第三十五章 ―波紋、そして御意志―
一 毛利恭順の波紋
毛利が鳳凰寺に恭順した。
その知らせは——風のように広まった。
西国最大の勢力が、頭を下げた。
乱世の常識が、また一つ、書き換えられた。
尾張、岐阜城。
信長は報告を受けた。
書状を読んだ。
読み終えて——少し間を置いた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……時貞の動きが、俺の想定より早すぎる」
側近が黙って聞いた。
「何が急がないだ」と信長は言った。「あの嘘つきめ」
しかし——声に、怒りはなかった。
楽しげだった。
目が——輝いていた。
妙覚寺の会見で見た、あの目と同じ輝きだった。
「毛利を降した」と信長は呟いた。「刃に倒れながら、毛利を降した。九州を固めながら、毛利を降した。あいつは——いくつの手を同時に動かしているのだ」
側近が言った。「信長様は——鳳凰寺を、どうお考えですか」
信長はしばらく考えた。
「面白い」と信長は言った。
「面白い、とは」
「俺が天下を目指しているように——あいつは、俺とは別の天下を目指している。俺には見えない遠さで。それが——面白い」
「脅威では、ないのですか」
「脅威だ」と信長は即座に言った。「しかし——面白い脅威だ。そういう相手は、早々いない」
信長は立ち上がった。
「急がない、と言いながら——誰より速く動いている。どういう仕組みになっているのか、俺には読めない。しかし」
「しかし?」
「あいつが動く度に——俺も動きたくなる」と信長は言った。「それが——悔しいような、楽しいような」
側近は何も言えなかった。
信長はしばらく窓の外を見た。
「義昭が包囲網を作ろうとしている。そしてあいつは——毛利を降した。同じ時期に」
「偶然でしょうか」
「偶然なものか」と信長は言った。「あいつは全部、見えていて動いている。義昭が騒ぎ出す前に、西を固めた。俺が東に集中できるように——西の地盤を、先に押さえた」
「それは——鳳凰寺が、信長様を助けているということですか」
信長は少し黙った。
「——さあな」と信長は言った。「そう思わせておいて、実は全然別の理由かもしれない。あいつの頭の中は、俺には読めない」
信長は笑った。
声のある笑いだった。
「まあいい。俺は俺で動く。あいつはあいつで動く。その先で——どうなるかは、その時に決める」
二 秀吉の疑問
木下藤吉郎秀吉は、報告書を読んでいた。
鳳凰寺の噂は、最近よく耳にしていた。
九州を手中にした。
毛利を降した。
帝と血縁で結ばれた。
それだけではない。
「鉄の船」「空を飛ぶ鉄の化け物」「謎の知恵の源」
噂のたびに、内容が常識を超えていた。
秀吉は文書を折りたたんで、膝を叩いた。
「鳳凰寺とは——なにものなんだ?」
思わず声が出た。
側にいた部下が答えた。
「鳳凰寺七島を本拠とする勢力です。当主は鳳凰寺時貞、今年で十六歳になると伝わっています」
「十六歳!」秀吉は繰り返した。
「はい」
「その十六歳が——島津を降して、毛利を降した?」
「そのように伝わっています」
秀吉は少し考えた。
「信長様は——鳳凰寺をどう見ているんだ」
「楽しげにしておられます」
「楽しげに」と秀吉は繰り返した。「信長様が楽しげになる相手というのは——」
秀吉はしばらく宙を見た。
「いつか会いたいものだな」と秀吉は言った。「その十二歳に」
そして——もう一度、文書を広げた。
「謎の知恵の源、か」と秀吉は呟いた。「天元と呼ばれているとか。一体なんだそれは」
答える者は、誰もいなかった。
三 家康と各大名
三河、浜松城。
徳川家康は報告を受けた。
端正な顔に、珍しく動揺が出た。
「毛利が——恭順、か」
「はい」と家臣が言った。
「毛利元就殿ほどの人物が」と家康は言った。「鳳凰寺に、頭を下げた」
「はい。詫び料として十万貫を支払い、その上で恭順したとのことです」
