表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
覇道戦国 ~鳳凰寺家、天下統一…その先へ~  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/67

第二十九章 ―倒れた鳳凰―

一 村回りの日

永禄六年、秋深まる頃。

時貞は不満を持つ国人の領内に入っていた。

肥後の北、菊池郡の外れにある小さな村だった。

国人の名は、草野某。

鳳凰寺に恭順を示しながら——その実、安国寺恵瓊と何度か接触していた人物だ。

風間からの報告で、その名が挙がっていた。

「殿」と成瀬が言った。「この村は——草野家の影響が強い地域です。念のため、護衛を増やした方が」

「今まで通りでいい」と時貞は言った。「護衛を増やせば、民が警戒する。話を聞いてもらえなくなる」

「しかし——」

「成瀬」と時貞は静かに言った。「俺が護衛を増やして村に入れば——民は俺を怖いと思う。怖い相手の話は、心に残らない。今まで通りでいく」

成瀬は押し黙った。

護衛は四名。成瀬を含めて五名の供だった。


村に入ると、いつもと同じ反応があった。

最初は遠巻きに見ている子供たち。

それから、少しずつ集まってくる大人たち。

時貞は広場で話した。

なぜ道ができたか。なぜ診療所があるか。

村の老婆が言った。

「鳳凰寺様が来るとは思わんかった。草野様は——鳳凰寺様のことを、あまりよく言わんで」

「どういうことを言っていますか」と時貞は問うた。

「力があるうちは笑っとるが、いずれ本性を出すって。気をつけろって」

時貞は老婆の目を見た。

「あなたは——そう思いますか」

老婆はしばらく考えてから言った。

「道ができた。診療所の先生が来た。うちの孫が診てもらえた。それは本物だ。本性を出す者が——そういうことをするかねえ」

時貞は深く頷いた。

「俺は——本性を出す者ではないつもりです。しかし、それはあなたたちが見て、判断してください。俺の言葉より、俺の行いで」

老婆がほほ笑んだ。

「正直な御方…だね」


話が終わり、村を出ようとした時だった。


二 刃

山道に差し掛かった瞬間。

左手の茂みが、揺れた。

時貞の体が——反射的に動いた。

護衛が叫ぶより早く。

成瀬が剣に手をかけるより早く。

茂みから男が飛び出した。

刃を持っていた。

時貞に向かって——まっすぐに。

時貞は腰の短刀を抜いた。

考えていなかった。

体が動いた。

男の刃を払って——そのまま、反撃した。

短刀が——男の脇腹に入った。

男が——声を上げて、倒れた。

時貞の手に、感触があった。

温かい、重い感触だった。

(俺は今——)

その一瞬の空白を、別の男が突いた。

左側から。気配を感じた時には——遅かった。

腹部に、鋭い痛みが走った。

刃だった。

時貞の腹部に、刃が突き立てられていた。

「殿っ」

成瀬の叫び声が遠くで聞こえた。

時貞は膝をついた。

体が言うことを聞かない。

視界が——ぼやけた。

周囲で激しい音がした。

護衛たちの声。金属の音。男たちの叫び。

時貞はそれを、遠い場所で聞いていた。

地面に手をついた。

腹部の痛みが、熱く広がっていた。

(熱い)

それだけが、はっきりとわかった。


どのくらい経ったか。

「殿っ。殿、聞こえますか」

成瀬の声が近くにあった。

時貞は目を開けた。

成瀬の顔があった。

血が出ていた。成瀬の顔に、傷があった。

「成瀬——お前も」

「俺は大丈夫です。殿は——動かないでください。腹部を押さえてください」

成瀬が時貞の腹部に手を当てた。

布を押しつけた。

熱い痛みが広がった。

「護衛は」と時貞は言った。声が、かすれていた。

「全員生きています。しかし——二名が怪我をしています。今すぐここを離れます」

「……わかった」

護衛二名が時貞を担いだ。

痛みが全身に走った。

しかし時貞は声を上げなかった。

歯を食いしばった。


移動しながら、時貞の意識は揺れていた。

揺れながら——一つのことが頭に浮かんでいた。

(あの男は——死んだか)

短刀が脇腹に入った感触。

温かい血の感触。

倒れた男の顔。

(俺が——人を殺した)

この乱世に来て、俺は一度も、自分の手で人を傷つけたことがなかった。

命令して、兵が戦った。

策を立てて、敵が倒れた。

しかし——自分の手で。

(俺は今日、人を殺した)

痛みより、その事実の方が——体に重かった。

担がれながら揺れる視界の中に、あの男の顔があった。

誰の命令で動いたのか。

草野家か。安国寺恵瓊か。毛利か。

——それとも、ただの——

わからなかった。

(わからないまま、俺はあの男を殺した)

意識が揺れた。


揺れながら——別のことが浮かんだ。

(冬姫)

今頃、どこにいるか。

七島に帰ったはずだ。

京に——いや、まだ七島か。

出発の朝、冬姫は言っていた。

「また来ます」と。

「必ず来てください」と俺は言った。

(その約束を——果たせるか)

意識が、さらに遠くなった。

(俺はここで死ぬのか)

