第三十九章 ―喰えぬ男の真意、そして侵攻―
一 吉良親実、孤独な探索
土佐、岡豊城。
吉良親実は、一人で部屋に座っていた。
机の上に、一通の書状があった。
差出人はなかった。
どこから来たのか、わからなかった。
しかし——内容は、短かった。
元親殿の周辺に、一年近く前から忍び込んでいた者がいるはずです。
その者が——今回の首謀者へ繋がるきっかけになるかもしれません。
親実は、この書状を何度も読んだ。
鳳凰寺の諜報部からだろうと、親実は思った。
しかし——今は、それがどこから来たかは関係なかった。
(一年近く前から、忍び込んでいた者)
親実は記憶を遡った。
元親の周辺で——一年ほど前から関わりを持ち始めた者。
信頼を得ていた者。
思い当たる顔を、一人一人、頭に浮かべた。
三名が浮かんだ。
親実は、その三名を、静かに、丁寧に、調べた。
素性。来歴。家族。過去の行動。
全てを調べた。
しかし——何も出てこなかった。
三名のうちの一人は、確かに数年前から城下に住んでいた。
記録が残っていた。
隣人の証言があった。
子供の頃の話をしてくれる老人もいた。
完璧な過去があった。
別の一人は、商人として土佐に来て、そのまま元親に気に入られた男だった。
商売の記録があった。
各地で取引した相手の名前があった。
全て確認できた。
疑う余地がなかった。
三人目も——同様だった。
三名全員が、完璧な過去を持っていた。
怪しいところが、一つもなかった。
部屋の外の廊下を、人が歩く音がした。
城の日常の音だった。
親実は机に手をついた。
(何も、ない)
(手がかり一つ、見つけられない)
親実は呆然とした。
その頃——城下の宿に。
二人の男が向き合っていた。
夜の、誰もいない部屋だった。
一人が、静かに笑った。
「事が起こってから、すぐに現場を離れる忍びは三流よ」と男は言った。「真の忍びは——本気で溶け込む」
もう一人が頷いた。
「吉良親実殿は調べているか」
「調べているよ。丁寧に、真剣に」と男は言った。「しかし——何も出てこない。当然だ。俺たちは一年かけて、この土地の人間になった」
「いつ離れる?」
「しばらくは残る」と男は言った。「早く出れば、それ自体が手がかりになる。最後まで——土佐の人間として、ここにいる」
男は窓の外を見た。
土佐の夜が広がっていた。
「松永様は——本当に、遠くまで考えておられる」と男は呟いた。
翌日、親実は書類の山の前に座っていた。
何も出てこなかった。
(俺には——見えない)
(何かがある。しかし、見えない)
親実は拳を握った。
(元親様。俺は——あなたの死の真相を、まだ証明できない)
二 三好の影
七島、執務室。
風間が報告に来た。
「四国で——三好の影が濃くなっています」と風間は言った。
「詳しく」と時貞は言った。
「三好長逸が、四国の国人たちと接触を始めています。表向きは——鳳凰寺への対抗を旗印にした結束の呼びかけです。しかし実態は——三好の四国支配を取り戻すための動きです」
「長逸は、今回の件を利用しているのか」と成瀬が言った。
「そうです」と風間は言った。「四国の怒りを三好が束ねる。鳳凰寺への対抗という大義名分で、三好の勢力を回復させようとしています」
時貞は地図を見た。
「三好が四国を固めれば——俺たちへの対抗軸ができる」
「はい。今の状況が長続きすれば——四国は三好の影響下に入り直します。その後に俺たちが動こうとしても、三好と四国の国人が一緒に立ちはだかる」
「長逸は——うまく動いている」と時貞は言った。
「久秀の謀が、長逸の利益になっています」と天元が言った。「二人の利益が一致した結果、四国が動いています」
「その二人の間に、亀裂はないか」と時貞は問うた。
風間が少し考えた。
「一つ、気になることがあります」
「何だ」
「今回の件で——久秀は長逸の名前を前面に出し、自分は距離を取っています。長逸にとっては、今回の謀の表の責任者として名前が出ている形です。それを長逸がどう思っているか——」
「長逸は気づいているか」
