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覇道戦国 ~鳳凰寺家、天下統一…その先へ~  作者: 1009


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第四十九章 ―怪物、目覚める―

一 書状を読む信長

岐阜城。

信長は時貞からの書状を、二度読んだ。

三度読んだ。

それから——立ち上がった。

「森」と信長は呼んだ。

「はい」と近習の森成利が応えた。

「信玄が西上を中断したという情報の真偽を、今すぐ確かめろ。使える全ての者を動かせ。半日以内に答えを出せ」

「は——しかし半日では」

「半日だ、いけー」と信長は言った。

森が飛び出した。

信長は地図の前に立った。

窓から——岐阜の空が見えた。

(信玄が退く)

(包囲網が崩れる)

(今が——)

信長は口元を動かした。

笑っていた。

声のない笑いだった。

「見ておれ、時貞…」と信長は呟いた。

誰もいない部屋で、ひとりごとのように。

「この乱世で動いておるのは——お前ばかりではないぞ」その笑みは獰猛であった。


四刻後。

森が戻ってきた。

「信長様。甲賀者から確認が取れました。武田軍が——撤退を開始しています。信玄自身が輿に乗っているとのことです」

「他には」

「遠江の国人からも、同様の報告が。武田軍の先頭部隊が、既に甲斐方面へ向かっているとのことです」

「——確かだな」

「はい」

信長は地図に手をついた。

「来たか!」と信長は言った。

それだけだった。

しかし——その一言が、全てを動かした。


二 信長の二方面作戦

信長が、家臣たちを集めた。

広間に、織田家の主要な将が並んだ。

柴田勝家。羽柴秀吉。明智光秀。丹羽長秀。前田利家。

全員が——信長の顔を見た。

信長は地図を広げた。

「信玄が退いた。包囲網が崩れた。今がその機会ぞ!」

広間が静まり返った。

「命令する」と信長は言った。「二つだ」

全員が聞いた。

「一——光秀」

「はい」と明智光秀が前に出た。

「本願寺勢への対応を、お前に任せる。鉄砲隊の全指揮を取れ。早合を使って、弾込めの速度を上げろ。本願寺が打って出てくれば、撃ち返せ。しかし——こちらからは打って出るな。防衛に徹しろ」

「御意にございます」

「本願寺勢を倒すのが目的ではない。本願寺を——動けなくするのが目的だ。俺が戻るまで、一歩も通すな」

「承知」

光秀が深く頭を下げた。

「二——猿」

「はっ」と羽柴秀吉が前に出た。

「お市と子供たちを浅井から連れ出せ。今すぐだ。浅井の動きが本格化する前に——妹を安全な場所に移せ。それがお前の役目だ」

「必ずや」と秀吉は言った。

「必ず、だ。お市だけは絶対に守れ」

「はい」

信長は全員を見回した。

「そして——儂は」

声が変わった。

広間の空気が、一瞬で変わった。

「浅井と朝倉を——この機に、滅ぼす」

誰も、声を上げなかった。

しかし——全員の目が、輝いた。

「浅井長政は俺の妹を嫁がせた男だ。しかし——義昭の包囲網に加わった。それが答えだ」

「応」

声が上がった。

一つではなかった。

広間全体から、声が上がった。

待っていた声だった。

その声を待っていた、という声だった。

「動け」と信長は言った。

広間が——動き始めた。

慌ただしく。しかし確実に。

織田家が、動き始めた。

信長は再び、地図を見た。

(時貞)

心の中で呼んだ。

(お前が西を固めた。おかげで俺は東だけを見れる)

(感謝はしない。お前も俺も、それぞれの理由で動いている)

(しかし——今日から、俺も本気で動く)

(お前に少しでも追いついてやる)


