第三十四章 ―版図、そして侵略の決断―
一 毛利隆元、来る
永禄七年、春深まる頃。
七島の港に、毛利の船が入った。
今度は——荷ではなかった。
一人の男が乗っていた。
毛利元就の嫡男。
毛利家当主、毛利隆元。
成瀬が桟橋で受け取った時、少し驚いた。
「隆元殿が——直接」
隆元は四十台前半の、落ち着いた顔をした男だった。
隆景とは違う種類の目をしていた。
鋭さよりも——誠実さが先に来る目だった。
「毛利隆元と申します」と隆元は言った。「鳳凰寺時貞様に——直接お目にかかりたい」
執務室。
隆元と時貞が向き合った。
隆元は書状を取り出した。
両手で、丁寧に差し出した。
「父・元就より。そして——毛利家当主として、俺自身の書状も、合わせてお持ちしました」
時貞は受け取った。
二通あった。
元就の書状を先に開いた。
鳳凰寺時貞殿へ。
毛利は——鳳凰寺に恭順いたします。
今回の件は、全て我らの不徳の致すところでございます。
改めて、時貞殿のご回復を、心よりお慶び申し上げます。
毛利元就。
短かった。
元就らしかった。
余計な言葉がなかった。
次に隆元の書状を開いた。
こちらは長かった。
丁寧な言葉で、毛利家の立場と、恭順の意志と、これからの誓約が書かれていた。
時貞は全て読んだ。
机に置いた。
「隆元殿」と時貞は言った。
「はい」と隆元は答えた。
「恭順の書状、受け取りました」
「ありがとうございます」
「一つ聞いてよいですか」と時貞は言った。
「何なりと」
「隆元殿は——今回の件を、どうお考えですか。当主として」
隆元は少し間を置いた。
「恥ずかしい話ですが——自分には、恵瓊が動いていることを止められませんでした。当主として、俺の責任です」
「元就殿ではなく、隆元殿の言葉を聞いています」
隆元は時貞をまっすぐ見た。
「——怒っています」と隆元は言った。正直に。「時貞殿が刃に倒れたこと。恵瓊がああいう動きをしたこと。そして——毛利がその責任を取るために、恵瓊を死なせなければならなかったこと。全てが——毛利家当主として悔しい」
「そうですか…」と答える時貞。
「はい。しかし」と隆元は続けた。「悔しさで動けば、毛利は滅びます。父は——それを正確に計算した。俺も——同じ計算をしました。その上で鳳凰寺に毛利の誠意を見せるために…だから、ここに来ました」
時貞は隆元を見た。
(正直な男だ。隆景とは違う種類の正直さだ)
「わかりました」と時貞は言った。
二 毛利との関係を定める
時貞は成瀬を呼んだ。
幹部たちが集まった。
隆元の前で、時貞は毛利との関係を定めた。
「毛利家の扱いについて、俺の方針を伝えます」と時貞は言った。
隆元が聞いた。
「毛利が鳳凰寺の方針に従う限り——毛利を不当に扱うことはしません。これは約束します」
隆元の肩が、わずかに下がった。
「毛利の統治は——基本、そのままです。毛利が長年培ってきた西国の統治を、俺たちが無理に変える必要はない」
「ありがとうございます」
「しかし」と時貞は続けた。
「はい」
「鳳凰寺から、監督責任を持つ者を一名と補佐をする部下を数名派遣します。毛利の政に干渉するためではありません。連絡と調整のためです。そして——鳳凰寺が各地で導入している制度を、毛利領にも順次入れていきます。学舎、診療所、道路整備——それらを、毛利が自分で行えるよう支援します」
「費用は」と隆元が問うた。
「技術と人員は鳳凰寺が出します。実施は毛利が行う。費用の分担については、個別に話し合いましょう」
隆元は頷いた。
「承知しました。毛利家として、受け入れます」
会見が終わった後、隆元は帰路についた。
桟橋で、時貞は隆元を見送った。
隆元が船に乗る直前、振り返った。
「時貞殿」と隆元は言った。
「はい」
「——本当に、十六歳ですか」
時貞は少し笑った。
「よく聞かれます」
「俺も——隆景と同じことを感じました」と隆元は言った。「しかし隆景が感じた怖さとは、少し違う。俺が感じたのは——重さでした。この方は、とてつもなく重いものを背負っているという感じです」
時貞は何も言わなかった。
「無礼を言いました」と隆元は言った。「しかし——毛利は、鳳凰寺の方針を守ります。毛利家当主の名において、誓います」
「ありがとうございます」と時貞は言った。「その言葉を、信じます」
