第三十六章 ―忍び寄る謀略、動き出す四国―
一 松永久秀の密議
人里離れた某所。
夜だった。
明かりは一つだけ。
その光の中に、六人の男が集まっていた。
松永久秀。
そして——五人の忍。
野村孫太夫。毛屋武久。山田八右衛門。神部小南。山口秀勝。
久秀の配下の精鋭だった。
甲賀衆と伊賀衆から選ばれた者たちだった。
久秀は五人を見回した。
「三好長逸殿より、許可をいただいた」と久秀は言った。
誰も言葉を発しなかった。
しかし——五人の目が、わずかに光った。
「まず確認する」と久秀は続けた。「今回の依頼主は——あくまで『三好長逸』だ。『松永久秀』ではない。これを徹底しろ。何があっても、この一点だけは変えるな」
「承知」と孫太夫が答えた。
「報酬の話をする」と久秀は言った。「先払いで五千貫。成功後にさらに五千貫だ」
五人が——わずかに動いた。
「ひゅー」と武久が小声で言った。「気前がいいねぇ」
「仲間に話したら喜ぶな」と八右衛門が言った。
小南が少し首を傾けた。「三好長逸殿からの依頼料は五千貫と聞いていたが——成功後のもう五千貫は、どちらから」
久秀は少し笑った。
「ワシ個人が出す」
五人が互いに顔を見た。
「久秀様が——個人で」と秀勝が言った。
「そうだ。それだけ、この件はワシにとって重要だということだ。よく覚えておけ」
「確認する」と久秀は言った。「前もって長宗我部の周辺に忍ばせている者に、問題はないか」
孫太夫が答えた。「松永様の読み通り、一年前から忍ばせていましたから——今では逆に、信頼を勝ち取っているくらいです」
「ほう」と久秀は言った。目が細くなった。「それは上出来だ」
「周辺の者たちとも打ち解けています。不審に思われる心配は、今のところありません」
「よし」と久秀は言った。「三好長逸殿の書状の作製は——いつも通りで頼む」
八右衛門が頷いた。「心得た」
「ただし精度を上げろ。今回の相手には、少しでも不自然なところがあれば、看破される可能性がある」
「承知しています」
久秀は少し間を置いた。
「今回——お前たちは、表立って動くな」と久秀は言った。
「は」と孫太夫が答えた。
「ワシの配下とバレるのが、一番まずい。今回の件でワシの名前が出れば、全てが崩れる。それだけは絶対に避けろ」
「わかっています」と武久は言った。「今回、陽動で動く連中は——別の伊賀者に依頼済みです。我々とは繋がりが見えない者たちです」
「そうか」と久秀は言った。「陽動で動く者たちに——一つだけ伝えてくれ」
「何でしょう」
「死人が出るかもしれん」と久秀は静かに言った。「陽動で動く連中は——鳳凰寺に見つかる可能性が高い。今回相手にするのは、普通の大名ではない。それを、はっきりと伝えろ」
広間が静まり返った。
「だからワシが個人で五千貫を出すのだ。その分の——覚悟を持ってもらう必要がある」
「今回依頼に応じた伊賀者には、確認済みです」と秀勝が言った。「覚悟の上で受けています」
「そうか」と久秀は言った。
しばらく沈黙があった。
「よし。後は手筈通りに動け」
「御意」
五人が立ち上がった。
一礼して、闇の中に消えていった。
部屋に、久秀一人が残った。
明かりの前で、久秀はしばらく動かなかった。
それから——ゆっくりと、笑った。
不気味な笑い方だった。
声のない、底からの笑いだった。
「さて」と久秀は呟いた。
誰もいない部屋で、ひとりごとのように。
「お手並み拝見させてもらうぞ——鳳凰寺」
明かりが、揺れた。
二 風間の諜報
七島。
風間新八郎が報告に来たのは、それから十日後だった。
「四国に——不穏な動きがあります」と風間は言った。
「詳しく」と時貞は言った。
「まだ断片的な情報です」と風間は言いかけた。
「全部話してくれ。断片でも構わない」
「はい」と風間は言った。「四国の幾つかの地域で、素性のわからない者が動いています。商人を装った者。旅の僧を装った者。それぞれが——長宗我部の周辺を、少しずつ調べている様子があります」
「長宗我部の周辺を」
「はい。ただし——元親殿の周辺そのものは、平和です。統治は安定していて、家中に不和の気配もない。民も落ち着いています」
「外から探っている者がいる、ということか」