三 天元の戦慄

七島。

成瀬が飛び込んできた。

「上様。信長が——動きました」

「どう動いた」と時貞は問う。

「二方面同時展開です。光秀に本願寺への防衛を任せ、秀吉にお市の救出を命じ——信長自身が浅井・朝倉への攻撃を開始しました」

時貞は少し間を置いた。

「いつ動いた」

「書状が届いてから——六刻後です」

「六刻」と時貞は繰り返した。

「はい。俺たちの情報が届いてから、わずか六刻で——二方面同時展開の命令を出しています」

「天元」と時貞は呼んだ。

「はい」と天元が答えた。

「信長の動きの速度を分析してくれ。俺の書状からの時間で」

天元が少し間を置いた。

「……分析しています」と天元は言った。「信長の動きは——私の予測を、大幅に上回っています」

「どれほどだ」

「私の分析では、信長が動くまでに最低でも三日はかかると推定していました。情報の確認、作戦の立案、家臣への命令、準備の確認——それだけの時間が必要だと」

「しかし現実は六刻だった」と時貞は言う。

「はい。私の分析の半分以下の時間で、全てを完了させています」と天元は言う。「信長は——私の想定を超えた速さで動いています」

参謀室が静かになった。

「殿」と成瀬は言う。「天元の予測を超えた、ということは」

「そうだ」と時貞は言う。

「信長は——鳳凰寺の戦い方を、研究していた可能性があります」と天元が言う。「妙覚寺の会見以来、信長は鳳凰寺の動きを観察していたと思われます。俺たちが各地で行った戦の情報を、信長は全て収集していた。そして——使える部分は吸収した」

「牙を磨いていた、ということですか?」と木島が言う。

「そうだ」と時貞は言う。静かに。「俺たちが信長を観察していたように——信長も俺たちを観察していた」

浜村が言う。「そしてその信長を——より目覚めさせてしまったのは」

「俺たち鳳凰寺だ」と時貞は言う。

誰も、何も言わなかった。

「鳳凰寺がこの乱世に現れたことで——信長という天才が怪物になった。より鋭く、より速くなった可能性がある」と時貞は続ける。「それは——俺の想定の中にあった。しかし実際にそれを確認すると…」

時貞は窓の外を見た。

「重い」と時貞は言う。


四 光秀の鉄砲隊

近江、石山本願寺方面。

明智光秀が、鉄砲隊の前に立った。

三千丁の鉄砲隊だった。

この時代では、異常な数だった。信長が対武田用に密かに準備させていたものだった。

「早合の確認をしろ」と光秀は命令した。

早合——火薬と弾を事前に計量して紙で包んだもの。

これにより弾込めの時間が、従来の三分の一以下になった。

「一番組、準備完了」

「二番組、準備完了」

「三番組——」

次々と報告が入った。

光秀は整列した鉄砲隊を見た。

「信長様の命令は——防衛だ。打って出ない。本願寺勢が来たら、迎え撃つ。しかし——こちらからは一歩も動かない」

「はい」と全員が応えた。

「しかし——来たら、徹底的にやれ。これは防衛だが——防衛は攻撃より難しい。来た者を全員止める。それが俺たちの役目だ」

本願寺勢が動いた。

「来た」

鬨の声が上がった。

「撃て」

一斉射撃が始まった。

早合の効果が現れた。

一発撃ったら次の弾が、すぐに込められた。

連続射撃が、本願寺勢に降り注いだ。

「ひるむな、前へ」と本願寺の指揮官が叫んだ。

しかし——止まった。

弾が——止まらなかった。

次から次へと、弾が来た。

「退けっ」

本願寺勢が引いた。

光秀は前進しなかった。

命令通りに。

「追うな」と光秀は言った。「ここで止める。それだけだ」


五 夜の小谷城

永禄七年、秋の夜。

近江、小谷城。

月のない夜だった。

山の稜線が、暗い空に黒く浮かんでいた。

城の灯りが、点々と見えた。

羽柴秀吉は、山の中腹から小谷城を見ていた。

五百の兵が、息を潜めていた。

「確認する」と秀吉は小声で言った。「城の裏手の抜け道——まだ使えるか」

斥候が答えた。

「はい。番の者が三名。ただし——今夜は浅井の兵が普段より多い。城内の緊張が高まっています」

「信長様の動きが——伝わっているか」

「おそらく。浅井軍の主力は既に出陣しています。城には守備兵だけが残っています」

秀吉は少し考えた。

(主力がいない。しかし守備兵は緊張している)