隆元は深く頭を下げた。
船が、港を出た。
三 本土の版図
幹部会議。
「毛利の恭順により——鳳凰寺は初めて、日本本土に領土を持つことになった」と時貞は言った。
「はい」と成瀬が言った。「九州の管轄地域と、毛利領。これで本土に確固たる版図ができました」
「本土での領土の境を、改めて明確にする」と時貞は言った。
天元が地図を示した。
「現在の鳳凰寺の本土版図を申し上げます。九州は鳳凰寺の直接管轄。毛利領は恭順下に置かれ、中国地方を中心に掌握しました。これにより——西日本の大部分が、鳳凰寺の影響下に入ります」
「境界線を定める」と時貞は言った。「本土でのそれ以上の領土拡大は——基本、しない」
「基本、というのは?」と木島が問うた。
「例外がないとは言えない、例えば敵対勢力からの鳳凰寺領土内に侵略行為があった場合がそれに当たる」と時貞は言った。「しかし方針として——本土での拡大を積極的に進めることはしない。今持っている領土を固め、民を豊かにすることを優先する」
「理由は」
「広げすぎれば、管理できなくなる」と時貞は言った。「今でも九州の統治に課題がある。それを解決しないうちに、更に広げれば——全体が崩れる」
浜村が頷いた。「統治研究部門の分析とも一致します」
「そして——防衛ラインを作る」と時貞は続けた。
天元が地図に線を引いた。
「第一防衛ライン——九州の北岸。玄界灘を挟んだ海上防衛ライン。海軍が担当します」
「第二防衛ライン——毛利領と他の勢力の境界。中国地方の山陽・山陰の境界部分。陸軍と海軍が協力して担当します」
「第三防衛ライン——四国に面した瀬戸内海。これは——」
天元が少し間を置いた。
「これは、現時点では弱い。四国が不確定であるため、第三ラインが機能していません」
「そうだ」と時貞は言った。
四 四国の問題
時貞は地図を見た。
四国。
長宗我部。河野。西園寺。
複数の勢力が入り乱れる島だった。
「天元。四国の戦略的意義を説明してくれ」
「はい」と天元は言った。「四国は——鳳凰寺の本土版図にとって、最大の死角です。九州と毛利領の間に位置し、瀬戸内海に面しています。四国が敵対勢力の手に渡れば——鳳凰寺の海上交通路が脅かされます。また、本土防衛の観点からも、四国は必ず押さえなければならない地点です」
「具体的には」と倉橋が問うた。
「九州から毛利領への補給路、兵員移動路——全てが瀬戸内海を通ります。その瀬戸内海の南岸が四国です。四国を押さえていない状態は、街道の横に敵が陣取っているようなものです」
成瀬が地図を見た。
「……確かに。四国を放置すれば、九州と中国地方の繋がりが、常に脅威にさらされます」
「長宗我部が四国統一を目指して動いています」と天元は続けた。「長宗我部が四国を統一した場合——その後、どちらを向くかが問題です。鳳凰寺に友好的であれば問題ない。しかし敵対すれば——瀬戸内の制海権が揺らぎます」
「不確定要素を放置できない」と時貞は言った。
参謀室が静かになった。
時貞は地図を見た。
長い沈黙があった。
「俺は——今まで、自分から誰かの領土を取りに行ったことはなかった」と時貞は言った。
全員が聞いた。
「島津は俺たちに刃を向けてきた。だから討った。毛利は恭順した。だから受け入れた。全て——向こうが動いた結果だった」
「はい」と成瀬は言った。
「しかし四国は——俺たちに何もしていない」と時貞は言った。「長宗我部も、河野も、俺たちの敵ではない」
「しかし」と浜村は言った。
「しかし——放置すれば、将来の脅威になり得る」と時貞は続けた。「地政学的に見ても、そう告げている。天元が、そう分析している。そして——俺自身も、そう判断している」
時貞は地図から目を上げた。
「四国を——領土化する」と時貞は言った。
参謀室に、静寂が落ちた。
「これは——乱世に来て、初めて鳳凰寺家が自らの意志で仕掛ける侵略だ」
誰も、何も言わなかった。
「綺麗事は言わない」と時貞は言った。「相手が何もしていないのに、俺たちの都合で動く。それは侵略だ。その言葉から、逃げない」
成瀬が言った。「殿は——それを、どう考えておられますか」
「胸が痛い」と時貞は正直に言った。「しかし——しなければならない。俺が守りたい者たちを守るために、四国が必要だ。その判断に、嘘はない」