家康はしばらく考えた。
「十万貫を支払い——その上で恭順した、とはどういうことだ」
「今回の件の経緯を申し上げますと——」
家臣が事情を話した。
時貞が刃に倒れたこと。毛利への熊谷の使者。アパッチでの乗り付け。「恭順か族滅か」の書状。
全て聞いた家康は、しばらく沈黙した。
「……鳳凰寺に刃を向けた者は、どうなった」と家康は問うた。
「草野家当主と実行犯は切腹。一族は九州から追放されました」
「刃に倒れながら——それだけの処断を下した」
「はい」
家康は目を伏せた。
「鳳凰寺は——どういう勢力なのか」と家康は呟いた。「俺には、まだ全貌が見えない」
「どう対応されますか」
「見る」と家康は言った。「しばらく、よく見る。動かない。しかし——目を離さない」
家康は窓の外を見た。
「信長様と鳳凰寺が——どう動くかを、見極める。それが先だ」
北条氏康は「西に近づくな」と息子たちに言った。
上杉謙信は「益々注視すべし」と、より鳳凰寺に関心を示した。
武田信玄は報告を受けて、しばらく何も言わなかった。そして「儂が動ける間に、決着をつけなければならないことが増えた」と呟いた。
それぞれの場所で——毛利恭順の知らせは、それぞれの波紋を作った。
四 三好の危機感
阿波、三好家。
三好長逸は報告を受けた瞬間、顔色が変わった。
「毛利が——鳳凰寺に」
「はい。恭順を示したとのことです」
三好の家臣たちが、地図を広げた。
九州——鳳凰寺の直接管轄。
中国地方——毛利、恭順下。
「地図を見ろ」と長逸は言った。「九州から中国。その次は——」
誰もが、地図の上の一点を見た。
四国。
三好の本拠地。
「来る」と長逸は言った。「鳳凰寺は、必ず四国に来る。地理が、そう言っている」
「どうされますか」と家臣が問うた。
長逸は黙っていた。
その時、松永久秀が進み出た。
久秀の目が——光っていた。
「一つ、策がございます」と久秀は言った。
「聞かせろ」
「鳳凰寺が四国に来るとすれば——口実が必要です。鳳凰寺はこれまで、必ず理由を作って動いてきました。島津の時は帝の御書への違反。毛利の時は時貞殿への刃。どちらも——向こうから仕掛けてきた」
「それが何だ」
「では——こちらから、口実を作ってやれば、どうでしょう」と久秀は言った。
「口実を、こちらから?」
「はい。乱波を使います。長宗我部の当主を——暗殺します。そしてそれを、鳳凰寺がやったことにする」
広間が静まり返った。
「鳳凰寺は当然否定します」と久秀は続けた。「しかしその否定そのものを、噂にする。鳳凰寺が長宗我部の当主を殺して、それを隠蔽するために四国に侵攻する——という噂を、四国中に流す」
「噂が事実を動かす、ということか」と長逸は言った。
「はい。鳳凰寺が四国に来た時——四国の民は既に、鳳凰寺への不信を持っています。民の抵抗が、鳳凰寺の統治を難しくします。そして我々は——鳳凰寺の悪評を旗印に、四国の国人たちを束ねられます」
長逸はしばらく考えた。
「殺すことは——長宗我部を敵に回すことでもあるぞ」
「四国を統一されるよりは、その前に潰す方が得策です」と久秀は言った。「そして——長宗我部を殺した罪は、鳳凰寺に着せる。我々には、何も残りません」
「……」
「いかがですか」と久秀は言った。
長逸は地図を見た。
四国。
鳳凰寺の影が、瀬戸内の向こうから、近づいてきていた。
「——やってみろ」と長逸はついに言った。
久秀が深く頭を下げた。
その目が——暗く光っていた。
五 義昭、激怒
七島。
時貞は義昭への返書を書いた。
足利義昭将軍様へ。
書状、確かに受け取りました。
鳳凰寺は——帝の御下にある勢力です。
将軍の命令で動く勢力ではありません。
これは、鳳凰寺家として、以前より一貫した立場です。
信長を討てとのご命令、お受けすることはできません。
