第二十九章 ―倒れた鳳凰―
一 村回りの日
永禄六年、秋深まる頃。
時貞は不満を持つ国人の領内に入っていた。
肥後の北、菊池郡の外れにある小さな村だった。
国人の名は、草野某。
鳳凰寺に恭順を示しながら——その実、安国寺恵瓊と何度か接触していた人物だ。
風間からの報告で、その名が挙がっていた。
「殿」と成瀬が言った。「この村は——草野家の影響が強い地域です。念のため、護衛を増やした方が」
「今まで通りでいい」と時貞は言った。「護衛を増やせば、民が警戒する。話を聞いてもらえなくなる」
「しかし——」
「成瀬」と時貞は静かに言った。「俺が護衛を増やして村に入れば——民は俺を怖いと思う。怖い相手の話は、心に残らない。今まで通りでいく」
成瀬は押し黙った。
護衛は四名。成瀬を含めて五名の供だった。
村に入ると、いつもと同じ反応があった。
最初は遠巻きに見ている子供たち。
それから、少しずつ集まってくる大人たち。
時貞は広場で話した。
なぜ道ができたか。なぜ診療所があるか。
村の老婆が言った。
「鳳凰寺様が来るとは思わんかった。草野様は——鳳凰寺様のことを、あまりよく言わんで」
「どういうことを言っていますか」と時貞は問うた。
「力があるうちは笑っとるが、いずれ本性を出すって。気をつけろって」
時貞は老婆の目を見た。
「あなたは——そう思いますか」
老婆はしばらく考えてから言った。
「道ができた。診療所の先生が来た。うちの孫が診てもらえた。それは本物だ。本性を出す者が——そういうことをするかねえ」
時貞は深く頷いた。
「俺は——本性を出す者ではないつもりです。しかし、それはあなたたちが見て、判断してください。俺の言葉より、俺の行いで」
老婆がほほ笑んだ。
「正直な御方…だね」
話が終わり、村を出ようとした時だった。
二 刃
山道に差し掛かった瞬間。
左手の茂みが、揺れた。
時貞の体が——反射的に動いた。
護衛が叫ぶより早く。
成瀬が剣に手をかけるより早く。
茂みから男が飛び出した。
刃を持っていた。
時貞に向かって——まっすぐに。
時貞は腰の短刀を抜いた。
考えていなかった。
体が動いた。
男の刃を払って——そのまま、反撃した。
短刀が——男の脇腹に入った。
男が——声を上げて、倒れた。
時貞の手に、感触があった。
温かい、重い感触だった。
(俺は今——)
その一瞬の空白を、別の男が突いた。
左側から。気配を感じた時には——遅かった。
腹部に、鋭い痛みが走った。
刃だった。
時貞の腹部に、刃が突き立てられていた。
「殿っ」
成瀬の叫び声が遠くで聞こえた。
時貞は膝をついた。
体が言うことを聞かない。
視界が——ぼやけた。
周囲で激しい音がした。
護衛たちの声。金属の音。男たちの叫び。
時貞はそれを、遠い場所で聞いていた。
地面に手をついた。
腹部の痛みが、熱く広がっていた。
(熱い)
それだけが、はっきりとわかった。
どのくらい経ったか。
「殿っ。殿、聞こえますか」
成瀬の声が近くにあった。
時貞は目を開けた。
成瀬の顔があった。
血が出ていた。成瀬の顔に、傷があった。
「成瀬——お前も」
「俺は大丈夫です。殿は——動かないでください。腹部を押さえてください」
成瀬が時貞の腹部に手を当てた。
布を押しつけた。
熱い痛みが広がった。
「護衛は」と時貞は言った。声が、かすれていた。
「全員生きています。しかし——二名が怪我をしています。今すぐここを離れます」
「……わかった」
護衛二名が時貞を担いだ。
痛みが全身に走った。
しかし時貞は声を上げなかった。
歯を食いしばった。
移動しながら、時貞の意識は揺れていた。
揺れながら——一つのことが頭に浮かんでいた。
(あの男は——死んだか)
短刀が脇腹に入った感触。
温かい血の感触。
倒れた男の顔。
(俺が——人を殺した)
この乱世に来て、俺は一度も、自分の手で人を傷つけたことがなかった。
命令して、兵が戦った。
策を立てて、敵が倒れた。
しかし——自分の手で。
(俺は今日、人を殺した)
痛みより、その事実の方が——体に重かった。
担がれながら揺れる視界の中に、あの男の顔があった。
誰の命令で動いたのか。
草野家か。安国寺恵瓊か。毛利か。
——それとも、ただの——
わからなかった。
(わからないまま、俺はあの男を殺した)
意識が揺れた。
揺れながら——別のことが浮かんだ。
(冬姫)
今頃、どこにいるか。
七島に帰ったはずだ。
京に——いや、まだ七島か。
出発の朝、冬姫は言っていた。
「また来ます」と。
「必ず来てください」と俺は言った。
(その約束を——果たせるか)
意識が、さらに遠くなった。
(俺はここで死ぬのか)
この乱世で、まだやることがある。
北の拠点。台湾。信長との問題。統治の研究。
何より——日本を、強くすること。
南蛮の波に飲み込まれないように。