「……御意にございます」と成瀬は言った。
「ただし——やり方を選ぶ」と時貞は言った。「できる限り、血を流さずに。話し合えるなら話し合う。条件を提示して、受け入れてもらえるなら、それが最善だ。しかし——受け入れてもらえなければ、力を使う」
「長宗我部への使者を、先に出しますか」と木島が問うた。
「そうだ」と時貞は言った。「先に話す。俺たちの意図を正直に伝える。隠さずに。そして——選択肢を示す」
「毛利と同じ形ですね」と浜村が言った。
「そうだ。ただし毛利とは違う」と時貞は言った。「毛利は俺を刃に倒した後だった。長宗我部には——そういう経緯がない。だから、丁寧対応する」
「いつ動きますか」と成瀬が問うた。
「九州の基盤が、もう少し固まってから」と時貞は言った。「今すぐではない。しかし——準備は今から始める。四国の地理、長宗我部の人物、河野の状況——全て調べる」
「了解しました」と天元は言った。「分析を開始します」
五 兵学校の訓練
初夏。
兵学校の訓練が始まった。
有村五郎は、最初の訓練で——驚いた。
今まで自分が経験してきた武芸の稽古とは、全く違った。
体力訓練。射撃訓練。地図の読み方。
そして——最も時間をかけて学ぶのが、「状況判断」だった。
「この状況で、お前はどう動くか。なぜそう動くか」
教官が問う。
生徒が答える。
答えが正しいだけでは不十分だった。
なぜそう判断したかを、言葉で説明できなければならなかった。
「剣の強さだけでは将校にはなれない」と教官は言った。「判断を言葉にできる者が——人を動かせる」
有村は、その言葉を手帳に書き留めた。
訓練の合間、有村は同期の七島出身の山下という男と話した。
「七島では——子供の頃から、こういう教育を受けるのか」と有村は問うた。
「まあ、そうだな」と山下は答えた。「学舎で習って、それから兵学校を目指す者は、さらに学ぶ」
「なぜそこまで——学ぶのか」
「時貞様が言っていただろう。なぜ戦うかを学ぶ、って」と山下は言った。「七島では、子供の頃からそれを聞かされている。俺たちは戦いたいわけじゃない。守りたいものがあるから、戦い方を学ぶ、って」
有村は少し考えた。
「薩摩では——強くなることが、それ自体の目的だった」
「それは悪くない」と山下は言った。「強さは必要だ。しかし——何のために強いか、がないと、強さが暴走する」
有村はその言葉を、しばらく胸の中に置いた。
(何のために強いか)
兄の足を撃った者を、有村は憎んでいた。
しかし——その兄の足を手当てした者も、同じ鳳凰寺だった。
(何のために強いか)
その答えが——自分の中に、まだなかった。
しかし、探している。
それが、ここに来た理由だと、有村は思っていた。
ある日の訓練後、時貞が兵学校に顔を出した。
生徒たちが整列した。
時貞は列を歩きながら、一人一人の顔を見た。
有村の前で、少し足が止まった。
「有村」と時貞は言った。
「はい」と有村は答えた。
「訓練はどうだ」
「——思っていたものと、違います」と有村は言った。正直に。
「何が違う」
「体を鍛えるより、頭を使う時間の方が長い」
「そうだな」と時貞は言った。「それが狙いだ。お前たちに育ってほしいのは——武将ではなく、将校だ。違いがわかるか」
「……わかりません」と有村は正直に言った。
「武将は——自分の力で戦場を動かす。将校は——仕組みで戦場を動かす。一人の力には限りがある。しかし仕組みには、限りがない」
有村は聞いた。
「お前が百人の力を持っても、百人しか動かせない。しかしお前が百人を動かせる仕組みを作れば——その仕組みを使う者が、さらに百人を動かせる。そしてお前がいなくなっても、仕組みは残る」
「……」
「だから頭を使う訓練をする」と時貞は言った。「わかったか」
「——はい」と有村は言った。
完全にはわかっていなかった。
しかし——わかりたいと思った。
時貞はその目を見て、わずかに頷いた。
六 冬姫の手紙
七島に戻った夜、時貞は冬姫からの手紙を読んだ。
時貞様へ。
笹木先生と一緒に、新しい試みを始めました。
京の公家の屋敷に、女子のための学びの場を作りました。
最初は三名でした。
近衛家に縁のある方々のお子様で、十歳から十四歳の女子たちです。
読み書きはできます。しかしそれ以外は——何も学んでいませんでした。
