第四十七章 ―北の方様と上様―
一 祝福の波
婚礼の知らせは——西日本全土に広まった。
速かった。
三日もしないうちに、九州全土に届いた。
一週間で、中国地方に届いた。
祝状が、次々と七島に届いた。
大友宗麟から。
龍造寺隆信から。
鍋島直茂から。
立花道雪から。
毛利隆元から。
吉川元春から。
小早川隆景から。
四国の吉良親実から。
九州の国人たちから。
中国地方の国人たちから。
書状の束を成瀬が持ってきた時、時貞は少し驚いた。
「こんなに」
「まだ増えています」と成瀬は言った。「民からも、自然と祝いの声が上がっています。薩摩の村々では——上様ご婚礼の報せを聞いて、各村で小さな祝い事をしたとのことです」
「上様」と時貞は繰り返した。
「はい」と成瀬は言った。「殿への呼び方が、自然とそうなっています。そして冬姫様のことは——北の方様と呼ばれています」
時貞は少し間を置いた。
「……そうなったか」
「なりました」と成瀬は言った。「上様と北の方様。西日本の全ての者が、そう呼んでいます」
その頃、冬姫の部屋では。
侍女が報告していた。
「北の方様。各地から祝状が届いています」
「そうですか」と冬姫は言った。静かに。
しかし——目が少し輝いていた。
「北の方様」と侍女が言った。
「何ですか」
「先ほど時貞様が、上様と呼ばれることを少し戸惑っておられたようです」
冬姫は少し笑った。
「時貞様らしいですね」
「北の方様は——戸惑いませんでしたか」
冬姫は少し考えてから言った。
「最初は少し。しかし——この呼び方には、責任が込められています。北の方様と呼ばれる以上、それに相応しくなければなりません。戸惑っている暇はありません」
侍女が頷いた。
二 側室の打診
祝状と一緒に——別の種類の書状も届き始めた。
毛利隆元から。
龍造寺隆信から。
大友宗麟から。
内容は——それぞれ異なる言葉で書かれていたが、伝えたいことは同じだった。
鳳凰寺家との更なる結びつきを望む。
側室として、自家の娘を差し出したい。
時貞は三通を読んで——机に置いた。
「断る」と時貞は言った。即座に。
成瀬が少し困った顔をした。
「殿——」
「冬姫一人で十分だ。側室など必要ない」と時貞は言った。
「しかし——」
「断る。返書を書いてくれ」
成瀬はしばらく黙っていた。
「……北の方様に——ご相談されましたか」
時貞が少し止まった。
「していない」
「では——一度、ご相談されてから」
「必要ない。俺が決める」
成瀬はため息をついた。
「御意にございます」と成瀬は言った。
しかし——部屋を出る前に、一言だけ言った。
「北の方様には——俺から伝えておきます」
「待て」と時貞は言った。
成瀬が振り返った。
「——伝えなくていい」と時貞は言った。
「しかし」
「俺が伝える」
成瀬は何も言わなかった。
しかし——部屋を出る時、少し笑っていた。
その夜。
時貞は冬姫に話した。
「側室の打診が来ている」と時貞は言った。「断るつもりだ」
冬姫が時貞を見た。
しばらく——黙っていた。
それから口を開いた。
「断ってはなりません」と冬姫は言った。
時貞が驚いた。
「え?」
「断ってはなりません!」と冬姫は繰り返した。はっきりと。
「冬姫——」
「時貞様」と冬姫は言った。少し声が変わった。「一つだけ聞いてください」
「……はい」
「鳳凰寺家のお世継ぎを産むのは——わたくしです。それは揺らぎません」
「はい」
「しかし」と冬姫は言った。「時貞様がこれからどれほど大きな仕事をされるか——わたくしには、わかります。西日本の統治。帝への奏上。信長様との問題。台湾。北の拠点。どれ一つをとっても、並の者には到底できないことです」
「それと側室に何の関係が」
「あります」と冬姫は言った。「大友・龍造寺・毛利が側室を望んでいる。それを断れば——その三家との結びつきは、今のままとなんら変わりません。しかし受け入れれば——その三家は鳳凰寺家と血で繋がります。臣従だけではなく、血の絆が生まれます」
「しかし——」
「時貞様」と冬姫は続けた。「この乱世では、それが政です。感情の問題ではありません。鳳凰寺家の安定のために、側室を持つことは絶対に必要なことです。いずれは——数名は持たなければなりません」
時貞は冬姫を見た。
「冬姫は——それでいいのですか」
冬姫は少し間を置いた。
「いいわけがありません」と冬姫は言った。正直に。「嫌です。正直に言えば。しかし——鳳凰寺家の正室として、感情だけで動くことはできません。わたくしが嫌だというだけで、鳳凰寺家の発展を損ねることは、正室の務めに反します」