(動けるのは——今夜だけだ)

「行く」と秀吉は言った。

「秀吉様が直接では、危険すぎます」と部下が言った。

秀吉は部下を見た。

「お市様は——俺の顔を知っている。知らない者が来ても、信じてもらえない。それに」と秀吉は言った。

「それに?」

「今夜、お市様が動かないと言ったら——俺が動かさなければならない。その説得を、他の者にはできない」

部下が黙った。

「行ってくる」と秀吉は言った。

「必ず戻ってください」

「戻る。それが俺の役目だ」

秀吉は山の中に消えた。


城の裏手。

番の三名を、秀吉の配下が静かに無力化した。

声を上げさせなかった。

殺さなかった。

縛った。

抜け道の入り口が、開いた。

秀吉が中に入った。

暗かった。

臭った。

使われていない通路の、黴と土の臭いがした。

秀吉は這うように進んだ。

体が小さいことが、今日は役に立った。

(猿で良かったわい)

秀吉は心の中で思った。

出口が見えた。

城の内側の、小さな戸だった。

慎重に開けた。

廊下に出た。

人の気配を確認した。

なかった。


お市の館は、城の東の一角にあった。

秀吉は廊下を進んだ。

物陰に隠れながら。

灯りのある部屋を避けながら。

二度、兵の巡回に出くわした。

二度とも、柱の陰に隠れて過ぎるのを待った。

やがて——お市の館が見えた。

灯りが灯っていた。

夜更けにもかかわらず。

(起きている)

秀吉は扉の前に立った。

深呼吸した。

「お市の方様」と秀吉は小声で呼んだ。「羽柴秀吉にございます。信長様のご命令で参りました」

しばらく——静寂があった。

中で、何かが動く気配がした。

「……秀吉か」という声がした。

低い声だった。

しかし——秀吉には、その声が聞こえた瞬間、安堵があった。

(起きていた。そして俺の名を知っている)

扉が、ゆっくりと開いた。


六 お市の答え

お市がいた。

白い小袖を着ていた。

長い黒髪が、乱れていた。

目が、赤かった。

泣いていたか、あるいは——眠れなかったか。

その背後に、三人の娘がいた。

茶々。初。江。

一番上の茶々でも、まだ幼かった。

「秀吉か」とお市は言った。「信長兄上の命令で来たか」

「はい」と秀吉は言った。「急いでください。夜が明ける前に」

お市は秀吉を見た。

その目が——静かだった。

怒りでも、恐れでもなかった。

静かな、決意の目だった。

「——わたくしは動きません」とお市は言った。

秀吉が少し止まった。

「お市様」

「わたくしは浅井家に嫁いだ身です」とお市は言った。「長政様の妻として、ここにいます。浅井家が戦っている今、逃げることはできません」

「しかし——」

「子供たちだけなら——連れていってください」とお市は言った。「しかし、わたくしはここに残ります」

秀吉は、お市の目を見た。

本気だった。

揺らいでいなかった。

(これは——言葉で崩せる固さではない)

しかし。

(俺にはまだ、言える言葉がある)