「そうです。そして——河野家の家臣から情報が入りました。四国の西部で、素性のわからない者たちが複数、動いているとのことです。河野家は警戒を始めています」
「その者たちが誰の配下かは、わかるか」と時貞は問うた。
「そこが——全く掴めていません」と風間は言った。悔しそうに。「動き方が、非常に巧みです。一つの手がかりを追うと、途中で消えます。繋がりが、見えません」
「三好か」と時貞は言った。
「可能性はあります。しかし——確証がない。三好の家中を動かすような人物の動向も、今のところ掴めていません」
時貞は少し考えた。
「天元」と呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「風間の報告と、私が集めた情報を合わせて分析しています。断片的な情報の動き方には——一つの特徴があります。複数の拠点から、同時ではなく、時間差で動いています。これは——統率された組織が、意図的に繋がりを見えにくくしている動き方です」
「忍か」と時貞は言った。
「可能性が高いです。そして——忍を複数の系統から雇い入れ、互いに知らせない形で動かしている。これは、相当に慎重な人物が指揮を取っていることを示しています」
「慎重で、かつ——忍の使い方を知っている者」と時貞は言った。
「はい。三好の家中でその条件に合う人物は——」
「松永久秀だ」と時貞は言った。
参謀室が静かになった。
「まだ確証はありません」と天元は言った。「しかし——可能性として最も高い」
「風間。監視を強化してくれ。四国全体を網羅できるよう、人員を増やす。特に——長宗我部の周辺と、三好の動きを同時に追え」
「はい。ただし——人員の増加には、時間がかかります」
「わかった。できる範囲で。しかし——急いでくれ」
「御意」
三 長宗我部元親
土佐、岡豊城。
長宗我部元親は、書状を手に持ったまま、しばらく動かなかった。
側に控えた家老の吉良親実が、元親の顔を見ていた。
「殿」と親実は言った。
「——四国に来るつもりだと、正直に言ってきた」と元親は呟いた。
「はい」
「鳳凰寺が——俺に使者を寄越した。そしてこう書いてきた」
元親は書状を持ち直した。
長宗我部元親殿へ。
初めて書状をお送りします。鳳凰寺時貞と申します。
単刀直入に申し上げます。
鳳凰寺は——将来、四国を鳳凰寺の版図に加えることを考えています。
これは脅しではありません。
しかし——隠すことも、しません。
俺たちの意図を、先にお伝えすることが、誠実だと考えました。
四国が必要な理由は、地理的なものです。
元親殿に恨みはありません。敵意もありません。
しかし——だからこそ、先に話したい。
時間をかけて、話し合いたい。
俺たちがどういう勢力で、何を目指しているかを、知っていただいた上で——元親殿の判断を聞きたい。
急ぎません。しかし——いつか必ず、直接会いたいと思っています。
鳳凰寺時貞。
「——変な書状だ」と親実は言った。
「変、というより」と元親は言った。「今まで見たことのない書状だ」
「四国に来ると——先に宣言してきました」
「そうだ」と元親は言った。「普通、そんなことを先に言うか」
親実は少し考えた。
「力があれば——言えるのかもしれません。来ることを止められないとわかっているから」
「それもある」と元親は言った。「しかし——それだけではない気がする。この書状は、俺を怖がらせようとしていない。かといって、懐柔しようともしていない。ただ——正直に言っている」
「正直に言えば——元親殿が従う可能性があると、考えているのでしょうか」
元親は書状を机に置いた。
「鳳凰寺時貞という男を——調べろ」と元親は言った。
「はい」
「今わかっていることを全部集めろ。島津を降した経緯。毛利を恭順させた経緯。帝との関係。信長との会見。全部だ。そして——この男がどういう人物なのかを、できる限り調べろ」
親実が頷いた。
「鳳凰寺とはどういう勢力で、時貞殿とはいかなる人物か——それを知った上で、俺は判断する」
「判断、といいますのは」
「この書状に——どう返事を書くかを、だ」
親実は少し驚いた。
「返事を出すのですか」