この乱世で、まだやることがある。

北の拠点。台湾。信長との問題。統治の研究。

何より——日本を、強くすること。

南蛮の波に飲み込まれないように。

それが全部——まだ終わっていない。

(まだ、終わっていない)

冬姫の顔が浮かんだ。

星を一緒に見た夜。

「もっと教えてください」と言った目。

成瀬の顔が浮かんだ。

道雪の顔が。白石の顔が。

荒木一助の——あの夜の顔が。

(俺は——皆を置いていくのか)

「殿。殿、しっかりしてください」

成瀬の声が聞こえた。

遠い。

とても遠い。

(急がない。しかし——止まらない)

自分の言葉が、頭の中で響いた。

(止まるな。まだ)

そう思った瞬間——意識が、完全に落ちた。


三 笹木の手術

七島の診療所。

報せが届いた時、笹木淳子はすぐに動いた。

「運んできてください。今すぐ」

到着した時貞の状態を見た瞬間、笹木の顔から表情が消えた。

医師の顔になった。

「腹部の刺傷。深さは——二寸以上。出血量が多い。内臓に達している可能性があります」

「助かりますか」と成瀬が言った。

「黙っていてください」と笹木は言った。怒りではなく、集中の声だった。「邪魔になります。廊下で待ってください」


手術は四刻続いた。

廊下で成瀬が待った。

怪我をした護衛二名も、手当てを受けながら待った。

成瀬の顔の傷は、補助の医療員が縫合した。

成瀬はそれを、ほとんど感じていなかった。

ただ——扉の向こうを、見ていた。

幹部たちが、次々と集まってきた。

木島。倉橋。浜村。朝比奈。

全員が、無言で廊下に立った。

誰も、何も言わなかった。


「天元」と浜村が小声で呼んだ。

「はい」と天元が静かに答えた。

「時貞殿は——」

「笹木先生の技術は、この時代で最高水準です」と天元は言った。「私にできることは、笹木先生を信じることだけです」

「……わかった」

天元も——それ以上は言わなかった。


扉が開いたのは、夜になってからだった。

笹木が出てきた。

血のついた白い衣のままだった。

「命に別状はありません」

廊下に、深い息が広がった。

成瀬が目を閉じた。

「内臓への損傷は——一部ありましたが、処置できました。しばらくは安静が必要です。熱が出ています。しかし——生きています」

「……ありがとうございます」と成瀬はようやく言った。

「礼を言うのは——殿が目を覚ましてからにしてください」と笹木は言った。そして——少しだけ、声が揺れた。「時貞様は……頑丈な方ですね」


四 知らせ

その夜、七島中に知らせが広まった。

時貞が倒れた。

刃で傷を負った。

命は——つながった。しかし、意識はまだ戻っていない。


風間が報告に来た。

「殺意を持って動いたのは——草野家の家臣三名と、流れ者二名でした。草野自身が命じたかどうかは——まだ確認中です」

「安国寺恵瓊との繋がりは」と成瀬が問うた。

「流れ者の一名が——恵瓊と接触していた可能性があります。確認しています」

「草野は」

「鳳凰寺家への説明を——検討しているとの情報が入っています。事態が予想外に大きくなったことで、震え上がっているようです」

成瀬は静かに言った。

「草野の処分は——殿が目を覚ましてから決める。それまでは、監視だけ続けてくれ」

「はい」

「安国寺恵瓊については」

「既に九州を離れた模様です。殿が倒れたとの報が広まった時点で、素早く動きました」

「——さすがに速い」と成瀬は言った。

「毛利の犬は、足が速い」と風間は言った。


五 冬姫

知らせが京に届いたのは、三日後だった。

前久が、走者を出した。

「——七島へ行います」と冬姫は言った。

前久は妹の顔を見た。

顔色が白かった。しかし——声は、震えていなかった。

「冬姫」と前久は言った。

「兄上」と冬姫は言った。「行きます」

「——わかった」と前久は言った。「俺も行きたいが——今の京を離れるわけにはいかない。代わりに行ってくれ」

「はい」

「冬姫」

「はい」

前久は少し間を置いた。

「——時貞は死なない。あいつは、そう簡単に死ぬ男ではない」

冬姫は兄を見た。

「兄上も——そう思いたいのですね」

前久は少し黙った。

「……そうだ」と前久は言った。

冬姫は深く頷いた。

翌朝、冬姫は船に乗った。


七島に着いた時、冬姫は診療所に真っすぐ向かった。

笹木が迎えた。

「冬姫様」

「時貞様は」と冬姫は言った。

「命に別状はありません。しかし——まだ目を覚ましていません」

「会えますか」

笹木は少し考えてから、頷いた。

「静かに、お願いします」


部屋に入った。

時貞が横たわっていた。

白い布が腹部に巻かれていた。

顔が——少し青白かった。

目が閉じていた。

いつも張り詰めたような目が——今は閉じていた。

冬姫は、床に静かに座った。

時貞の顔を見た。

しばらく、何も言わなかった。

笹木が部屋の外から言った。

「当分、目を覚ます気配がありません。熱はまだあります。しかし——容態は安定しています。時貞様の命に別状はありません」

冬姫は頷いた。

「ここにいてもよいですか」

「はい」と笹木は言った。


冬姫は一人、時貞の傍に座っていた。

何も言わなかった。

ただ——時貞の顔を見ていた。

時貞の胸が、静かに上下しているのを、目で確認した。

生きている。

それだけで——今は十分だと、思おうとした。

しかし思えなかった。

星を見た夜のことを思った。

「早く来てほしいと思っています」と書いてくれた手紙のことを。

「また会おう」と言ってくれた言葉を。

(時貞様)