秀吉は一歩、前に出た。


七 秀吉の言葉

「お市様」と秀吉は言った。声を落として。しかし力を込めて。

「何ですか」

「信長様が——なぜ俺を寄越したか、わかりますか」

「信長兄上は——妹と子供たちが心配なのでしょう」

「それだけではありません」と秀吉は言った。

お市が秀吉を見た。

「信長様は——この救出を、誰にも頼めなかったのです」と秀吉は言った。

「どういう意味ですか」

「浅井長政様は——信長様の妹君を娶った男です。同盟者でした。その男と戦うことに、信長様は複雑な思いを持っておられます。表に出さない。しかし——俺には見えます」

お市は黙っていた。

「だから信長様は——大将格の者を誰も寄越せなかった。柴田様でも、前田様でも、丹羽様でもなく——俺を寄越した」

「なぜ、あなたを」

「俺は——信長様の傍で長く仕えてきました」と秀吉は言った。「信長様が何を言わずとも、何を思っているかが、わかる」

秀吉は少し間を置いた。

「俺を寄越した時——信長様は一言だけ言いました」

「『お市だけは絶対に守れ』と…」

お市の肩が、わずかに動いた。

「その一言だけです。他は何も言わなかった。しかし——俺には、その一言の重さが、全部わかりました」


秀吉は続けた。

「お市様。信長様はお市様のことを——ずっと、どこかで後悔しておられます」

「後悔?」と お市は言った。

「はい。お市様を浅井に嫁がせたことを。それが同盟のために必要だったとしても——妹を政のために使ったことを」

「それは兄上の判断です。わたくしは…」

「お市様」と秀吉は遮った。「信長様が今回の戦に踏み切ったのは——義昭様の包囲網への対応だけではありません」

「では何ですか」

「お市様がいる間は——信長様は浅井を本気で攻められなかった」と秀吉は言った。「妹がいる城を、全力で攻めることができなかった。しかし今、信長様は動いた。それは——もうこれ以上、引き延ばせないという判断です」

「……」

「その判断をした夜——信長様は一人で部屋にいました。俺は廊下から、その背中を見ていました。信長様は——地図を見ていました。浅井の場所を、ずっと見ていた」

秀吉の声が、少し変わった。

「信長様は——泣かない人です。何があっても、泣かない。しかしあの夜の背中は——」

秀吉は言葉を切った。

「——俺には、何かに見えました。それが何かは、うまく言えません。しかし、俺はあの背中を見て、どんなことがあっても必ずお市様を連れ帰ろうと決めました」

お市は動かなかった。


「お市様」と秀吉は言った。「長政様は——今、戦っています。信長様と戦っています。その戦の結果は、もう決まっています」

「決まっている、とは」

「鳳凰寺という勢力がいます」と秀吉は言った。「西日本全体が、あの勢力の影響下にあります。毛利が臣従した。九州全体が鳳凰寺の臣下になった。西から来る勢力は、もういない。信長様は東と北だけを見ればいい。そして信長様は——俺が今まで見てきた中で、最も速い武将です」

「……」

「その信長様が、西の心配なく、東と北だけを見て動いている。相手に勝ち目はありません」と秀吉は言った。「俺は信長様を信じていますから、これを言えます。長政様は勇敢です。しかし——勝てない戦を戦っています」

お市の目が、揺れた。

初めて——揺れた。

「長政様は——最後まで戦われるでしょう」と秀吉は続けた。「それが長政様という方です。俺はそれを止める立場にありません。しかし——お市様がここにいる必要は、もうありません」

「しかしわたくしは——」

「お市様」と秀吉は言った。真剣な声で。「この子供たちを見てください」

お市が振り返った。

三人の娘が、暗い部屋の中に立っていた。

茶々は——秀吉を見ていた。

真剣な目で。

幼いながら、状況を理解しているような目で。

「この子供たちに——父親を失う経験をさせる必要があります。それは変えられません。しかし——母親まで失わせる必要は、ありません」

お市は娘たちを見た。

「お市様が死んで、信長様が何を思うか」と秀吉は言った。「妹も、娘たちも、全員を失った信長様が——その後、どうなるか」

「……」

「俺は信長様の傍にいたい。しかし——信長様が壊れたら、俺には何もできません。お市様が生きることは——信長様を守ることでもあります」

お市は長い間、黙っていた。

秀吉も黙っていた。

廊下の向こうで、兵の足音がした。

遠かった。

しかし——時間がなかった。


八 脱出

お市が、ゆっくりと顔を上げた。

目が——変わっていた。

揺れていた目が、少し落ち着いていた。

「秀吉」とお市は言った。

「はい」

「一つだけ聞かせてください」

「何でしょう」

「信長兄上は——今、何を思っていますか。本当のことを」

秀吉は少し考えた。

「——妹が生きていてほしいと思っています」と秀吉は言った。「それだけです。今の信長様には、それだけがあります」

お市はしばらく、秀吉を見た。

それから——深く息を吐いた。

「わかりました」とお市は言った。

声が——少し、変わった。

「行きます」

秀吉の体が、わずかに弛んだ。

(良かった)

