第四十六章 ―契り―
一 道雪、来島
婚礼の前日。
七島の港に、一艘の船が入ってきた。
立花道雪が乗っていた。
杖をついていた。
しかし——目が、いつもと同じ鋭さだった。
時貞が桟橋で迎えた。
「道雪殿」と時貞は言った。
「殿」と道雪は言った。「前久殿の代わりに参りました。前久殿から——言伝を預かっています」
「聞かせてください」
「『俺の代わりに、道雪殿に全部やってもらえ。俺が行けば道雪殿よりうまくやれるが、道雪殿でも八分はできる』と」
時貞は少し笑った。
「前久殿らしい言い方ですね」
「俺も同じことを思いました」と道雪は言った。しかし——目が、温かかった。「しかし——前久殿は本当に来たかったはずです。書状に、それが滲んでいた」
「わかっています」と時貞は言った。
「殿」と道雪は言った。
「はい」
「この度はお慶び申し上げます」
道雪は深く頭を下げた。
時貞も、深く頭を下げた。
道雪はもう一つ、書状を持っていた。
「前久殿から——もう一通。それから…帝の御書状を預かってきました」
「帝から?」と時貞は言った。
「はい。前久殿が帝に婚礼の報告をしたところ——帝自ら、御祝いの書状を書いてくださったとのことです」
時貞は書状を受け取った。
重かった。
帝の御書状だった。
二 帝の御言葉
時貞は書状を開いた。
帝の御筆だった。
流れるような、しかし力強い字だった。
時貞へ。
冬姫との婚儀を、朕は心より祝福する。
お前はこの乱世で、多くのものを背負ってきた。
一人で背負いすぎていると、朕はずっと思っていた。
冬姫が傍にいてくれることで——お前が少し軽くなれることを、朕は願っている。
二人で、共に歩め。
それが——朕の願いだ。
そしてお前に言っておきたいことがある。
時貞が目指しているものを——朕にはまだ、全ては見えていない。
しかし、お前を信じておる。
そのものが、この日本に根付いた時——朕はお前に、改めて礼を言うことにする。
冬姫を、大切にせよ。
正親町
時貞は書状を読んだ。
読み終えて——目を閉じた。
「帝が」と道雪は静かに言った。「自ら書かれた」
「はい」
「……殿」と道雪は言った。
「何ですか」
「俺は長年、大友に仕え、また多くの主君を見てきました。しかし——帝が、一人の武将の婚礼に自ら御祝いの書状を書かれることは、わが生涯で一度も見たことがありません」
時貞は書状を、そっと胸元に収めた。
「この婚礼を——無駄にしません」と時貞は言った。
三 婚礼の朝
婚礼の日の朝。
七島は、秋晴れだった。
空が高く、澄んでいた。
海が、光っていた。
冬姫は、侍女たちに囲まれて、婚礼の装いを整えていた。
小袖は、深い赤と金の模様だった。
公家の姫らしい、繊細で美しい模様が全体に施されていた。
帯は白と金。
打掛は——近衛家の家紋が入った、藤色の絹だった。
「冬姫様」と侍女の一人が言った。「お美しゅうございます」
冬姫は鏡を見た。
自分の顔が、少し違って見えた。
「——緊張していますね、わたくし」と冬姫は言った。
「当然でございます」と乳母が言った。「冬姫様の婚礼でございますから」
「時貞様に笑われますでしょうか」
「笑われるはずがございません」と乳母は言った。「しかし、もし笑われたとしても——それは嬉しい笑いでございましょう」
冬姫は少し笑った。
廊下の向こうで、時貞が装束を整えていた。
成瀬が手伝っていた。
鳳凰寺の式服だった。
七島の職人が作った、深い青の束帯に近い装束だった。
「殿」と成瀬は言った。
「何だ」
「緊張していますか」
「している」と時貞は即座に言った。
成瀬が少し笑った。
「正直ですね」
「今更、嘘はつけない」と時貞は言った。
四 婚礼の儀
七島の式場は、城の一室に設けられた。
広くはなかった。
しかし——花が飾られていた。
七島に咲く秋の花が、清らかに並んでいた。
道雪が立会人として、正面に座った。
その隣に、成瀬。
少し離れて、幹部たち。
そして冬姫の侍女たちが、静かに控えていた。
時貞が入ってきた。
次に——冬姫が入ってきた。
道雪が、冬姫を見た。
目が——少し細くなった。
(美しい)
それは感嘆だった。
しかしそれ以上に——冬姫の目の輝きが、道雪の心を動かした。
緊張していた。
しかし——恐れていなかった。
前に向かっている目だった。
時貞と冬姫が向き合った。
「——」
二人は、しばらく、互いを見た。
誰も何も言わなかった。
しかし——その沈黙は、言葉より多くのものを伝えていた。
道雪が口を開いた。
「本日、鳳凰寺時貞殿と近衛冬姫殿の御婚礼の儀を、ここに執り行います」
声が——静かに部屋に広がった。