それが全部——まだ終わっていない。
(まだ、終わっていない)
冬姫の顔が浮かんだ。
星を一緒に見た夜。
「もっと教えてください」と言った目。
成瀬の顔が浮かんだ。
道雪の顔が。白石の顔が。
荒木一助の——あの夜の顔が。
(俺は——皆を置いていくのか)
「殿。殿、しっかりしてください」
成瀬の声が聞こえた。
遠い。
とても遠い。
(急がない。しかし——止まらない)
自分の言葉が、頭の中で響いた。
(止まるな。まだ)
そう思った瞬間——意識が、完全に落ちた。
三 笹木の手術
七島の診療所。
報せが届いた時、笹木淳子はすぐに動いた。
「運んできてください。今すぐ」
到着した時貞の状態を見た瞬間、笹木の顔から表情が消えた。
医師の顔になった。
「腹部の刺傷。深さは——二寸以上。出血量が多い。内臓に達している可能性があります」
「助かりますか」と成瀬が言った。
「黙っていてください」と笹木は言った。怒りではなく、集中の声だった。「邪魔になります。廊下で待ってください」
手術は四刻続いた。
廊下で成瀬が待った。
怪我をした護衛二名も、手当てを受けながら待った。
成瀬の顔の傷は、補助の医療員が縫合した。
成瀬はそれを、ほとんど感じていなかった。
ただ——扉の向こうを、見ていた。
幹部たちが、次々と集まってきた。
木島。倉橋。浜村。朝比奈。
全員が、無言で廊下に立った。
誰も、何も言わなかった。
「天元」と浜村が小声で呼んだ。
「はい」と天元が静かに答えた。
「時貞殿は——」
「笹木先生の技術は、この時代で最高水準です」と天元は言った。「私にできることは、笹木先生を信じることだけです」
「……わかった」
天元も——それ以上は言わなかった。
扉が開いたのは、夜になってからだった。
笹木が出てきた。
血のついた白い衣のままだった。
「命に別状はありません」
廊下に、深い息が広がった。
成瀬が目を閉じた。
「内臓への損傷は——一部ありましたが、処置できました。しばらくは安静が必要です。熱が出ています。しかし——生きています」
「……ありがとうございます」と成瀬はようやく言った。
「礼を言うのは——殿が目を覚ましてからにしてください」と笹木は言った。そして——少しだけ、声が揺れた。「時貞様は……頑丈な方ですね」
四 知らせ
その夜、七島中に知らせが広まった。
時貞が倒れた。
刃で傷を負った。
命は——つながった。しかし、意識はまだ戻っていない。
風間が報告に来た。
「殺意を持って動いたのは——草野家の家臣三名と、流れ者二名でした。草野自身が命じたかどうかは——まだ確認中です」
「安国寺恵瓊との繋がりは」と成瀬が問うた。
「流れ者の一名が——恵瓊と接触していた可能性があります。確認しています」
「草野は」
「鳳凰寺家への説明を——検討しているとの情報が入っています。事態が予想外に大きくなったことで、震え上がっているようです」
成瀬は静かに言った。
「草野の処分は——殿が目を覚ましてから決める。それまでは、監視だけ続けてくれ」
「はい」
「安国寺恵瓊については」
「既に九州を離れた模様です。殿が倒れたとの報が広まった時点で、素早く動きました」
「——さすがに速い」と成瀬は言った。
「毛利の犬は、足が速い」と風間は言った。
五 冬姫
知らせが京に届いたのは、三日後だった。
前久が、走者を出した。
「——七島へ行います」と冬姫は言った。
前久は妹の顔を見た。
顔色が白かった。しかし——声は、震えていなかった。
「冬姫」と前久は言った。
「兄上」と冬姫は言った。「行きます」
「——わかった」と前久は言った。「俺も行きたいが——今の京を離れるわけにはいかない。代わりに行ってくれ」
「はい」
「冬姫」
「はい」
前久は少し間を置いた。
「——時貞は死なない。あいつは、そう簡単に死ぬ男ではない」
冬姫は兄を見た。
「兄上も——そう思いたいのですね」
前久は少し黙った。
「……そうだ」と前久は言った。
冬姫は深く頷いた。
翌朝、冬姫は船に乗った。
七島に着いた時、冬姫は診療所に真っすぐ向かった。
笹木が迎えた。
「冬姫様」
「時貞様は」と冬姫は言った。
「命に別状はありません。しかし——まだ目を覚ましていません」
「会えますか」
笹木は少し考えてから、頷いた。
「静かに、お願いします」
部屋に入った。
時貞が横たわっていた。
白い布が腹部に巻かれていた。
顔が——少し青白かった。
目が閉じていた。
いつも張り詰めたような目が——今は閉じていた。
冬姫は、床に静かに座った。
時貞の顔を見た。
しばらく、何も言わなかった。
笹木が部屋の外から言った。
「当分、目を覚ます気配がありません。熱はまだあります。しかし——容態は安定しています。時貞様の命に別状はありません」
冬姫は頷いた。
「ここにいてもよいですか」
