第二十八章 ―動く九州、忍び寄る影―
一 笹木と冬姫
永禄六年、夏。
七島の診療所の前で、冬姫は立ち止まっていた。
朝から患者が列を作っている。
薩摩から渡ってきた者、七島の民、遠くは豊後から来た者もいる。
笹木淳子が、入口で患者に声をかけていた。
「次の方、どうぞ。熱はいつから出ていますか」
きびきびとした動き。白い衣。
冬姫はその姿を、しばらく見ていた。
笹木が冬姫に気づいた。
「冬姫様——ここまでお越しになったのですか」
「邪魔でしたか」と冬姫は言った。
「いいえ」と笹木は言った。「少し待ってください。今の患者を診たら、時間を作ります」
一刻後、笹木と冬姫は診療所の小部屋で向き合った。
「公家の姫君が診療所に興味を持たれるとは——珍しい」と笹木は率直に言った。
「笹木先生のことは、兄から何度も聞いていました」と冬姫は言った。「七島には女性の医師がいると。一度、お会いしたかった」
「私の話を、近衛様が?」
「はい。道雪殿との件から始まって——豊後の村での麻疹の話まで。兄はたいてい、感情をあまり表に出しませんが、先生のことを話す時は——少し目が違いました」
笹木は少し笑った。
「近衛様に——そんな目があるとは知りませんでした」
「わたくしも、初めて見ました」と冬姫は言った。それから真剣な顔になった。「先生。一つ、お聞きしてよいですか」
「どうぞ」
「医師になることは——難しかったですか」
笹木はしばらく冬姫を見た。
「何を聞きたいのですか」と笹木は言った。
「わたくしは——京では、学ぶことを止められてきました。知りたいことを、知ることを。先生は——それを、どうやって乗り越えたのですか」
笹木は少し間を置いてから、正直に言った。
「乗り越えた、というより——時貞様に会ったから、です」
「時貞様に」
「はい。時貞様は——できる者がやればよい、という方です。私が医師として動けるのは、そのお陰です。乗り越えたのは私ではなく——その場所を作ってくれた人がいたからです」
冬姫は静かに頷いた。
「先生は——七島で、何がしたかったのですか」
「子供の命を守ること」と笹木は即座に答えた。「病で死ぬ子供を、減らすこと。それだけです」
「それだけ、と言いますが——それだけ、ではないと思います」と冬姫は言った。「それだけ、と言える方は——その一つのことに、全てを懸けている方です」
笹木は少し驚いた顔をした。
「……そういう言い方を、その歳言われるのですか」
「おかしいですか」
「いいえ」と笹木は言った。「素晴らしいです」
二人は向き合った。
「冬姫様は——七島で何をされたいのですか」と笹木は問うた。
冬姫はしばらく考えてから、静かに言った。
「まだ、はっきりとはわかりません。しかし——女子が学べる場所を、作りたいと思っています。七島の外でも」
「七島の外で」
「京にも、薩摩にも——女子が学べる場所は、ほとんどありません。学舎はできましたが、女子が通いにくい雰囲気があると聞きました」
「確かに、そういう問題があります」と笹木は言った。
「わたくしは公家の出です。その立場を——何かに使えないかと思っています。公家の娘が学ぶことを、当然のこととして見せることで——他の女子も学びやすくなるかもしれない」
笹木は冬姫を見た。
「——それは、良い考えだと思います」
「本当にそうでしょうか?」
「はい」と笹木は言った。「私は医師として動けています。しかし——民に伝わるためには、私、笹木淳子が動くよりも冬姫様が動く方が——影響が大きいかもしれません。しかしそのお立場を使うことは、決して恥ずかしいことではありません」
冬姫の目が、少し輝いた。
「先生に、そう言っていただけると——背中を押された気がします」
「では一つ」と笹木は言った。「まず——私と一緒に、しばらく診療所で過ごしてみませんか。何ができるか、何を学べるか——動きながら考えましょう」
「よいのですか」
「いつでも来てください。邪魔にはなりません。むしろ——冬姫様に伝わることがあれば、私にも学びになります」
冬姫は深く頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
それから冬姫は、毎朝診療所に通った。
最初は見ているだけだった。
しかし三日目から、笹木の指示の下で、包帯を巻く手伝いを始めた。
患者に声をかける。名前を聞く。どこが痛いか、聞く。
冬姫の所作は丁寧で、患者を安心させた。
「公家の姫君が——なぜここに」と訝しがる患者もいた。
「学びに来ています」と冬姫は笑って答えた。
その答えが、患者を驚かせた。
公家の姫が、医療の場で学びに来ている。
その事実が、七島の民の間に静かに広まっていった。
五日目の夕刻。
笹木と冬姫が、診療所の前で話していた。
「冬姫様は——手際がいいですね」と笹木は言った。
「そうですか」
「患者の話を、きちんと聞いています。何が辛いかを、引き出すのが上手です。それは——医師に必要な能力の一つです」
冬姫は少し考えてから言った。
「京で——人の話を聞くことを、いつもしていました。誰が何を思っているか、何を言いたいけれど言えないでいるか。それを読む習慣が、身についていたのかもしれません」
「京での経験が——ここで活きているのですね」
「そうなるとは、思っていませんでした」と冬姫は言った。
時貞が診療所の前を通りかかった。
二人の様子を見た。
笹木と冬姫が、並んで話している。
「——馴染んでいますね」と時貞は言った。
「時貞様のお陰です」と冬姫は言った。「こういう場所を作ってくださったから」