「気づいているかもしれません。しかし今は四国統一という目の前の利益があるため、そこまで気が回っていないかもしれません」
時貞は少し考えた。
「その亀裂を——将来、使えるかもしれない」
「はい。今すぐではありませんが」と天元は言った。
三 帝、動かれる
その日の夕刻。
前久からの書状が届いた。
成瀬が持ってきた。
「前久様から——急ぎとのことです」
時貞は受け取った。開いた。
時貞殿へ。急報。
帝が——動かれた。
悪評が広まる中、帝は自ら二条晴良殿を通じて、各地の公家と大名家に綸旨を出された。
内容は以下の通りだ。
『鳳凰寺時貞は朕が信じる者である。
今広まっている悪評は、朕は信用せず。
時貞を不当に扱う者は、朕に対して不義を働く者と見なす』
帝が自ら、特定の者のために綸旨を出されることは——極めて異例のことだ。
そんな前例を俺は知らない。
この綸旨は既に各地に届き始めている。
効果がどこまで出るかは——まだわからない。
しかし、帝の御心は、確かに示された。
時貞殿。帝は——本当に、お前を信じておられる。
それを、伝えたかった。
近衛前久より。
時貞は書状を読み終えた。
動かなかった。
成瀬が横で待った。
幹部たちも、黙っていた。
しばらくして——時貞が口を開いた。
「帝が——動かれた」と時貞は言った。声が、少し変わっていた。
「はい」と成瀬が言った。
「俺のために」
「はい」
時貞は目を閉じた。
永禄三年に、この乱世に来た。
帝と最初に向き合った時、帝は言われた。
「お前を信じよう」と。
その言葉は——四年経っても、変わっていなかった。
悪評が広まっても。四国が怒りで燃えても。
帝は——信じていてくださった。
それだけでなく。
自ら、筆を執られた。
前例のない行動を、起こされた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「帝の綸旨が各地に届けば——状況は変わるか」
「変わります」と天元は言った。「帝の権威は、この時代において絶大ではありませんが——無視できるものでもありません。特に、帝が自ら特定の者のために綸旨を出すという前例のない行動は——多くの者に、立ち止まって考えさせる効果があります。今すぐ状況が逆転するわけではありませんが——鳳凰寺への悪評に、疑問を持つ者が出てきます」
時貞はしばらく、書状を見ていた。
(帝)
心の中で呼んだ。
(ありがとうございます)
そして同じ日の夕刻。
七島に、もう一通の書状が届いた。
冬姫からだった。
時貞様へ。
悪評のことは、聞いています。
兄からも、京の状況を聞いています。
一つだけ申し上げます。
わたくしは——一切、信じていません。
時貞様がそのようなことをする方ではないことは、わたくしが一番よく知っています。
京では、わたくしの言葉を信じてくださる方々が、少しずつ増えています。
帝の綸旨も届きました。
帝が動かれたことで——疑問を口にする者が出始めています。
時貞様、どうか折れないでください。
今が一番辛いときかもしれません。
しかし——真実は、必ず明らかになります。
わたくしは——時貞様の傍にいます。
遠くにいますが、傍にいます。
冬姫より。
時貞は冬姫の書状を読んだ。
読んで——少し、肩の力が抜けた。
「冬姫殿が」と成瀬が言った。
「はい」と時貞は言った。
「——心強いですね」
「そうだな」と時貞は言った。
そして少し笑った。
「遠くにいますが、傍にいます、か」
成瀬も、わずかに笑った。
四 松永久秀の真意
その頃。
松永久秀は、城の書斎で一人、考えていた。
茶の湯はもう、終わっていた。
夜が深かった。
(時貞という男は——本当に面白い)
久秀は思っていた。
力を持ちながら、力だけで動かない。
証拠がなければ動かない。
正当性を、何よりも大切にする。
それが——この乱世では、最も珍しい動き方だった。
(信長は速い。しかし信長は——壊す方が得意だ)
(時貞は遅く見える。しかし——作ることが得意だ)
久秀は、乱世を長く生きてきた。
その経験から、一つのことがわかっていた。
(壊す者は、時代を動かす。しかし——作る者が、時代を変える)