「両者、向き合ってください」
時貞と冬姫が、正面から向き合った。
帝の御書状が、道雪によって読み上げられた。
帝の御言葉が、部屋に届いた。
二人で、共に歩め。それが——朕の願いだ。
その言葉が、室内に染み入った。
冬姫が——目を潤ませた。
時貞は、冬姫の目を見た。
「式三献を行います」と道雪は言った。
一対の盃が、二人の前に置かれた。
漆塗りの盃だった。
七島の職人が、この日のために作ったものだった。
酒が注がれた。
時貞が先に盃を取った。
三口で飲んだ。
冬姫に盃を渡した。
冬姫が受け取った。
三口で飲んだ。
また時貞に渡した。
三度、繰り返した。
部屋が——静かだった。
海の音だけが、遠く聞こえていた。
三度目が終わった時。
道雪が言った。
「これにて——夫婦の契りが結ばれました」
誰も、声を上げなかった。
しかし——空気が変わった。
成瀬が、目を細めた。
幹部たちが、それぞれの顔で、その瞬間を受け取った。
笹木が——少し、目を拭った。
道雪が立ち上がった。
「時貞殿。冬姫殿」と道雪は言った。「前久様の代わりに——俺が言います」
二人が道雪を見た。
「——お慶び申し上げます」
道雪の声は、低く、しかし温かかった。
「この乱世に——貴殿の場所が、できた。それが——俺には嬉しい」
五 床入れの夜
婚礼の儀が終わった後。
時貞と冬姫は、二人だけの部屋に入った。
従者たちが、静かに引いた。
部屋に、灯りが一つ。
海の音が、遠くに聞こえた。
秋の夜が、窓の外に広がっていた。
二人は向き合った。
「冬姫」と時貞は言った。
「はい」と冬姫は言った。
時貞は少し間を置いた。
「来てくれて——ありがとうございます」
「時貞様」と冬姫は言った。
「はい」
「それは——何度目ですか」と冬姫は言った。少し笑いながら。
「数えていませんでした」と時貞は言った。
「わたくしは数えていましたよ」と冬姫は言った。「今日だけで——三度目です」
時貞は少し照れた顔をした。
「それほど——言いたかったということです」
時貞は冬姫の目を見た。
「もう一つ——言いたいことがあります」
「何ですか」
「今まで言えなかったことです」
冬姫が、少し緊張した顔をした。
「俺は——冬姫を、愛しています」と時貞は言った。
はっきりと。
迷いなく。
「最初に七島で星を見た夜から——ずっと、そう思っていました。しかし、なかなか言葉にできなかった」
冬姫は動かなかった。
「これからの人生を——共に歩んでほしい。俺が重いものを背負う時には、半分持ってもらいたい。俺が迷う時には、傍にいてもらいたい。お互いに、助け合いながら」
冬姫の目が——滲んだ。
「時貞様」と冬姫は言った。声が、少し揺れていた。
「はい」
「わたくしも——お慕いしております。ずっと」
時貞は懐から、小さな箱を取り出した。
「もう一つ——渡したいものがあります」
冬姫が箱を見た。
「なんでしょうか」
「俺のいた場所では——婚礼の時に、これを贈る風習があります」と時貞は言った。「少し前から、冬姫のために用意していました」
箱を開けた。
中に——指輪があった。
金の台座に、ダイヤモンドが輝いていた。
冬姫が息を飲んだ。
「——これは?」
「指輪と言います」と時貞は言った。「この石は、ダイヤモンドというものです。この世の中で最も硬い石です。二人の絆が——これと同じように、何があっても壊れないようにという意味を込めています」
冬姫は指輪を見た。
灯りの中で、ダイヤモンドが光っていた。
「受け取ってもらえますか」
「はい」と冬姫は言った。
時貞が指輪を持った。
冬姫の左手を取った。
細い指に、指輪をはめた。
冬姫は自分の手を見た。
「——綺麗」と冬姫は言った。
「冬姫殿の手が綺麗なのです」と時貞は言った。
冬姫が——笑った。
泣きながら、笑った。
「本当に——時貞様は」と冬姫は言った。「不思議な方です。こんな世に一つだけの宝を——どこから」
「かなり前から準備していました」と時貞は言った。
「かなり前から」と冬姫は繰り返した。
「いつから準備していたのですか」
「——最初に星を見た夜から」と時貞は言った。
冬姫は時貞を見た。
それから——時貞の胸に、顔を埋めた。
「——恐悦至極に存じ上げます」と冬姫は言った。
声が、くぐもっていた。
時貞は冬姫を抱いた。
「こちらこそ」と時貞は言った。
秋の夜が、静かに更けていった。
七島の海が、二人の部屋の外で、穏やかに光っていた。
六 笹木との再会
数日後。
冬姫は七島の診療所を訪ねた。
笹木淳子が出てきた。
二人は向き合った。
「北の方様…」と笹木は言った。