これは信長への肩入れではなく——鳳凰寺の立場によるものです。
将軍様のご健勝をお祈り申し上げます。
鳳凰寺時貞。
短かった。
丁寧だった。
しかし——はっきりしていた。
成瀬が読んで、言った。
「これを——義昭殿が受け取れば」
「怒るだろうな」と時貞は言った。
「どれほどお怒りになるか…想像できませんね」と返答する成瀬。
「わかっている。しかし——曖昧な返書を出す方が、後で問題が大きくなる。最初から、はっきり伝えたほうが良い」
京。
足利義昭は、返書を受け取った。
読んだ。
顔が赤くなって震えていた。
「——なんだと」
声が、裏返った。
「鳳凰寺は帝の御下にある。将軍の命令で動く勢力ではない、だと」
傍の家臣が縮こまった。
「私は征夷大将軍だぞ」と義昭は言った。「武家の棟梁だぞ。なぜ私の言うことを聞かない」
「は、はあ」
「帝の御下だと? 将軍は帝から任命されるのだ。帝の御下にあるならば、将軍の命令にも従うのが筋というものではないか」
家臣は何も言えなかった。
「無礼極まりない。島国の田舎者が。海の向こうから何が偉そうに」
義昭は返書を机に叩きつけた。
「信長の次は——必ず鳳凰寺を討伐してくれようぞ。見ておれ。必ずだ」
家臣たちは、黙って俯いていた。
後に義昭の怒りを聞かされた前久は、ため息をついた。
義昭という人物を、前久はよく知っていた。
もとは仏門にあった人だった。
武家の教育は、ほとんど受けていなかった。
信長に担ぎ出されて将軍になった。
将軍になった途端、周囲が頭を下げるようになった。
それが——義昭を変えた。
自分には力がある。偉い。言うことを聞かせることができる。
そう思い込んだ。
しかし——それは信長の力と、将軍という肩書きが作り出した幻だった。
(義昭殿は——将軍の肩書きを、自分の力だと思っている)
前久は静かに、そう感じていた。
(しかし肩書きは、力を持った者が与えてくれた。その者が背を向ければ——肩書きは残るが、力はなくなる)
(その時、義昭殿はどうするのか)
前久には、もう見えていた。
六 前久の安堵と複雑な信長
前久は時貞への書状を書いた。
時貞殿へ。
返書の内容、聞いた。
義昭殿は大激怒だ。
しかし——あの返書は、正しかったと思う。
曖昧な答えを出していれば、後で鳳凰寺が信長討伐に引き込まれる口実を与えかねなかった。
最初から立場をはっきりさせたことで——鳳凰寺の位置が、明確になった。
俺は安堵している。
信長殿に返書の内容を伝えたところ、しばらく黙っていた。
それから——『そうか』とだけ言った。
複雑な顔をしていた。
何が複雑なのかは、俺にもわからない。
しかし悪い顔ではなかった。
帝の御意志について、伝えることがある。
長くなるので、次の書状に分けて書く。
近衛前久より。
時貞は書状を読んだ。
「信長が——複雑な顔をした、か」
「どういう意味でしょう」と成瀬が言った。
「鳳凰寺が信長討伐に動かないことが確定した。それは信長にとっては、西からの脅威が一つ消えたことを意味する。しかし同時に——鳳凰寺が信長の味方でもないことも、明確になった」
「複雑ですね、確かに」
「信長は——鳳凰寺を、どう扱えばいいか迷っているのかもしれない」と時貞は言った。「敵でも味方でもない。しかし、無視できない。そういう存在は——扱いが難しい」
七 帝の御意志
翌日、前久からの続きの書状が届いた。
時貞殿へ。
帝の御意志を、お伝えする。
帝は——今の乱世について、こうお考えだ。
大名たちが力で争う乱世を、帝は深く憂慮されている。
しかしそれ以上に——帝が恐れているのは、誰かが天下を統一した後のことだ。
力で統一すれば——その力が衰えた時、また乱れる。
それがこれまでの歴史だった。
帝は——力ではなく、なにかうまい仕組みで安定させられるような世を…求めておられる。
帝の言葉を、そのままお伝えする。