「はい」と笹木は言った。
冬姫は一人、時貞の傍に座っていた。
何も言わなかった。
ただ——時貞の顔を見ていた。
時貞の胸が、静かに上下しているのを、目で確認した。
生きている。
それだけで——今は十分だと、思おうとした。
しかし思えなかった。
星を見た夜のことを思った。
「早く来てほしいと思っています」と書いてくれた手紙のことを。
「また会おう」と言ってくれた言葉を。
(時貞様)
冬姫は心の中で呼んだ。
(目を覚ましてください)
言葉は声にならなかった。
ただ——祈った。
十七歳の少女が、乱世の当主の傍に座って、静かに祈った。
夜が来た。
冬姫は動かなかった。
笹木が様子を見に来た。
「冬姫様。今夜は休んでください。私が交代します」
「いいえ」と冬姫は静かに言った。「もう少し、ここにいます」
笹木は冬姫の顔を見た。
「——わかりました」と笹木は言った。「何かあれば、すぐに呼んでください」
冬姫は頷いた。
六 廊下の幹部たち
夜の廊下。
成瀬が壁に背中を預けて座っていた。
木島が隣に座った。
「成瀬殿」と木島は言った。
「何だ」
「責任を感じているのですか」
成瀬は少し間を置いてから言った。「当然だ。俺が護衛を増やすべきだった。殿が断っても——押し切るべきだった」
「殿が断ったなら——押し切れますか」と木島は言った。
成瀬は答えなかった。
「殿は——急がない、焦らない、止まらない、という方です。民と直接向き合うために、護衛を減らすことを選んだ。その判断を、俺たちが止めることはできない」
「それが——悔しい」と成瀬は言った。
木島は少し考えてから言った。
「殿が目を覚ましたら——俺たちの話を聞いてもらいましょう。今後の村回りの護衛の体制を、殿と一緒に決める。今夜はそれだけを考えましょう」
成瀬はしばらく黙っていた。
「——そうだな」とようやく言った。
廊下の奥で、浜村が一人、天元に話しかけていた。
「天元。殿が目を覚ましたら——最初に何を言うと思うか」
天元は少し間を置いた。
「『誰が死んだか』と聞くと思います」
浜村は少し顔を歪めた。
「——そうだな。殿はそういう方だ」
「護衛の誰かが死んでいたなら——殿は、それをずっと抱えるでしょう」
「護衛は全員生きている」
「はい。それは——時貞殿に、早く伝えなければならないことです」
浜村は頷いた。
「目を覚ましたら、すぐに言う」
「はい」と天元は言った。「それと——殿は、自分の手で人を殺めたことを、抱えています。意識の中で。それは——命が助かっても、すぐには消えないものです」
浜村は静かに聞いた。
「どうしてやればいい」
「わかりません」と天元は言った。「私には——そういうことの答えが、ありません。しかし、傍にいることが、何かの助けになると思います」
廊下に、秋の虫の声が遠く聞こえた。
七 夜明け前
夜が深まった。
診療所の中は静かだった。
冬姫はまだ、時貞の傍に座っていた。
時貞の顔を見ていた。
眠っているような顔だった。
穏やかではなかった。
眉が、わずかに寄っていた。
夢を見ているのか。
何かに、苦しんでいるのか。
冬姫は、そっと手を伸ばした。
時貞の手に——触れた。
冷たくなかった。
温かかった。
生きていた。
冬姫は手を握った。
強くではなく——ただ、そっと。
「時貞様」と冬姫は小声で言った。
「まだやることがあるでしょう。北の拠点も、琉球も、信長殿も。それから——統治の研究も」
夜の闇の中で、冬姫は一人で話した。
「わたくしも——まだ、したいことがあります。笹木先生と一緒に、女子が学べる場所を。七島の外にも。先生に教えてもらったことを——活かしたい。時貞様が作ってくださった場所で」
誰も答えなかった。
「だから——目を覚ましてくださいまし」
時貞は動かなかった。
しかし——その手が、かすかに、温かかった。
冬姫はその温かさを、両手で包んだ。
夜明けまで——そうしていた。
外が、少しずつ白み始めた頃。
笹木が静かに部屋に入ってきた。
冬姫を見た。
「——まだいたのですか」
「はい」
笹木は時貞の状態を確認した。
脈を見た。熱を見た。
「熱が——少し下がっています」と笹木は言った。
冬姫は顔を上げた。
「良い兆候ですか」
「はい」と笹木は言った。「良い兆候です」
冬姫は小さく息を吐いた。
「先生」と冬姫は言った。
「何ですか」
「時貞様が目を覚ましたら——最初に何と言ってあげればいいですか」
笹木はしばらく考えた。
「——何も言わなくていいと思います」と笹木は言った。「目が覚めた時に、誰かの顔が見えること。それだけで、十分です」
冬姫は頷いた。
朝の光が、窓から差し込んできた。
時貞は、まだ眠っていた。
しかし——その眉が、夜より少しだけ、穏やかになっていた。
冬姫は手を握ったまま、朝を待った。
(第三十章へ続く)