しかしそれを顔に出さなかった。

「急いでください」と秀吉は言った。「荷は最小限で。後で全部、改めて用意できます」

「子供たちに——着替えさせてください。少しだけ」

「三十数えます。その間に」

お市が動き始めた。

女官が子供たちを抱いた。

茶々が秀吉を見た。

「——おじさん」と茶々は言った。

「何ですか」

「父上は——どうなりますか」

秀吉は幼い茶々を見た。

その目が、真剣だった。

嘘をつける目ではなかった。

「……強い方です。最後まで戦われます」と秀吉は言った。

茶々は頷いた。

何かを理解したような、しかし何も言わない目で。

「行きましょう」とお市は言った。


一行が、抜け道を進んだ。

お市が先頭に立った。

茶々は自分の足で歩いた。

初と江は、秀吉の配下に抱かれた。

暗い通路を進んだ。

土の臭い。

黴の臭い。

しかし——お市は顔を変えなかった。

まっすぐ前を見て歩いた。

出口が見えた。


城の外に出た瞬間。

夜風が吹いた。

秋の冷たい風だった。

お市が立ち止まった。

「——」

何も言わなかった。

しかし、一瞬だけ——城の方を振り返った。

夫がいた城を。

長政がいた城を。

暗い夜に、城の灯りが見えた。

その灯りを——お市は見た。

長くは見なかった。

「行きましょう」とお市は言った。

自分に言い聞かせるように言った。

秀吉は何も言わなかった。

お市の横に並んで、歩き始めた。


山を下った。

秀吉の配下が待っていた。

馬が用意されていた。

「お市の方様が来られた」と配下が言った。

「急げ。夜明けまでに、ここから離れる」と秀吉は言った。

一行が馬に乗った。

山道を下り始めた。


途中で、遠くから——音が聞こえた。

戦の音だった。

信長の軍が、浅井軍と戦っている音だった。

お市は馬の上で、その音を聞いた。

表情は変えなかった。

しかし——手が、鞍の上で、かすかに握られた。

茶々が母の横に乗っていた。

「母上」と茶々は言った。

「何ですか」

「——大丈夫ですか」

お市は娘を見た。

「大丈夫です」とお市は言った。

「本当ですか」

「本当です」

茶々は母の顔を見た。

それから——前を向いた。

幼いながら、何かを理解している目で。


夜が明け始めた頃。

一行は、安全な場所に辿り着いた。

秀吉は馬から降りた。

お市も降りた。

「ここまで来れば——大丈夫です」と秀吉は言った。「信長様への連絡を入れます」

「秀吉」とお市は言った。

「はい」

お市はしばらく、秀吉を見た。

「——ありがとう」とお市は言った。

「俺は信長様の命令で動いただけです」と秀吉は言った。

「わかっています。しかし——あなたの言葉が、わたくしを動かしました」

秀吉は少し間を置いた。

「お市様」と秀吉は言った。

「何ですか」

「これから——しばらく、大変なことが続きます。しかし、生きていれば——子供たちが育ちます。それが——全てです」

お市は秀吉を見た。

「生きろ、ということですね」

「はい」と秀吉は言った。

お市は少し間を置いてから、頷いた。

「——わかりました」とお市は言った。

夜明けの光が、山の向こうから差してきた。

茶々が、光の方を見た。

初と江が、母の傍に集まった。

秀吉は少し離れたところから、その光景を見ていた。

(良かった)

(生きている)

(それで——良かった)

秀吉は空を見た。

信長の顔を思った。

あの夜の、地図を見ていた背中を思った。

(信長様。お市様は——生きています)

(子供たちも、全員)

(あとは——俺たちのお役目です)