久秀の真の目的は——生き残ることだった。
ただの生き残りではない。
乱世が終わった後も、生き残ること。
その先の世界で、意味のある存在であり続けること。
信長は——悪くなかった。
しかし信長の先に、時貞がいた。
時貞の方が——遠くまで見えていた。
(三好は落ち目だ。しかし——裏切ることはできない)
(裏切り者の汚名は、どこへ行っても付きまとう。それは生き残りの邪魔になる)
(だから——三好を使いながら、鳳凰寺に近づく道を作る)
今回の謀は——その一手だった。
三好に四国での復権を期待させながら、鳳凰寺と三好をぶつけ合わせる。
そして——鳳凰寺が四国に侵攻する大義名分を、久秀が提供する。
その書状を、久秀は既に準備していた。
三好長逸の名で書かれた、精巧な書状。
一年かけて集めた、三好長逸の筆跡と印。
天元でも——完全には見破れない書状を、久秀は作らせていた。
(あの男は、証拠があれば動く)
(証拠を与えれば——動く。そして四国に向かう)
(四国で三好と鳳凰寺がぶつかる。その時、俺は三好の背後から鳳凰寺に加勢する)
(それが——ワシの答えだ)
久秀は立ち上がった。
書斎の棚から、小さな箱を取り出した。
中に、書状が入っていた。
三好長逸の書状。
精工に、完璧に作られた書状だった。
「さて」と久秀は呟いた。
「——届ける時が来たか」
久秀は窓の外を見た。
暗い夜が広がっていた。
「あの男は——正当性なしには動けん。しかし正当性さえ与えれば、必ず動く」ふと——久秀の口元が、また動いた。
「それだけでは、少し物足りんか」
久秀は別の考えを、頭の中で転がした。
「九州全土に噂を流せば、どうなるか」と久秀は呟いた。「あの男は随分と民に優しいからのう…」
久秀は本当に楽しそうだった。
謀を考える時の久秀は——子供のように目が輝いていた。
「さて、次の手は——」
夜が、さらに深まっていった。
五 書状、届く
七島。
その書状が届いたのは、翌日の朝だった。
差出人はなかった。
しかし——内容は、明確だった。
三好長逸の名で書かれた書状の写し。
今回の謀の指示が、細かく記されていた。
乱破への依頼。伊賀者の動員。四国への噂の流し方。
そして——元親暗殺の指示。
時貞は書状を手に取った。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「既に分析しています」
「真偽は」
天元が少し間を置いた。
「この書状の真偽は——高い確率で本物と思われます」と天元は言った。「三好長逸の筆跡、印章、文体——全て、既知の資料と一致しています」
「しかし」と時貞は言った。
「しかし——完全に本物とは断定できません。低確率ではありますが——偽物の可能性も、完全には排除できません」
参謀室が静かになった。
「要するに」と浜村が言った。「天元では完全に偽物だと見破れない、ということか」
「はい」と天元は言った。「私の分析能力では——完全にこの書状が本物か偽物かを、確定することができません」
成瀬が時貞を見た。
「殿」
時貞は書状を見ていた。
しばらく——動かなかった。
(松永久秀…)
心の中で、その名を呼んだ。
(お前は——本当に、天元の想像を超えてくる男だな)
天元が見破れない書状。
真偽不明の、しかし——使えるかもしれない書状。
これを届けてきたのが誰かは、時貞には、もうわかっていた。
わかっていたが——証明できなかった。
(お前の真意が——俺には、まだ完全には読めない)
(しかし)
時貞は書状を机に置いた。
地図を見た。
四国。
三好長逸が、今まさに四国を固めようとしている。
長宗我部が消えた四国を、三好の影響下に取り戻そうとしている。
(放置すれば——四国は三好のものになる)
(そうなれば、俺たちが動ける状況ではなくなる)
時貞は全員を見た。
「決める」と時貞は言った。
全員が、時貞を見た。
「四国に——侵攻する」
「殿」と成瀬が言った。「この書状が偽物の可能性があります。それを大義名分に使うことは——」
「わかっている」と時貞は言った。