「笹木先生」と冬姫は言った。
一瞬——二人とも、何も言わなかった。
それから、冬姫が笑った。
笹木も笑った。
「——来ていただけましたね」と笹木は言った。
「参りました」と冬姫は言った。
「時貞様が——変なことをされませんでしたか」
冬姫が少し赤くなった。
「変なこととは?」
「ものすごく正直に、恥ずかしいことを言ってきたりとか」と笹木は言った。
冬姫はさらに赤くなった。
「……言いました」と冬姫は言った。小声で。
「何を」
「わたくしをお慕いしていると——はっきり言ってくださいました。そして指輪を」
「指輪…」と笹木は言った。目が細くなった。「見せてください」
冬姫が左手を差し出した。
笹木はダイヤモンドの指輪を見た。
「……時貞様らしくて、らしくない」と笹木は言った。
「どういう意味ですか」
「らしくないのは——こんな気の利いたことをするところです。らしいのは——かなり前から用意していたであろうところです」
「よくおわかりになりますね」と冬姫は言った。
「長く仕えていますからね」と笹木は言った。
二人は笑った。
「先生」と冬姫は言った。
「何でございましょう?」
「また一緒に——働けますか」
笹木は少し間を置いた。
「北の方様がよろしければ…」と笹木は言った。「むしろ——お待ちしておりました」
「何を致しましょうか」
「今、四国に診療所を増やしています」と笹木は言った。「しかし医師が足りません。北の方様が京でやってこられた女子への教育——四国でもやっていただきたいと思っています。女性が医療に関わる道を、四国にも作りたい」
冬姫の目が輝いた。
「はい」と冬姫は言った。「やります」
「北の方様は時貞様の御正室として、表に立てる立場です」と笹木は言った。「私が医師として動くより、北の方様が先頭に立たれる方が——四国の女性たちが動きやすくなります」
「わたくしの立場を——使うのですね」
「使えるものは使っていただきたく。それが仕事というものです」と笹木は言った。
冬姫は笹木を見た。
「先生は——相変わらずですね」
「変わりませんよ」と笹木は笑顔で言った。
「それが——好きです」と冬姫は言った。
笹木は少し間を置いた。
「……私も、北の方様が来ていただけて…よかったと思っております」
二人は診療所の前で、秋の光の中に立っていた。
七 変わった乱世
数日後。
七島に、二つの報せが届いた。
一つ目。
風間からの報告だった。
「武田信玄の西上に——変化が生じました」
時貞が顔を上げた。
「どういう変化だ」
「進軍が——遅くなっています。信玄自身の体調が優れないとの情報が入っています」
時貞は少し間を置いた。
「史実では——信玄は三方ヶ原の戦いの後、西上の途中で病が悪化して亡くなる」と時貞は心の中で確認した。
しかし——今の状況は、史実と少し違っていた。
進軍の速度が、史実より遅かった。
動き方が、史実と違っていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「信玄の動きの変化について、分析済みです。史実と比較すると——信玄の西上のタイミングが遅れています。また、包囲網全体の連携が、史実より弱い。各勢力がバラバラに動いています」
「なぜ、史実と違う」と時貞は問うた。
天元は少し間を置いた。
「鳳凰寺の存在が原因と思われます」と天元は言った。
二つ目。
信長からの書状が届いた。
時貞へ。
信玄が来る。遅いが——来る。
朝倉も浅井も本願寺も動いている。
囲まれているのは事実だ。
しかし——西は来ない。
毛利も龍造寺も大友も動かない。
全部、お前が押さえているからだ。
感謝はしない。
お前も俺も、それぞれの理由で動いているだけだ。
ただ——一つだけ言う。
お前が西を押さえていることで、俺は東だけを見れる。
それは事実だ。
冬姫との婚儀、前久から聞いた。
めでたし。
信長。
時貞は書状を読んで——少し笑った。
「めでたし…だけか」
成瀬が言った。「信長殿らしい言い方ですね」
「そうだな」と時貞は言った。
時貞は窓を開けた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「鳳凰寺の存在が、乱世を変えているのか?」と時貞は言った。
「はい」と天元は言った。「時貞殿が転生してから四年が経ちました。その間、鳳凰寺の存在が、この時代の流れに影響を与え続けています。信長包囲網が史実より弱いのは——西日本全体が鳳凰寺の影響下にあるため、将軍義昭が動かせる勢力が史実より少ないからです。毛利が動かない。九州の大名が動かない。四国が鳳凰寺のものになった。そのため包囲網の西側と南側が、完全に機能していません」