秀吉は配下に向き直った。

「動くぞ」と秀吉は言った。「信長様への報告を急げ。それから——お市様の一行を、安全な場所まで案内する。全員、働きだ」

「おう」と配下が応えた。

夜明けの風が、山を渡った。

お市の髪が、その風に揺れた。


九 信長の進撃

同じ頃。

信長が、本軍を率いて動いていた。

浅井と朝倉の連合軍が、近江に布陣していた。

総兵力、二万。

信長の軍は——一万五千。

数では劣っていた。

しかし——信長は動じなかった。

「速さで勝つ」と信長は言っていた。

「数ではない。速さだ」


浅井長政が、信長の動きを見ていた。

「速い」と長政は言った。「信長の動きが——圧倒的に速すぎる」

「しかし数では我々が」と家臣が言う。

「数は関係ない」と長政は言う。「速い者が先に陣を取れば、後から来た者は不利になる」

「どうします」

長政は少し考えた。

「朝倉と合流する前に——信長が来る」

その時だった。

「裏切り者が出ました」と伝令が飛び込んできた。

「何だと」

「小谷城の東の門を守る者が——信長に内通していました。既に門を開けています」

長政の顔が青ざめた。

「誰が——誰が内通した」

「それが——複数です。東の門だけではありません。南の守りも」

長政は立ち上がった。

(内通者が複数?)

(これは——誰かが仕掛けた)

後に明らかになることだが——この内通を画策していたのは、松永久秀だった。

信長のもとで働きながら、久秀は浅井家中の不満分子に接触していた。

銭を使い、言葉を使い、一人一人を切り崩していた。

久秀の手が、ここにも届いていた。


朝倉義景が、浅井の使者を受け取った。

「内通者が出た。至急合流を」

義景は使者を見た。

「合流?今すぐか」

「はい。急いでください」

義景は少し間を置いた。

「——わかった」

しかし義景の動きは遅かった。

信長の速さに、合わせられなかった。

浅井と朝倉の合流が、わずかに遅れた。

そのわずかな遅れを——信長は見逃さなかった。

「今だ」と信長は言った。「全軍、突撃」


十 凄惨な戦闘

浅井軍の前線に、信長の軍が突き刺さった。

鉄砲の一斉射撃が始まった。

浅井軍の先頭が崩れた。

「押せ」と信長の声が飛んだ。

騎馬隊が動いた。

速かった。

浅井の弓が届く前に——信長の騎馬が、浅井の陣に入っていた。

混乱が広がった。

「朝倉はどこだ」と浅井の指揮官が叫んだ。

「合流が——遅れています」

「なぜだ」

返答がなかった。


朝倉義景が、ようやく動き始めた時。

信長軍は既に、浅井軍の中に深く食い込んでいた。

「合流できない」と朝倉の斥候が報告した。「信長軍が間に入っています」

義景は判断した。

「退け」

朝倉軍が引いた。

浅井軍が——孤立した。

長政は、状況を把握した。

「……挟まれた」

東から信長。

北から朝倉が退いた空白。

西には——内通者が開けた門。

三方が、塞がれた。

「——戦う」と長政は言った。

覚悟の声だった。

浅井の将兵が、最後の戦いに入った。

凄惨だった。

浅井の将兵が、一人一人倒れていった。

しかし——長政は退かなかった。

何度も、何度も、信長軍に突っ込んだ。

「長政が自分で出てきた」と信長の近習が言う。

「そうか」と信長は言う。静かに。

「追いますか」

「追うな」と信長は言う。「長政がどこへ行くかを——見ろ」

長政が向かった先は、小谷城だった。

お市が、既にいない城だった。


戦が終わった。

朝倉軍は撤退した。

浅井軍は、事実上壊滅した。

長政は小谷城に籠もった。

「——終わりか」と長政は城の天守から言った。

誰も答えなかった。

長政は腹を切った。

小谷城が、信長の手に落ちた。

その後、信長は朝倉を追った。

義景は越前に逃げた。

しかし——信長は止まらなかった。

追い詰めた。

朝倉義景も、最後は自害した。

浅井と朝倉が——一つの戦で、同時に消えた。


十一 七島の衝撃

七島に、報告が届いた。

次々と、届いた。

「浅井、壊滅」

「朝倉、撤退。義景、自害」

「小谷城、落城」

「包囲網、事実上崩壊」

成瀬が、一つ一つを時貞に報告した。

「……上様」と成瀬は言った。

時貞は報告を聞いていた。

動かなかった。

「天元」と時貞は呼んだ。

「はい」と天元が答えた。「信長の今回の作戦を分析しました。二方面同時展開、内通工作、速度による各個撃破——全てが連動しています。特に——内通工作の精度が、私の予測を大幅に超えています」