「出す」と元親は即座に言った。「返事を出さないことは——できない。こういう書状を寄越した相手に、黙っていることは、俺にはできない」
「……殿らしい」と親実は言った。
「調べが終わったら——すぐに報告してくれ。時間をかけすぎない。この男は——待ちながらも、止まらない男だと思う」
親実は深く頷いた。
数日後、親実が報告を持ってきた。
「鳳凰寺の情報を集めました」と親実は言った。
「全部話してくれ」
「まず——戦の記録です。島津征伐の際、串木野の浜で島津義弘率いる三千と鳳凰寺五百が対峙しました。結果——鳳凰寺側死傷者無し。島津側は二十三名が足を撃たれましたが、死者なし。その後、鳳凰寺は島津の負傷兵を手当てしています」
元親が眉を動かした。
「死者なしで、敵の負傷兵を手当て、か」
「はい。そして——薩摩を手中にした後、すぐに道路整備、診療所建設、学舎設置を始めています。今の薩摩の民は、鳳凰寺の統治を受け入れています」
「元々の敵が、か」
「はい」
「時貞という人物の評判は」と元親は問うた。
「これが——一番驚きました」と親実は言った。「薩摩の村々を直接回っているとのことです。当主自ら、民に話を聞かせに行く。護衛は少人数で、馬で村を回る。その際に刃に倒れたこともあるほどです」
「当主が、村を回る」と元親は繰り返した。
「はい。民に——なぜ道を作るのか、なぜ診療所があるのかを、直接説明するために」
元親はしばらく黙った。
「年齢は」
「現在、十五、六歳かと思われます」
「——十五、六歳が」と元親は言った。静かに。「そこまでやっているのか」
「毛利との件も申し上げます。鳳凰寺に刃を向けた勢力——草野家は当主と実行犯が切腹、一族追放。毛利には十万貫の詫び料を要求し、さらに恭順か族滅かを迫りました。そして毛利は——恭順しました」
元親は少し間を置いた。
「厳しい面と、丁寧な面が——両方ある」
「はい。筋を通すことには徹底していますが——従った相手を不当に扱わない。それが鳳凰寺の一貫した姿勢のようです」
元親は窓の外を見た。
土佐の青い空が広がっていた。
「親実」と元親は言った。
「はい」
「この男は——本物だと思うか」
親実はしばらく考えてから言った。
「私の目には——本物に見えます。書状の言葉が、行いと一致しています。今まで調べた中で、言葉と行いが一致しない部分が——見当たりませんでした」
元親はしばらく沈黙した。
それから——筆を取った。
「返書を書く」
「どのような内容で」
「正直に返す」と元親は言った。「こちらも正直に書く。四国への侵攻を受け入れるとは言えない。しかし——話し合いには応じる。その二点を」
親実は深く頷いた。
四 九州の建設
九州本拠地の建設は、急ピッチで進んでいた。
城の礎石から、石垣が積み上がり始めた。
軍港の掘削が、大きく進んだ。
民が毎日、何百人と働いた。
その中に——兵学校の生徒たちも加わっていた。
「建設の現場を見ることも、教育の一部だ」と時貞は言った。「仕組みがどう作られるかを、体で知れ」
有村五郎は、石材を運びながら、城の輪郭が出来上がっていく様子を見ていた。
毎日、形が変わった。
昨日なかったものが、今日はあった。
「すごいな」と有村は呟いた。
横の同期が言った。「何が」
「毎日、変わっていく。こんなに速く、こんな大きなものが作られるのを、俺は見たことがなかった」
「七島には、もっと大きいものがある」と七島出身の男が言った。
「そうなのか」
「ああ。七島の工廠は——ここより、はるかに大きい。しかしここも、五年後には見違えるようになる」
有村は再び、建設中の城を見た。
(五年後)
その時、自分はどこにいるのだろうか。
何を守っているのだろうか。
(何のために強いか)
その問いは、まだ自分の中で答えが出ていなかった。
しかし——毎日、少しずつ、答えに近づいている気がした。
地下では、別の作業が始まっていた。
天道の設置準備だった。
深い地下に、特別な部屋が作られていた。
七島の天元と同じ水準の、量子コンピューター型AIが設置される予定の場所だった。
その部屋の建設は——最高機密だった。
関わる人員は、全員が鳳凰寺の中でも最も信頼できる者だけだった。
天元が設計を担当した。