「冬姫」と時貞は言った。
「はい」
「俺は——冬姫一人でいい」
冬姫は時貞を見た。
「時貞様がそうおっしゃっても——わたくしが許しません」と冬姫は言った。
時貞が固まった。
「……え?」
「わたくしが許しません」と冬姫は繰り返した。「側室を断ることを、正室のわたくしが許しません。鳳凰寺家のために必要なことを、時貞様の感情だけで断ることを、わたくしは許しません」
時貞は——完全に、言葉を失った。
冬姫は少し表情を緩めた。
「時貞様」と冬姫は言った。
「……はい」
「わたくしをお慕いしてくださっていることは、知っています。だからこそ、言えます」と冬姫は言った。「時貞様の気持ちは嬉しい。しかし、正室として鳳凰寺家を支えることが、わたくしの務めです。わたくしを本当に大切にしてくださるなら——鳳凰寺家を大きくすることに、全力を尽くしてください」
時貞はしばらく、冬姫を見ていた。
「……乱世の女性は」と時貞はついに言った。
「何ですか」
「強いですね…」と時貞は言った。
冬姫は少し笑った。
「時貞様が優しすぎるのです」と冬姫は言った。「しかし——その優しさが、時貞様の一番良いところでもあります。だからわたくしが言います。側室の件は、わたくしにお任せください。誰を迎えるか、いつ迎えるか、どういう形で迎えるか——全てわたくしが決めます。時貞様は政に集中してください」
時貞は——完全に、タジタジだった。
「……わかりました」と時貞は言った。
小さな声だった。
翌朝。
成瀬が時貞の様子を見に来た。
「昨夜——北の方様とお話されましたか」と成瀬は言った。
「した」と時貞は言った。
「側室の件は」
「冬姫に任せることになった」と時貞は言った。
成瀬は少し間を置いた。
それから——深く頷いた。
「さすがでございます」と成瀬は言った。
「何がさすがなのだ」と時貞は言った。
「北の方様が」と成瀬は言った。
「……俺のことを褒めてくれ」
「北の方様のご判断が、正しかったと申し上げています」と成瀬は言った。穏やかに。
時貞は少し黙った。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」
「乱世の女性は——強いな」
成瀬は笑った。
声のある笑いだった。
珍しいことだった。
「はい」と成瀬は言った。「北の方様は——特に…」
三 冬姫と笹木、四国の計画
その日の午後。
冬姫の部屋に、笹木淳子が来た。
机の前に座って、二人で向き合った。
「四国の女子教育の計画を——まとめました」と笹木は言った。
「見せてください」と冬姫は言った。
笹木が書類を広げた。
「まず四国の四ヶ所に、女子が通える学び場を作ります。土佐・阿波・伊予・讃岐に一ヶ所ずつ。教える内容は——読み書き・算術・医療の基礎知識・自然の仕組みです」
「先生はどう用意しますか」と冬姫は問うた。
「七島から数名ずつ派遣します。現地の優秀な女性を補助として育てます。三年後には、現地の者だけで運営できるようにします」
冬姫は書類を読んだ。
丁寧に、一つ一つ確認した。
「資金は」
「鳳凰寺家から出ます。建物は四国の建設と合わせて作ります」
「北の方様の名で——四国に通達を出してほしいのです」と笹木は言った。「公家の正室の名で支持する学び場は、四国の民に与える影響が大きい。『北の方様がお認めになった』という言葉が、女子の親たちを動かします」
冬姫は書類を読み終えた。
「わかりました」と冬姫は言った。「よきに計らってください。わたくしの名を使うことは、いつでも許します。ただし——」
「ただし?」
「現場のことは先生方にお任せます」と冬姫は言った。「わたくしが口を出しすぎれば、先生方のお仕事の邪魔になります。先生が決めたことを、わたくしが支持する形で動きます」
笹木はしばらく冬姫を見た。
「……北の方様は」と笹木は言った。
「何ですか」
「賢い方でございますね」と笹木は言った。
「お世辞を言わないでください」と冬姫は言った。
「お世辞ではありません」と笹木は言った。「自分が動かずに、自分の名前を使って人を動かす。それができる者と、できない者がいます。北の方様はできる方です」
冬姫は少し考えてから言った。
「公家の世界では——直接動かない者の方が、大きく動かせることがあります。その経験を——ここで使っているだけです」
「では」と笹木は言った。「四国の計画を、進めます」
「お願いします」と冬姫は言った。「先生が動いてくださるなら——わたくしは安心して任せられます」
笹木が部屋を出た後。
侍女が言った。