「誰がやった」

「松永久秀の可能性が高いです」と天元は言った。「久秀の情報網と人脈が、浅井家中の切り崩しに使われています」

「久秀か」と時貞は言う。

「信長のもとで——久秀はその才を、信長のために使っている。それが今回の戦で示されました」

「俺が久秀を信長に送ったから——浅井と朝倉が滅んだ可能性がある」と時貞は言う。

「因果関係として——そう言えます」と天元は言った。

木島が言う。「しかし——久秀を送ったのは、上様の判断では」

「そうだ」と時貞は言う。「俺の判断だ」

「上様を責めているわけでは——」

「責めていないことはわかっている」と時貞は言う。「しかし——俺の行動が、乱世を動かしている。信玄への書状が信長を動かした。久秀を送ったことが浅井と朝倉の滅亡に繋がった。鳳凰寺の存在が、信長をより加速させた」

「それは——」

「止められなかった」と時貞は言う。「しかし——俺は目を逸らさない。自分の行動の結果を、全て見る。それが俺の責任だ」


成瀬が少し間を置いてから言った。

「上様、信長は——今、どこにいますか」

「越前の平定に入っているはずだ」と時貞は言う。

「信長殿は——この後、どう動くと思いますか」

時貞は少し考えた。

「史実では——信長は越前を平定した後、一向一揆の問題が残る。本願寺との戦いが続く。そして義昭との最終的な対立に向かう」

「しかし」と成瀬が言う。

「しかし——今の信長は、史実の信長より速い。史実の流れが、どこで変わるか——もう、俺には正確には読めない」

「それが——今の最大の問題ですね」と浜村が言う。

「そうだ」と時貞は言う。「信長という天才を——俺たちによってより目覚めさせてしまった。そして怪物になった。これからどこへ向かうか——俺には完全には読めなくなっている」


十二 信長からの書状

数日後。

信長から書状が来た。

短かった。


時貞へ。

浅井と朝倉を——片付けた。

お前の書状がなければ、もう少し時間がかかった。

感謝はしない。しかし——役に立った。

一つだけ言う。

俺はこれから——もっと速く動く。

お前が急がないなら、俺が急ぐ。

俺が急ぐなら、お前が止まれ。

そうすれば——お互いの邪魔にならない。

信長。

追記——久秀は、使える男だった。

お前に感謝はしない。しかし——役に立った、とだけ言っておく。


時貞は書状を読んだ。

「お前が急がないなら、俺が急ぐ」

「お互いの邪魔にならない」

時貞は少し考えた。

(信長は——まだ、扉を閉じていない)

(対立ではなく、役割分担を提案している)