冬姫は心の中で呼んだ。

(目を覚ましてください)

言葉は声にならなかった。

ただ——祈った。

十七歳の少女が、乱世の当主の傍に座って、静かに祈った。

夜が来た。

冬姫は動かなかった。

笹木が様子を見に来た。

「冬姫様。今夜は休んでください。私が交代します」

「いいえ」と冬姫は静かに言った。「もう少し、ここにいます」

笹木は冬姫の顔を見た。

「——わかりました」と笹木は言った。「何かあれば、すぐに呼んでください」

冬姫は頷いた。


六 廊下の幹部たち

夜の廊下。

成瀬が壁に背中を預けて座っていた。

木島が隣に座った。

「成瀬殿」と木島は言った。

「何だ」

「責任を感じているのですか」

成瀬は少し間を置いてから言った。「当然だ。俺が護衛を増やすべきだった。殿が断っても——押し切るべきだった」

「殿が断ったなら——押し切れますか」と木島は言った。

成瀬は答えなかった。

「殿は——急がない、焦らない、止まらない、という方です。民と直接向き合うために、護衛を減らすことを選んだ。その判断を、俺たちが止めることはできない」

「それが——悔しい」と成瀬は言った。

木島は少し考えてから言った。

「殿が目を覚ましたら——俺たちの話を聞いてもらいましょう。今後の村回りの護衛の体制を、殿と一緒に決める。今夜はそれだけを考えましょう」

成瀬はしばらく黙っていた。

「——そうだな」とようやく言った。

廊下の奥で、浜村が一人、天元に話しかけていた。

「天元。殿が目を覚ましたら——最初に何を言うと思うか」

天元は少し間を置いた。

「『誰が死んだか』と聞くと思います」

浜村は少し顔を歪めた。

「——そうだな。殿はそういう方だ」

「護衛の誰かが死んでいたなら——殿は、それをずっと抱えるでしょう」

「護衛は全員生きている」

「はい。それは——時貞殿に、早く伝えなければならないことです」

浜村は頷いた。

「目を覚ましたら、すぐに言う」

「はい」と天元は言った。「それと——殿は、自分の手で人を殺めたことを、抱えています。意識の中で。それは——命が助かっても、すぐには消えないものです」

浜村は静かに聞いた。

「どうしてやればいい」

「わかりません」と天元は言った。「私には——そういうことの答えが、ありません。しかし、傍にいることが、何かの助けになると思います」

廊下に、秋の虫の声が遠く聞こえた。


七 夜明け前

夜が深まった。

診療所の中は静かだった。

冬姫はまだ、時貞の傍に座っていた。

時貞の顔を見ていた。

眠っているような顔だった。

穏やかではなかった。

眉が、わずかに寄っていた。

夢を見ているのか。

何かに、苦しんでいるのか。

冬姫は、そっと手を伸ばした。

時貞の手に——触れた。

冷たくなかった。

温かかった。

生きていた。

冬姫は手を握った。

強くではなく——ただ、そっと。

「時貞様」と冬姫は小声で言った。

「まだやることがあるでしょう。北の拠点も、琉球も、信長殿も。それから——統治の研究も」

夜の闇の中で、冬姫は一人で話した。

「わたくしも——まだ、したいことがあります。笹木先生と一緒に、女子が学べる場所を。七島の外にも。先生に教えてもらったことを——活かしたい。時貞様が作ってくださった場所で」

誰も答えなかった。

「だから——目を覚ましてくださいまし」

時貞は動かなかった。

しかし——その手が、かすかに、温かかった。

冬姫はその温かさを、両手で包んだ。

夜明けまで——そうしていた。

外が、少しずつ白み始めた頃。

笹木が静かに部屋に入ってきた。

冬姫を見た。

「——まだいたのですか」

「はい」

笹木は時貞の状態を確認した。

脈を見た。熱を見た。

「熱が——少し下がっています」と笹木は言った。

冬姫は顔を上げた。

「良い兆候ですか」

「はい」と笹木は言った。「良い兆候です」

冬姫は小さく息を吐いた。

「先生」と冬姫は言った。

「何ですか」

「時貞様が目を覚ましたら——最初に何と言ってあげればいいですか」

笹木はしばらく考えた。

「——何も言わなくていいと思います」と笹木は言った。「目が覚めた時に、誰かの顔が見えること。それだけで、十分です」

冬姫は頷いた。

朝の光が、窓から差し込んできた。

時貞は、まだ眠っていた。

しかし——その眉が、夜より少しだけ、穏やかになっていた。

冬姫は手を握ったまま、朝を待った。


(第三十章へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