言葉を交わした夜に。
そして——来春の帝への奏上に向けて、時貞は既に次の一手を考えていた。
止まらない。
それが——鳳凰寺時貞という男の、変わらない本質だった。
(第五十一章へ続く)




