第四十四章 ―刮目―
一 成瀬の目
成瀬一郎には、一つの習慣があった。
毎朝、時貞の執務室に入る前に——一度、足を止めることだ。
扉の前で、一呼吸置く。
そして——入る。
その習慣が生まれたのは、時貞が刃に倒れた後からだった。
あの夜のことを、成瀬は忘れていなかった。
山道から担がれて運ばれてきた時貞の顔を。
腹部を押さえる布が、赤く染まっていたことを。
笹木が手術室から出てきて「命に別状はありません」と言った瞬間に、廊下で膝をついた自分を。
その夜から——成瀬は毎朝、扉の前で一呼吸置くようになった。
(今日も、生きている)
それを確かめるための、一呼吸だった。
しかし。
刃に倒れる前の時貞と、その後の時貞は——違った。
成瀬は、それを最初に気づいた一人だった。
(変わった)
最初にそう感じたのは、小早川隆景が訪ねてきた日だった。
「恭順か、族滅か。選べ」
そう言い切った時の時貞の目。
迷いが、なかった。
以前の時貞にも迷いはなかった。
しかし——以前の目には、何か柔らかいものがあった。
優しさではなく——甘さ、と呼ぶべきものが。
あの目から、その甘さが消えていた。
(抜き身の真剣のようだ)
成瀬はそう思った。
鞘に収まった刀ではなく。
抜かれて、研がれて、光っている刀。
二 追憶
ある夜。
成瀬は一人で縁側に座っていた。
風が涼しかった。
夜の海が見えた。
「成瀬殿」と声がした。
浜村が来た。
「一人で何をしているのですか」と浜村は言った。
「考えていた」と成瀬は言った。
「何を」
成瀬はしばらく黙った。
「殿のことを」と成瀬は言った。
浜村が横に座った。
「俺も——最近、考えることがあります」と浜村は言った。「殿が変わったことを」
「気づいていたか」
「気づかない者はいないと思います」と浜村は言った。「あの件の前と後で——殿は別の人間のようです。しかし」
「しかし?」
「別の人間のようでいて——根っこは変わっていない。それが不思議で」
成瀬は海を見た。
「根っこは変わっていない」と成瀬は繰り返した。「そうだな。その通りだ」
成瀬は思い出した。
時貞が最初に村回りをすると言った時のことを。
「護衛を増やした方が」と成瀬が言った。
「民が警戒する」と時貞は言って、少ない護衛で出かけた。
その判断が——あの結果を招いた。
しかし成瀬は、今でも思う。
あの判断は間違っていたか。
(間違っていなかった)
民と向き合うために護衛を減らしたことは、時貞の本質から出た判断だった。
その本質は——今も変わっていない。
変わったのは——その本質を守るための覚悟の深さだった。
「浜村」と成瀬は言った。
「はい」
「お前は覚えているか。殿が最初に薩摩の村を回った時のことを」
「覚えています。老人に『俺たちが豊かになることが国のためになるとは——聞いたことがなかった』と言われた時のことですね」
「あの時の殿の顔を覚えているか」
浜村は少し考えた。
「——嬉しそうな顔でした」と浜村は言った。「しかし、どこか切なそうでもあった」
「そうだ」と成瀬は言った。「あの頃の殿には、まだ——この乱世を本当に変えられるのかという迷いがあったと俺は思っている」
「今は」
「迷いがない」と成瀬は言った。「変えられる、ではなく——変える、という目になった」
浜村は少し黙った。
「何が変えたのでしょうか」と浜村は言った。
成瀬は夜の海を見た。
「死にかけたことだ…」と成瀬は言った。
三 乱世の実感
翌日の朝。
時貞は執務室で報告を聞いていた。
風間の諜報報告。
四国の建設進捗。
前久からの書状の続報。
全てを聞きながら、時貞は静かに考えていた。
会議が終わった後。
成瀬だけが残った。
「殿」と成瀬は言った。
「何だ」と時貞は言った。
「一つだけ——聞いてもよいですか」
「なんだ?」
成瀬は少し間を置いた。
「あの日のことを——今はどう思っておられますか」
時貞は成瀬を見た。
「あの日、とは」
「山道で——刃に倒れた日のことです」
時貞はしばらく、窓の外を見た。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」
「俺はあの日——人を殺した」
「はい」
「最初は——重かった」と時貞は言った。「あの男の温かい血の感触が、手に残っていた。眠れない夜もあった」
成瀬は黙って聞いた。
「しかし」と時貞は続けた。「今は——違う考え方をしている」
「どういう考え方ですか」
「あの男は俺を殺しに来た。俺が躊躇った一瞬を突かれて、腹を刺された。もし俺がもっと早く動いていれば——あの男だけが死んで、俺の護衛は誰も怪我をしなかったかもしれない」
「……」
「俺が躊躇ったから——護衛たちが傷ついた。俺の迷いが、大切な者を傷つけた」