「この書状が本物かどうか——完全には断定できない。しかし高い確率で本物と言えることもできるものだ」
「三好長逸が四国で動いていることは——事実だ。三好が四国を固めることが——俺たちにとって脅威であることも、事実だ。
そして——長宗我部元親が死んだことも、事実だ」
「はい」
「この書状が本物かどうかに関わらず——三好が今回の件を利用して四国で動いていることは、俺たちが対応しなければならない問題だ」
成瀬は少し考えた。
「では——この書状は大義名分として使うが、それだけが理由ではない、ということですか」
「そうだ」と時貞は言った。
「地理的な理由。戦略的な理由。そして——三好の動きへの対応。複数の理由が重なっている。この書状は——その大義名分のひとつにすぎない」
「三好長逸が首謀者だと、確定するわけではないということですね」と浜村が言った。
「我々の中では確定はしない」と時貞は言った。
「しかし——三好が今、四国で動いている。それは事実だ。その事実への対応として、俺たちは動く」
天元が言った。「一つ申し上げます。この判断は——松永久秀の意図と一致している可能性があります。久秀がこの書状を届けたとすれば、時貞様を四国に動かすことが目的だった可能性があります」
「わかっている」と時貞は言った。「久秀の手のひらの上かもしれない。しかし——四国で動く理由は、久秀が作った理由だけではない。俺自身の理由がある。それで十分だ」
「はい…」と天元は言った。
時貞は立ち上がった。
「準備を始める。四国侵攻の計画を、今日から動かす」
「はい」と成瀬は言った。
「ただし——やり方は変えない。できる限り、血を流さずに。三好に与している四国の国人たちには、先に話す機会を与える。長宗我部家にも——改めて書状を送る」
「吉良親実殿に」と風間が言った。
「そうだ。今度は——受け取ってもらえるかもしれない。帝の御書状が届いた後だ。状況が少し変わっているはずだ」
「御意」
六 時貞、書く
夜。
時貞は二通の書状を書いた。
一通は——吉良親実へ。
一通は——前久へ。
親実への書状。
吉良親実殿へ。
再び書状をお送りします。
今回の件について——三好長逸の関与を示す書状が、俺の元に届きました。
調べた限りでは本物と言わざる負えないものです。しかし——三好が四国で動いていることは、事実です。
俺は四国に向かうことを決めました。
三好の動きを、このまま放置することはできません。
一つだけ、伝えたいことがあります。
元親殿は——俺への返書を書こうとしていたと聞きました。
その返書は、届きませんでした。
しかし——俺は、元親殿がどういう人物だったかを、それだけで理解しました。
正直に返そうとした誠実な人物だったと。
俺が四国に向かう時——できれば、親実殿と話したい。
直接、向き合いたい。元親殿の話をお聞きしたい。
その機会を、いつか作ってください。
鳳凰寺時貞。
前久への書状。
前久殿へ。
帝の綸旨のこと——受け取りました。
言葉が、見つかりません。
ただ——ありがとうございます、と伝えてください。
俺は四国に向かうことを決めました。
この乱世で自らの意志で初めて仕掛ける侵攻です。
胸が痛い。しかし——やらなければならない。
帝の御信頼を——無駄にしない動きをします。
それだけは、約束します。
冬姫殿への書状は、別に送ります。
時貞より。
書き終えた。
封じた。
成瀬に渡した。
時貞は窓を開けた。
夜の海が広がっていた。
その向こうに——四国があった。
松永久秀という男の笑い声が、どこかで聞こえるような気がした。
(久秀)
時貞は海を見ながら、その名を呼んだ。
(お前の手は——見事だった。今回は、認める)
(しかし——お前の真の目的が何かを、俺はまだ諦めずに読み続けている)
(いつか、明らかになる日が来るだろう…)
(その時に——俺はお前と、直接向き合う)
夜風が吹いた。
鳳凰寺の旗が、暗がりの中で揺れた。
四国への道が——開かれようとしていた。
(第四十章へ続く)
松永久秀の…謀の目的がはっきりと分かりました(;゜Д゜)(゜Д゜;(゜Д゜;)ナ、ナンダッテー!!