「北の方様——四国には行かれないのですか」
「行きません」と冬姫は言った。
「なぜですか」
「わたくしは時貞様の正室です」と冬姫は言った。「正室の場所は——七島です。時貞様の傍にいることが、わたくしの務めです。現場に行って自分が教えることは——先生方の仕事です。わたくしの仕事は、先生が動きやすい環境を作ることです」
侍女は頷いた。
「しかし——もどかしくありませんか」
冬姫は少し間を置いた。
「もどかしい、と思う時もあるでしょう」と冬姫は正直に言った。「しかし——時貞様がおっしゃっていた言葉を、わたくしも使っています」
「どんな言葉ですか」
「止まらない」と冬姫は言った。「動けない時は、動ける者に動いてもらう。それも——止まらないことの一つだと、わたくしは思っています」
四 博多、動き始める
博多・筑前。
鳳凰寺の旗が立った。
建設が始まった。
九州本拠地の時と同じように——民が雇われた。
銭が渡った。
働く者の手に、仕事があった。
「博多西日本政務府の建設について、現況を報告します」と浜村が言った。
「聞かせてくれ」と時貞は言った。
「政務庁の基礎工事が始まっています。港の整備も同時に進めています。博多の商人たちが——鳳凰寺の建設を歓迎しています」
「商人たちが歓迎している理由は」
「鳳凰寺が来れば、貿易がさらに活発になると見込んでいるからです」と浜村は言った。「博多の商人は——ものの価値を見る目が鋭い。鳳凰寺との繋がりが利益になると、正確に計算しています」
「それでいい」と時貞は言った。「博多の商人たちの力を——政務府の運営に活かしたい。民間の活力を、統治に組み込む。それが博多を選んだ理由の一つだ」
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「博多の建設計画は、予定通り進んでいます。ただし一つ提案があります」
「何だ」
「博多の港に——鳳凰寺の公式な貿易規則を設けることを提案します。どの船が・どういう条件で・何を取引できるかを明文化します。これにより博多が西日本の正式な国際貿易港として機能します」
「やってくれ」と時貞は言った。「南蛮船への対応も含めて、規則を作る。琉球との貿易ルートも、博多を中心に整備する」
「了解しました」
五 信玄と史実の乖離
その日の夕刻。
風間が報告に来た。
「武田信玄の体調悪化が——さらに進んでいます」と風間は言った。
「どういう状況だ」と時貞は問うた。
「西上作戦の進軍が、大幅に遅れています。一部では、信玄自身が輿に乗って指揮を取っているとの情報もあります」
時貞は静かに聞いた。
「史実では——信玄はこの時期、まだ積極的に動いていた」と時貞は心の中で確認した。「しかし今の信玄は、明らかに史実より動きが遅い」
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「信玄の西上作戦の進捗を分析しています。史実と比較すると、現在の進軍速度は史実の約六割程度です。原因として考えられるのは——包囲網全体の連携が弱いため、信玄が急ぐ理由が薄れたこと。そして信玄自身の体調が史実より早期に悪化している可能性があること。この二点です」
「包囲網の連携が弱い理由は」
「鳳凰寺の存在です」と天元は言った。「西日本が鳳凰寺の影響下にある現在、義昭が動かせる勢力が史実より大幅に少ない。信玄が動いても、他の勢力が連動しない。そのため信玄が単独で無理に進軍する必要がなくなっています」
時貞は窓を見た。
「史実では——信玄は三方ヶ原で家康を破り、その後病が悪化して亡くなった」と時貞は言った。
「はい」と天元は言った。「しかし現在の状況は——三方ヶ原の戦いが史実通りに起きるかどうか、不明です。信玄の体調次第では、西上自体が中断される可能性があります」
「信長は——この状況をどう見ているか」
「実は信長様からの書状が届いています」と成瀬が言った。
信長の書状を開いた。
時貞へ。
信玄が遅い。
いつもの信玄なら、もっと速く動くはずだ。
何かある。
俺は今、包囲されている。
しかし——妙に静かだ。
静かすぎる。
この静けさが——俺には不気味だ。
お前は何か知っているか。
お前はいつも、先が見えている。
今回も——何か見えているなら、教えてくれ。
頼む、とは言わない。
しかし——助かる。
信長。
時貞は書状を読んだ。
「頼む、とは言わない。しかし——助かる」
信長が「助かる」と書いた。
それが——信長なりの、精一杯の言葉だった。
時貞は筆を取った。
信長殿へ。
信玄の体調が優れないとの情報があります。