成瀬は少し間を置いてから言った。
「殿は——もう迷わないということですか」
「迷わない」と時貞は言った。静かに。しかし確かに。「守りたい者を守るために——敵を殺すことに、一切躊躇わない。躊躇った瞬間に、こちらの大切なものが失われる。それがわかった」
成瀬はしばらく、時貞の顔を見た。
(変わった)
しかし——これは。
(これは正しい変化だ)
成瀬は思った。
以前の時貞は——優しかった。
しかし乱世では、優しさだけでは守れないものがある。
優しさの中に鋭さが加わった時——それが本当の強さになる。
「殿」と成瀬は言った。
「何だ」
「俺は——殿が刃に倒れた日、廊下で膝をつきました」
時貞が成瀬を見た。
「報告書には書かなかったことです」と成瀬は言った。「笹木先生が『命に別状はありません』と言った瞬間、俺の足が——動かなくなりました」
「……成瀬」
「そして思いました」と成瀬は続けた。「俺が殿を守れなかった、と。俺の判断が甘かった、と」
「お前のせいではない」と時貞は言った。
「わかっています。しかし——感情はそう思いませんでした」と成瀬は言った。「だから俺も——あの日から変わりました。殿が変わったように、俺も変わりました」
時貞は成瀬を見た。
「どう変わった」と時貞は問うた。
「殿の命を守ることを——自分の全てより上に置くようにしました」と成瀬は言った。「今まではそう思っていたつもりでした。しかしあの日、俺は思い知りました。つもりと本物は違う、と」
二人は向き合った。
しばらく——沈黙があった。
「ありがとう」と時貞は言った。
「いいえ」と成瀬は言った。「これは俺自身のためでもあります。殿が生きていてくれなければ——俺には、やることがなくなります」
四 乱世の理解
その夜。
時貞は一人で窓を開けていた。
夜の海が広がっていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「一つ、話してもいいか」
「もちろんです」
時貞は少し間を置いた。
「俺はこの乱世に来て——四年が経った。最初は、この時代の人間のことが理解できなかった」
「どういう意味ですか」
「なぜ殺せるのか、と思っていた」と時貞は言った。「二十一世紀の価値観で考えれば——人を殺すことは最大の罪だ。しかしこの時代では、戦で人を殺すことが当たり前に行われている。なぜそんなことができるのか、俺には理解できなかった」
「今は」と天元は言った。
「今は——わかる」と時貞は言った。「乱世の人間は、明日の命がどうなるかわからない状況で生きている。だから一生懸命に生きている。生き残ることに必死だ。その必死さの中で、人を殺すことへの感覚が、二十一世紀とは違う」
「はい」と天元は言った。
「俺が正しくて、この乱世が間違っているわけではない」と時貞は続けた。「二十一世紀の平和な世界では、人を殺さなくて済む仕組みが作られている。だから人を殺すことへの感覚が薄れている。しかしこの時代にはその仕組みがない。命が軽いのではなく——命を守る仕組みが、まだない」
「その仕組みを作ることが——時貞殿の目標ですね」と天元は言った。
「そうだ」と時貞は言った。「この時代の人間が間違っているのではない。仕組みがないから、そうするしかない。だから仕組みを作る」
「天元」と時貞は言った。
「はい」
「俺は今——この乱世の人間に、少し近づいたと思っている」
「どういう意味ですか」
「以前の俺は——この時代に来た二十一世紀の人間だった。この時代を外から見ていた。しかし今は——この時代の中にいる。守りたいものがあって、そのために必死になって、迷わずに動く。それは——この時代の人間と同じだ」
「しかし……」と天元は言った。
「しかし?」
「時貞様は——この時代の人間と同じではありません。二十一世紀の知識と価値観を持ちながら、この時代の覚悟も持った。その両方を持っている者は、この時代には存在しません」
時貞は少し考えた。
「それが——俺の役割か」
「はい」と天元は言った。「この時代の覚悟で動きながら、二十一世紀が作った仕組みを、この時代に植えていく。それが時貞殿にしかできないことです」
五 男子、三日会わざれば
成瀬が気づいたことを、幹部たちも気づいていた。
木島は、会議中の時貞の発言が変わったと感じていた。
以前は——慎重に、様々な可能性を考えてから結論を出していた。
今は——考える速さが増した。しかし考えの深さは変わらない。
速く、深く、決断する。
それが今の時貞だった。
浜村は、数字の扱いが変わったと感じていた。
以前の時貞は——犠牲の数字を見ると、少し止まっていた。
四国制圧での死者数を聞いた時。