「信長は賢い」と時貞は言う。

「どういう意味ですか」と成瀬が言う。

「鳳凰寺と信長が同時に急けば——ぶつかる。しかし役割を分ければ、ぶつからない。信長はそれを提案している」

「受け入れますか」

「今は——受け入れる」と時貞は言う。「信長が東と中央を動かす。俺は西と北と南を動かす。重なる部分は——話し合って決める。今はそれが最善だ」

時貞は筆を取った。


信長殿へ。

浅井と朝倉の件——聞きました。

速かった。

俺が予測した速さの、半分以下の時間で動いた。

驚きました。正直に言います。

提案を——受け入れます。

信長殿が東と中央を動かす間、俺は西と南と北を動かします。

重なる部分は、その都度、話しましょう。

一つだけ言います。

帝の御身だけは——どちらが先に動くか、決めておきましょう。

帝を守ることは——俺にとって、全ての上にあります。

時貞より。

追記——久秀が役に立ったとのこと。

やはり、あの男は才があります。

しかし——使い方には、気をつけてください。喰えない男ですので。


封じた。

成瀬に渡した。

時貞は窓を開けた。

夜の海が広がっていた。

「天元」と時貞は呼んだ。

「はい」と天元が答えた。

「信長という人間について——俺は今日、改めて思った」

「何を思いましたか」

「信長は——俺とは全く違う動き方をする。しかし目指している先の一部が同じだ。それが、あの男との関係を複雑にしている」

「どういう意味ですか」

「完全な敵でもなく、完全な味方でもない。互いに影響し合いながら、それぞれの方向へ動いている。そしてその影響が——時に、俺の想定を超えた結果を生む」

「はい」と天元は言った。

「俺が信玄の情報を送ったことで、信長が動いた。その結果、浅井と朝倉が消えた。それは俺が意図した結果ではなかった」

「はい」

「しかし——信長が動かなければ、義昭の信長包囲網は続いていた。帝の御身が危うくなっていた可能性があった。だから俺は書状を送った。結果として、意図しない影響が出た。しかしその判断は、間違っていなかったと俺は思っている」

「どうして間違っていなかったと言えますか」と天元は問う。

時貞は少し考えた。

「結果だけで判断しない」と時貞は言う。「判断した時点での情報と状況で、最善を選んだかどうかで判断する。あの時点で、俺は最善を選んだ。その結果がどうなったかは——受け止める。しかし後悔はしない」

天元は少し間を置いた。

「時貞様」と天元は言った。

「何だ」

「それは——この乱世を、本当の意味で生きている者の言葉だと思います」

時貞はその言葉を、静かに受け取った。


「成瀬」と時貞は呼んだ。

「はい」と成瀬が来た。

「信長が速く動いているなら——俺も止まっていられない。止まらない、というのはそういうことだ」

「御意」と成瀬は言った。

「それと——冬姫を呼んでくれ」

「北の方様を?」

「今日の話を——聞かせてやりたい」と時貞は言う。「信長が動いたこと。浅井と朝倉が消えたこと。俺の行動が乱世を動かしているということを」

「なぜ北の方様に」

「冬姫が俺の傍にいる理由の一つが、重いものを一緒に持つためだからだ」と時貞は言う。「俺の判断の結果を——共に受け止めてほしい」

成瀬は深く頷いた。

「必ずお呼びします」


しばらく後。

冬姫が来た。

時貞の隣に座った。

「どうしましたか」と冬姫は言う。「顔が——少し、重そうです」

「重い話があります」と時貞は言う。

「聞きます」

時貞は全てを話した。

信玄の撤退。信長の動き。浅井と朝倉の滅亡。

俺の行動が乱世を動かしているという自覚。

信長という怪物が、鳳凰寺によってより目覚めて生まれてしまった可能性。

冬姫は、最後まで黙って聞いた。

話が終わった後も、しばらく黙っていた。

「時貞様」と冬姫はようやく言った。

「はい」

「一つだけ言っていいですか」

「ああっ」

「重いものを背負っていることは——わかります」と冬姫は言う。「しかし——背負っているということは、それだけの責任を持っている者が動いているということです。無責任な者が動けば、誰も止められない。時貞様が動いているから——この乱世は、少しずつ良くなっている」

「結果として悪いことも起きている」

「起きています」と冬姫は言う。「しかし——起きなかった悪いことの方が、もっと多いはずです。時貞様がいなければ——人身売買が今も続いていた。荒木一助殿の死が無駄になっていた。九州の民が今のように豊かになっていなかった」

時貞は冬姫を見た。

「それは——」

「数えられないものを、数えることも大事です」と冬姫は言う。「起きた悪いことだけを数えれば、重くなります。起きなかった悪いことも——数えてください」

時貞はしばらく、冬姫を見た。

「……ありがとう」と時貞は言う。

「礼は——いりません」と冬姫は言う。「わたくしは時貞様の妻なのですから」

夜の七島の海が、静かに光っていた。

乱世が——動いていた。

信長が動いていた。

時貞も——止まらなかった。


(第五十章へ続く)

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