「史実では——信長は追い詰められた」と時貞は言った。
「はい。史実の信長包囲網は、各勢力が連携して機能していました。しかし現在の包囲網は——東と北だけです。西と南が欠けている」
「俺がいるせいで——信長の苦境が、史実より軽くなっている」
「その通りです」
時貞はしばらく考えた。
(俺がこの乱世に来たことで——乱世が変わっている)
それは知っていた。
当然、予測していた。
しかし——実際にそれを確認すると、重さが違った。
(俺の存在が、この時代の流れを変えている)
(信長の歴史が——俺のせいで、変わりつつある)
(信玄の歴史が——俺のせいで、変わりつつある)
(どこまで変わるのか——俺には、完全には予測できない)
時貞は空を見た。
秋の空が高かった。
「天元」と時貞は言った。
「はい」
「俺は今——一つのことを思っている」
「何ですか」
時貞は少し間を置いた。
「俺は転生してから——史実の流れを参考にしてきた。信長が美濃を取る時期。義昭が将軍になる時期。信玄が動く時期。全部、知っていた。だから予測して動いてきた」
「はい」
「しかし——これからは、その史実が全く当てにならなくなるかもしれない」と時貞は言った。「鳳凰寺の存在が、乱世を変えすぎた。俺の知っている歴史と、現実がずれていく。そのずれが——これから大きくなっていく」
「はい。私の計算でも、そうなります」と天元は言った。「これからの状況は、史実の歴史書が参考にならない局面が増えます」
時貞はしばらく黙っていた。
「——それが、俺の覚悟すべきことだな」と時貞はようやく言った。
「はい」
「史実の知識がなくなる。頼れるのは——今の現実と、天元の分析と、仲間たちの判断だけになる」
「それは——恐ろしいですか」と天元は問うた。
時貞は少し考えた。
「恐ろしくない」と時貞は言った。「むしろ——これが本当の始まりかもしれない」
「本当の始まり?」
「俺は今まで——知っている未来に向かって動いてきた。しかし、知っている未来がなくなれば——初めて、完全に自分の判断だけで動くことになる。それは怖い。しかし——それが、この乱世に本当の意味で向き合うということかもしれない」
天元は少し間を置いた。
「時貞様」と天元は言った。
「何だ」
「私は——時貞様が、これからの局面を乗り越えられると分析しています」
「根拠は」
「根拠は——今まで時貞様が動いてきた全ての判断の記録です」と天元は言った。「史実を知っていたから正しく動けたのではありません。時貞様の判断が正しかったから、正しく動けた。その記録が、根拠です」
時貞は天元の言葉を、静かに受け取った。
「ありがとう…天元」と時貞は言った。
成瀬が入ってきた。
「殿」と成瀬は言った。「北の方様が——夕餉の準備を手伝ってくださっているとのことです」
時貞は少し驚いた。
「冬姫が?」
「はい。笹木先生と一緒に、台所にいらっしゃいます。二人とも楽しそうだとのことです」「従者の方々にはおやめくださいと、おっしゃられているようですが…」
時貞は少し笑った。
「そうか」
「行かれますか」と成瀬が言った。
「行く」と時貞は言った。
机を離れた。
廊下を歩いた。
台所から——笑い声が聞こえてきた。冬姫の声だった。
笹木の声だった。
時貞は立ち止まった。
その声を、少し聞いていた。
(この声が——七島にある)
それが、何より大切なものだと思った。
百年の計。西日本の統治。乱世の変容。
全部、大切だった。
しかし——この声が聞こえる場所が、時貞の根っこだった。
時貞は台所の扉を開けた。
「——何を作っているのですか」と時貞は言った。
冬姫が振り返った。
手に、木べらを持っていた。
「時貞様」と冬姫は言った。「邪魔しないでください。今、大事なところです」
「邪魔している気はないのですが…」という時貞。
「いるだけで邪魔になります」と笹木が言った。「時貞様からもおやめになるように、何か言ってください」その後ろで必死に訴えている従者たち…。
時貞は扉をそっと閉めた。
廊下で、少し立っていた。
それから——笑った。
声を出して大笑いした。
成瀬が廊下の向こうで、何事かという顔をして見ていた。
「これからはいろいろと大変だ…」と時貞は言った。
「はあ」と成瀬は言った。
七島の秋の夕暮れが、穏やかに流れていった。
乱世は——明日も続く。
しかし今この瞬間は、時貞の根っこは温かかった。
それで——十分だった。
(第四十七章へ続く)
結婚しちゃった…Σ(・□・;)