三好・四国連合軍の死者数百名、重軽傷者数千名。
その数字を聞いた時貞の顔は——止まらなかった。
しかし何かを胸に収めた、という顔をした。
「この重さを、忘れるな」と自分に言い聞かせているような顔だった。
それは以前の「止まる」とは違った。
「受け取って、前に進む」という動きだった。
風間は、指示の明確さが変わったと感じていた。
以前の時貞は——「できる範囲で」「難しければ」という余地を残した指示を出すことがあった。
今の時貞は——「やれ」と言う。
しかしその「やれ」の中に、相手の限界への配慮が含まれていた。
その違いが、風間には伝わった。
倉橋は、時貞の目が変わったと感じていた。
以前の目は——遠くを見ていた。
今の目は——遠くを見ながら、自分の足元もしっかり見ている。
遠い百年先と、自分の足元の今を、同時に見ている目だった。
朝比奈は、時貞の声が変わったと感じていた。
以前の声は——説得しようとしていた。
今の声は——伝えている。
相手が受け取るかどうかは相手次第だが、俺は伝える。そういう声だった。
ある朝の会議が終わった後。
幹部たちが廊下に出た。
木島が言った。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ、という言葉がある」
「三国志の言葉ですね」と浜村が言った。
「殿は——あれだけの目に遭って、変わられた…」と木島は言った。
「しかし」と倉橋が言った。「根っこは変わっていない」
「そうだ」と木島は言った。「変わっていない部分こそが——殿らしさだ。急がない、焦らない、止まらない。民を大切にする。帝を守る。正直に話す。それは変わっていない」
「変わったのは——その根っこを守るための心構えだ」と成瀬が言った。
全員が頷いた。
「刮目、か」と風間が呟いた。「俺たちが改めて見直す番かもしれないな」
六 冬姫の言葉
その日の夕刻。
冬姫からの手紙が届いた。
時貞は執務室で開いた。
時貞様へ。
四国のことは、兄から聞いています。
時貞様が四国に向かわれた時——わたくしはずっと、七島の方角を向いていました。
一つだけ、お伝えしたいことがあります。
京で、時貞様のことを悪く言う人たちがいます。
長宗我部を毒殺したと、今でも言い続けている人たちがいます。
わたくしは——そのたびに、言います。
「時貞様はそのようなことをする方ではありません」と。
最初は信じてもらえませんでした。
しかし今は——少しずつ、聞いてくれる人が増えています。
帝の綸旨の後から、特に。
わたくしにできることは——言い続けることだけです。
時貞様の代わりに、京で言い続けます。
一つ、聞いてもよいですか。
刃に倒れた後——時貞様は変わりましたか。
兄から「少し違う時貞殿になった気がする」と聞きました。
兄がそう言うのですから、時貞様の中で何かあったのでしょう。
変わったとしても——わたくしは構いません。
どんな時貞様であっても、わたくしの気持ちは変わりません。
ただ——お会いしたいと思っています。
七島の星を、また見たいと思っています。
冬姫より。
時貞は手紙を読んだ。
読んで——少し間を置いた。
「変わりましたか」という問い。
「どんな時貞様であっても、わたくしの気持ちは変わりません」という言葉。
時貞は筆を取った。
冬姫殿へ。
変わりました。
正直に言います。
以前の俺には——どこか甘さがあったと思います。
優しくありたいという気持ちが、時に判断を鈍らせていました。
今は——優しくありたいという気持ちは変わりません。
しかし守りたい者を守るために、迷わない覚悟が加わりました。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」という言葉があります。
成長した者を見る時は、改めてよく見直せという意味です。
俺は——刮目に値する変化をしたかどうか、自分ではわかりません。
しかし、前より遠くへ行けるようになった気はしています。
冬姫殿の「どんな時貞様であっても」という言葉を——
俺は大切にします。
七島の星を——また一緒に見ましょう。
近いうちに、来てほしいと思っています。
話したいことが、増えました。
時貞より。
封じた。
成瀬に渡した。
成瀬は書状を受け取りながら、時貞の顔を見た。
変わった顔だった。
しかし——今の顔は、冬姫への手紙を書いた後の顔だった。
少し、柔らかかった。
抜き身の真剣のような鋭さの中に——まだ、温かさがあった。
(そうだ)
成瀬は思った。
(根っこは変わっていない)
その温かさが消えない限り——時貞は時貞だった。
夜の海が、静かに光っていた。
(第四十五章へ続く)




