覇道戦国休憩:鳳凰寺家年表
▪️鳳凰寺家年表▪️
転生時点の基本設定
* 転生時期:永禄三年(1560年)※桶狭間の戦いの年
* 転生時の年齢:12歳
経過時間
転生から現在まで——およそ四年
●簡易年表●
永禄三年(1560年)真田琢磨、鳳凰寺時貞として転生。12歳。乱世の現実と向き合い始める
永禄三〜四年(1560〜61年)七島の内政整備。AI「天元」との連携確立。偽造渡来銭の鋳造開始。軍備の基盤作り
永禄四年(1561年)博多沖に艦を展開。人身売買問題に着手。帝への働きかけ開始。帝の人身売買禁止の御書発布
永禄四〜五年(1561〜62年)島津、御書を無視し山川での売買を継続。「海鷹」への夜襲。荒木一助(23歳)戦死——鳳凰寺家初の戦死者
永禄五年(1562年)前半帝への三度目の参内。錦の御旗授与。天鳳作戦(島津征伐)発動。串木野の浜の戦闘。島津義久降伏・切腹。薩摩・大隅が鳳凰寺管轄下に
永禄五年(1562年)後半大友宗麟・龍造寺隆信が恭順。九州諸将が次々と恭順。毛利元就が九州侵攻を停止・静観。信長が美濃を落とし上洛準備開始。時貞に従四位下・右近衛少将の官位授与。琉球への榊原使節団出発。白石「天鷹」がアラスカ沿岸で石油・砂金発見
永禄五年末(1562年末)近衛冬姫との婚約正式発表。近衛前久との関係深化
永禄六年(1563年)春白石、アッツ島「北星拠点」建設完了。琉球・尚元王との合意書締結(台湾情報・拠点・貿易)。統治研究部門創設。鳳凰寺家の方針「帝の御下以外には誰の下にもつかない」を正式決定
永禄六年(1563年)初夏信長、足利義昭を奉じて上洛。京・妙覚寺にて時貞と信長の初会見。「鳳凰寺は帝の御下以外につかない」を明言。信長「天下布武を撤回するつもりはない」と明言。二人の間に奇妙な関係が生まれる
永禄六年(1563年)夏冬姫、七島初訪問。笹木淳子と冬姫が出会う。時貞と冬姫、七島の星を見る夜
永禄六年(1563年)秋時貞、不満を持つ国人の領内で村回り中に襲撃される。腹部を刺され重傷。乱世に来て初めて自らの手で人を殺める。笹木による手術成功。冬姫が駆けつけ、目覚めた時貞の傍に
永禄六年(1563年)秋〜冬草野家——当主と実行犯切腹・一族追放・領地没収。熊谷新兵衛をAH-64Dアパッチで毛利へ派遣。毛利に十万貫の詫び料を要求。安国寺恵瓊、毛利家中の責任を取り切腹
永禄七年(1564年)春毛利隆元が直接七島を訪問し恭順の書状を持参。鳳凰寺、初めて日本本土に領土を持つ。本土防衛ライン(第一・第二・第三)を設定。四国領土化の方針を決定——乱世に来て初めての侵略決断。九州本拠地の建設開始。兵学校創設・第一期生入校(有村五郎ら)。足利義昭から信長討伐令の書状が届く。時貞、即座に拒否の返書。義昭激怒
永禄七年(1564年)現在毛利恭順の知らせが全国に広まる。各大名が反応。三好・松永久秀が謀略を画策。長宗我部元親が時貞の視野に入る。帝の御意志が前久を通じて届く
●現在時点でのまとめ●
転生からの経過時間約四年
時貞の現在の年齢数え16歳(満15〜16歳頃)
鳳凰寺の版図七島・薩摩・大隅(直轄)、九州全域(影響下)、中国地方・毛利領(恭順下)
未解決の主要課題四国領土化・台湾接触・信長との将来・義昭包囲網・九州本拠地建設・統治形態の研究・冬姫との婚礼
四年間で——乱世の西半分が、大きく動いた。
時貞はいつの間にか?十六歳になっていた:(;゛゜'ω゜'):
本編は順次改訂していく予定てすm(_ _)m