わたくしが教えているのは、笹木先生から習ったことです。
なぜ病になるか。なぜ薬が効くか。なぜ季節が変わるか。
世の中がどういう仕組みで動いているか。
最初は戸惑っていました。
しかし二ヶ月が経った今——彼女たちの目が、変わってきました。
知ることが楽しいという目に、なってきました。
兄は最初、難しい顔をしていました。
しかし先日、こっそり覗いていたのを見ました。
難しい顔のまま、でも——帰る気配がありませんでした。
笹木先生には、文で続きを教えていただいています。
先生はいつも簡潔で、的確で、私みたいに余計なことは言わないようにと書いてくださいます。
少し笑いました。
時貞様のお体の具合は、いかがですか。
もう完全に、戻りましたか。
わたくしは元気です。
七島の星を、また見たいと思っています。
冬姫より。
時貞は手紙を二度読んだ。
「三名から始めた、か」
成瀬が横で言った。「少ないように聞こえますが——始まりというのは、いつもそういうものです」
「そうだな」と時貞は言った。
「冬姫様は——動く方ですね」
「ああっ」と時貞は言った。「前久殿と同じ血だ。言葉より先に動く…」
時貞は筆を取った。
冬姫殿へ。
三名から始めたのですね。
三名が三十名になり、三百名になる。
始めることが、全ての始まりです。
笹木先生との文のやり取りも、続けてください。
先生は——俺が今まで会った中で、最も頼りになる方です。
その先生から学べることを、大切にしてください。
体は、完全に戻りました。
笹木先生には、まだ油断するなと言われていますが。
七島の星を——また一緒に見ましょう。
今度は、もう少し長く、七島にいてもらえますか。
話したいことが、増えました。
時貞より。
封じた。
成瀬に渡した。
成瀬は何も言わなかった。
しかし——目が笑っていた。
「余計なことを言うな」と時貞は言った。
「何も言っていません」と成瀬は言った。
七 義昭からの書状
その夜遅く…
鳳凰寺七島に、予期せぬ書状が届いた。
差出人を見た風間が、すぐに時貞を呼んだ。
「殿。足利義昭将軍より、書状が届きました」
時貞は受け取った。
開いた。
読んだ。
読み終えた時貞の顔が、しばらく動かなかった。
成瀬が横から言った。
「内容は」
「信長討伐令だ」と時貞は言った。
参謀室が静まり返った。
「将軍義昭が——鳳凰寺に、信長を討てと言ってきた」
「……」
「各地の大名に同じ書状を送っているはずだ」と時貞は言った。「武田。朝倉。浅井。本願寺。そして——鳳凰寺にも来た」
「どうされますか」と成瀬が問うた。
時貞は書状を机に置いた。
しばらく、沈黙した。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「前久殿に連絡を取れるか。今夜中に」
「はい。可能です」
「この書状のことを伝える。そして——帝が今、どういうお気持ちでいるかを、確認してくれ」
「了解しました」
時貞は立ち上がった。
窓を開けた。
初夏の夜の海が広がっていた。
「信長討伐令に——応じるのですか」と木島が問うた。
「応じない」と時貞は即座に言った。
「では、無視を」
「無視もしない」と時貞は言った。「返書を書く。義昭に、鳳凰寺の立場を伝える」
「どういう立場ですか」
時貞は少し間を置いた。
「鳳凰寺は——帝の御下にある。将軍の命令で動く勢力ではない。それを、はっきりと伝える」
「将軍義昭様は——怒るでしょうね」と浜村が言った。
「怒るだろうな」と時貞は言った。「しかし——これは、最初から決まっていた答えだ。鳳凰寺は帝の御下以外には誰の下にもつかない。信長との会見でも、明言した。義昭への返書も、同じ立場から書く」
成瀬が言った。「信長は——この件を、どう動くでしょうか」
「前久殿から確認する」と時貞は言った。「そして——帝が何を望まれているかを、まず知りたい。全ての判断は、そこから始まる」
時貞は夜の海を見た。
義昭が動いた。
信長との亀裂が、ついに表面化した。
前久が懸念していたことが——現実になりつつあった。
(急がない)
時貞は自分に言い聞かせた。
(しかし——止まらない)
夜の海が、静かに広がっていた。
その向こうに——乱世の大きな波が、動き始めていた。
(第三十五章へ続く)