『時貞は、朕が見てきたどの者たちとも違う動き方をしている。
力を持ちながら、力だけでは動かない。
筋道を作りながら動く。
時貞が目指している先が——朕の望む世に近いかどうか、まだわからない。
しかし——時貞を、信じてみようと思っている』
以上が、帝の御言葉だ。
時貞殿。
帝は——お前を待っている。
答えを出すのに急がなくていい。
しかし——いつか、帝に直接話してくれ。
お前が目指す世界を。
近衛前久より。
時貞は書状を読んで、しばらく動かなかった。
成瀬が横で待った。
幹部たちも、黙っていた。
「——帝は」と時貞はようやく言った。「俺が目指している先を、聞きたいとおっしゃっている」
「はい」と成瀬は言った。
「仕組みで安定させられる世を、求めておられる」
「はい」頷く成瀬。
時貞は目を閉じた。
統治研究部門が研究していること。
浜村が分析していること。
天元が世界の事例を洗い出していること。
——帝は、既にそこに向かっていた。
時貞が百年かけて作ろうとしているものを、帝は求めていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「帝への奏上を——いつか、必ずする。その準備を、統治研究部門と一緒に進めてくれ。帝に、俺が目指す世界を、言葉で伝えられるように」
「了解しました」と天元は言った。「それは——鳳凰寺が乱世に来て以来、最も重要な準備の一つになります」
「そうだ」と時貞は言った。
八 長宗我部元親
その夜、天元が四国攻略の分析報告を出した。
「長宗我部元親について、報告します」と天元は言った。
「聞かせてくれ」
「長宗我部元親。現在二十八歳。土佐の一領具足を率いて、四国統一を目指しています。父の代まで、土佐の一部しか持たない小勢力でした。しかし元親は——短期間で土佐を統一し、今は阿波、伊予へと版図を広げています」
「人物は」
「智略と武勇を兼ね備えた人物です。民への配慮もある。領内の統治を丁寧に行っています。そして——長宗我部家は、鳳凰寺に対して、今のところ敵意を持っていません」
「敵意がない?」と時貞は言った。
「はい。元親は——現時点では、鳳凰寺を遠い存在として認識しています。警戒はしていますが、敵対を選ぶ理由がない。四国統一が先だと考えています」
「つまり——話し合いの余地がある」と?
「あります。ただし…」と天元は言った。「三好が動けば、状況が変わります。三好が元親を敵に回るようにすれば——長宗我部は鳳凰寺への態度を変えざるを得ない状況になる可能性があります」
「三好が——何かしようとしている?」と時貞は言った。
「可能性があります。三好は毛利恭順の知らせを受けて、危機感を持っているはずです。何らかの先手を打ってくる可能性を、注意すべきです」
「風間」と時貞は呼んだ。
「はい」と風間が答えた。
「四国の諜報を強化してくれ。特に——三好の動きを注意深く見る。そして長宗我部の動きも」
「了解しました」
「長宗我部元親に——俺は会いたい」と時貞は言った。
参謀室が少し動いた。
「直接会う前に、使者を出す。俺たちの意図を、正直に伝える書状を持たせる。四国への意図についても——隠さず伝える」
「それは——元親殿を驚かせませんか」と木島が言った。
「驚かせるだろう」と時貞は言った。「しかし——隠して動いた後で伝えるより、先に伝える方が誠実だ。正直に話せる相手かどうか——それを確かめる意味でも、先に話す」
「御意」
時貞は地図を見た。
四国。
瀬戸内の向こうに広がる島。
長宗我部元親という男が、そこにいた。
(会ってみたい)
時貞は思った。
乱世で、自分と似た動き方をしているかもしれない人物。
智略と民への配慮を持つ男。
その男と——どんな話ができるか。
夜の七島の海が、静かに光っていた。
四国への道が——少しずつ、見え始めていた。
(第三十六章へ続く)