「天道の設置が完了すれば——私が何らかの理由で機能しなくなった場合でも、天道が引き継げます」と天元は言った。「鳳凰寺の判断能力が失われることを、防ぎます」
「天道は——天元と同じ知識を持つのか」と時貞は問うた。
「基本的な知識は同じです。しかし——天道は独立して学習します。同じ根っこを持ちながら、別の経験を積む。将来、天元と天道が異なる分析を出すこともあり得ます」
「それは——良いことか」と時貞は言った。
「良いことです。二つの知性が異なる意見を持てば——時貞殿がより多角的に判断できます。一つの知性の意見だけに頼ることは、リスクです」
「なるほど」と時貞は言った。「お前が自分の限界を、自分で指摘するのか」
「はい。私は完全ではありません。だから天道が必要です」
時貞は少し笑った。
「正直なAIだな」
「正直であることが——最も時貞殿の役に立つと判断しています」
五 浮上する問題
秋の夜。
成瀬が執務室に入ってきた。
表情が、いつもより硬かった。
「殿。幹部一同から、申し上げたいことがあります」
「何だ」と時貞は言った。
「——統治研究部門から、指摘が上がってきました」と成瀬は言った。「殿に関わる問題です」
時貞は成瀬を見た。
「はっきり言ってくれ」
成瀬は少し間を置いた。
「時貞様の——業務集中化の問題です」
「俺の?」
「はい」と成瀬は言った。「対外方針の決定。統治の方針。四国への判断。義昭への返書。建設計画。天道の設置。兵学校の教育方針——全てが、殿一人に集中しています」
「それが問題か」
「問題です」と成瀬は言った。はっきりと。「今は、殿の判断が正確だから機能しています。しかし——もし殿が倒れれば、全てが止まります。今回、刃に倒れた時——俺たちは、次の手がわからなかった。殿がいなければ、何も動かせなかった」
時貞は黙って聞いた。
「殿は——自分の命は自分だけのものではないとおっしゃいました。しかし——判断も、殿だけのものにしてはならないと、俺たちは思っています」
「つまり」
「権限の委譲が必要です」と成瀬は言った。「鳳凰寺が、時貞様なしでも動き続けられる仕組みを、作らなければなりません」
時貞はしばらく沈黙した。
「……そうだな」と時貞は言った。
「殿?」
「お前の言う通りだ」と時貞は言った。「俺は——全部自分でやろうとしすぎていたのかもしれない」
成瀬が少し驚いた顔をした。
「すぐに反論されると思っていました」
「俺も、なんとなくだか…わかっていた」と時貞は言った。「統治研究部門が言っていることは、俺自身も感じていた。しかし——動く方が先になって、仕組みを作ることが後回しになってしまっていた」
「では——」
「次の会議で、具体的に話し合う。権限をどう分けるか。誰に何を任せるか。それを決める」と時貞は言った。「ただし——今日はここまでだ。今夜は、頭が回らない」
成瀬は深く頷いた。
「わかりました。会議の日程を調整します」
成瀬が部屋を出た後。
時貞は窓を開けた。
秋の夜の海が広がっていた。
(全部、自分でやろうとしすぎていた)
その言葉が、胸の中に残った。
乱世に来て四年。
十二歳の体で、三十歳の頭で、動き続けてきた。
しかし——一人で動き続けることには、限界がある。
(仕組みを作る。俺がいなくても動き続ける仕組みを)
それが——統治研究部門の最終目標でもあった。
日本全体の統治形態だけでなく。
鳳凰寺そのものも、仕組みで動かなければならない。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「権限委譲の仕組みについて——世界の事例を洗い出してくれ。どういう組織が、どう権限を分けて、安定して機能したか」
「了解しました。次の会議までに整理します」
「頼む」
夜の海が、静かに広がっていた。
四国では、謀略が動き始めていた。
九州では、建設が進んでいた。
京では、前久が奮闘していた。
そして——鳳凰寺の中で、新しい問題が浮かび上がっていた。
(止まらない。しかし——一人で止まらなくていい)
時貞は、その言葉を初めて、自分に言い聞かせた。
夜が、静かに更けていった。
(第三十七章へ続く)