西上が遅れているのは——そのためかもしれません。
確証はありませんが、参考にしてください。
一つだけ言います。
今の状況を——急いで動こうとしないでください。
静かなら、静かなままで待つことも選択肢のひとつです。
信長殿が急ぐことが、相手の思う壺になることがあります。
今回は——待つことが、最善かもしれません。
時貞より。
追記——「助かる」と書いてくださいました。
信長殿がそう書くのは、珍しいことだと前久殿から聞いています。
俺も——信長殿の西が安定していることで、動きやすくなっています。
互いに、ということです。
封じた。
成瀬に渡した。
「急いで届けてくれ」
「はい」
六 統治研究部門、三度目の報告
翌日。
浜村が、三冊目の報告書を持ってきた。
全幹部が集まった。
「三度目の報告書をまとめました」と浜村は言った。「今回は——帝への奏上に向けた具体的な準備案です」
「いよいよか」と時貞は言った。
「はい。帝は時貞様が目指す世界を聞きたいとおっしゃっています。その準備を、具体的に始める段階に来たと判断しました」
浜村は書類を広げた。
「奏上の内容は——三つの柱です」
「聞かせてくれ」
「一つ目——統治の仕組みの提案。帝を頂点とした合議制統治の具体的な設計案です。誰が・どういう基準で・どのように政を動かすか。その全体像を帝にお示しします」
「二つ目——民の声を政に届ける仕組みの提案。直訴制度をより整備した形で、民が意見を伝えられる道を作ります」
「三つ目——百年計画の提示。今から百年後に日本がどういう姿になっているべきか。その目標を、帝と共有します」
時貞は静かに聞いていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「奏上の準備として、私が担当する部分があります。世界の統治事例の整理と、日本の歴史からの学び、そして現在の西日本の統治状況の分析です。これらを帝にもわかりやすい形で整理します」
「帝への奏上は——いつ行う」と時貞は問うた。
「来年の春を目標とします」と浜村は言った。「それまでに、奏上の内容を完成させます」
「前久殿と相談しながら進めてくれ」と時貞は言った。「帝との関係は、前久殿を通じて動かす」
「はい」
「一つだけ」と時貞は言った。「難しい言葉を使わない。帝に伝えるということは——帝が理解してくださることが大前提だ。わかりやすく、しかし正確に伝える。その両方を意識してくれ」
「御意にございます」
七 北の方様の日々
夜。
冬姫は部屋で書状を書いていた。
笹木から送られてきた四国の女子教育計画への返書だった。
短かった。
笹木先生へ。
計画、確認しました。
北の方の名において、全面的に支持します。
よきに計らってください。
先生を信じています。
冬姫より。
封じた。
侍女に渡した。
それから——時貞の執務室に向かった。
扉を開けると、時貞が書類を見ていた。
「時貞様」と冬姫は言った。
時貞が顔を上げた。
「冬姫」
「夜遅くまで——お疲れではありませんか」と冬姫は言った。
「少し」と時貞は言った。
冬姫は部屋に入った。
時貞の横に、静かに座った。
「何を見ていたのですか」と冬姫は問うた。
「帝への奏上の準備です」と時貞は言った。「来年の春に——帝に、俺が目指す世界を話す。その準備をしています」
冬姫は書類を少し覗いた。
難しい言葉が並んでいた。
「わたくしには——難しい内容ですね」と冬姫は言った。
「難しくない言葉で書き直しているところです」と時貞は言った。「帝にわかっていただけるように」
「難しいことを——わかりやすく言い換えること、わたくしなら少し…手伝えるかもしれません」と冬姫は言った。
時貞は冬姫を見た。
「手伝ってくれるんですか?」
「公家の世界では——難しい内容を、誰にでもわかる言葉で話す機会が多くありました。帝が直接理解されなければならない内容を、どう伝えるか——その経験なら、わたくしにもあります」
時貞は少し間を置いた。
「……それは助かります」と時貞は言った。
「では」と冬姫は言った。「一緒に考えましょう。今夜は遅くまでになりますが——構いませんか?」
「それでは冬姫の眠りが」
「時貞様が起きているなら——わたくしも起きています」と冬姫は言った。
時貞は書類を冬姫の前に置いた。
二人で、灯りの前に並んだ。
難しい言葉が、冬姫の手によって、少しずつ柔らかくなっていった。
七島の夜が、静かに更けていった。
(第四十八章へ続く)
時貞くん、早速冬姫の尻に敷かれている…∑(゜Д゜)ファッ!!?