「笹木先生のお陰でしょう」
「二人のお陰です」と冬姫は言った。
笹木が少し笑った。
「時貞様。冬姫様を——七島に置いてはいただけませんか?」
「それは、まだ難しいと思う」と時貞は言った。「しかし——また来てもらいます」
冬姫がわずかに笑った。
二 村回り
夏の終わり。
時貞は薩摩の村回りを始めた。
馬で。供は成瀬と護衛四名だけ。
天元の分析で選ばれた最初の村は、鹿児島から北に二里ほどの、小さな農村だった。
田んぼが広がり、山が近く、川が流れている。
鳳凰寺の道路整備が行われた村だ。
村の入口に着いた時、子供たちが集まってきた。
時貞の顔を見た。
十五歳の青年。
「——誰だ」と子供の一人が言った。
「鳳凰寺家の当主です」と時貞は答えた。
子供たちが固まった。
「鳳凰寺様が——直接来た」という声が広まった。
村の大人たちが出てきた。
老人も、女性も、農作業の途中の男たちも。
皆が——驚いた顔をしていた。
時貞は馬から降りた。
「話を聞いてほしい」と時貞は言った。「広場があれば、そこで」
村の広場に、村人が集まった。
三十人ほどだった。
時貞は広場の中央に立った。
「俺が誰かは、皆さんご存知だと思います。鳳凰寺家の当主です。今日は——俺から村の人たちに話をしに来ました」
村人たちが黙って聞いていた。
「この村に、道ができました。診療所が近くにできました。学舎もあります。皆さんが使ってくれているとの報告は、聞いています」
頷く者がいた。
「しかし——なぜ俺たちがそれをしているか、ご存知の方はいますか」
沈黙。
誰も答えなかった。
「銭のためではないかと思っている方もいると思います。将来、税を取るためではないかと。そう思っている方、正直に手を挙げてください」
何人かが、おそるおそる手を挙げた。
「正直にありがとうございます」と時貞は言った。「それは——俺の説明が足りなかったからです。今日は、その説明をしに来ました」
時貞は話した。
南蛮の国々が、世界の海を動かそうとしていること。
日本が、その波に飲み込まれないようにしたいこと。
そのために——日本を強くしなければならないこと。
日本を強くするためには——民が豊かでなければならないこと。
民が豊かになるためには——道があり、医療があり、学ぶ場所があること。
「それが——道を作った理由です。診療所を作った理由です。学舎を作った理由です」
村人たちが、静かに聞いていた。
老人の一人が言った。
「難しい話ですが——つまり、俺たちが豊かになることが、大きなことに繋がるということですか」
「そうです、その通りです」と時貞は即座に言った。
老人は少し考えてから言った。
「ワシたちが豊かになることが——日本のためになる、ということですか?」
「はい」
「そう言ってくれたのは——ご当主様がはじめてじゃ」と老人は言った。「今まで、お上から来る話は——税がいくらになるか、それだけだった。ワシたちが豊かになることが、国のためになるとは——聞いたことがなかった」
時貞はその言葉を、静かに受け取った。
「これから——もっと話しに来ます」と時貞は言った。「一度では伝わらないことがある。二度、三度、話しに来ます」
「ありがとうございます」と老人は言った。
村回りは、その後も続いた。
別の村へ。また別の村へ。
時貞が直接話すことで——民の顔が変わっていった。
怖れから、関心へ。
関心から、少しずつ——信頼へ。
成瀬が、各村での反応を記録していた。
「殿」とある夜、成瀬は言った。
「何だ」
「村の民が——殿のことを、最初は怖がっています。しかし話を聞いた後は、顔が変わります」
「そうだな」
「一番変わるのは——老人です。何十年も、お上の言葉を聞いてきた人々が、殿の言葉を聞いて——目が変わります」
「どういう目になる」と時貞は問うた。
成瀬はしばらく考えた。
「信じていいのかもしれない、という目です」と成瀬は言った。
時貞はしばらく空を見た。
「それで十分だ」と時貞は言った。「信じていいかもしれない——それが、最初の一歩だ」
三 広域協議
秋。
九州の広域協議が、鹿児島で開かれた。
参加者は——鳳凰寺から成瀬と浜村。大友家から道雪と家臣二名。龍造寺家から鍋島直茂と家臣二名。
合計九名の協議だった。
小さな会議だったが——その意味は大きかった。
大友と龍造寺が同じ場所に座ること自体、数年前には考えられなかったことだ。
成瀬が議題を説明した。
「九州全土を境なく、円滑に発展させるための取り決めを作りたいと思います。主な議題は三つです。一、広域道路建設の手続き簡略化。二、移住と補償の共通ルール。三、格差解消のための相互支援」
道雪が言った。「手続きの問題は——俺も感じていた。薩摩の道が延びてきているのに、大友領の側で止まってしまっている箇所がある」
「はい。その問題を解決したいのです」と成瀬は言った。「提案として——九州全土で共通の事前合意書を作ります。『この範囲の道路建設については、各大名が事前に包括的に同意する』という形の文書です。毎回個別の許可を取る必要がなくなります」
「条件は」と直茂が問うた。
「三点です。一、事前に計画書を各家に提示する。二、計画変更の場合は必ず通知する。三、費用と技術は鳳凰寺が提供する。実施は各大名家が行う」
「費用は鳳凰寺が出すのか」と道雪が確認した。
「はい。道路は九州全体の利益になります。費用を鳳凰寺が負担することで——手続きの負担を各大名家から減らす代わりに、計画の主導権を鳳凰寺が持つ形にします」
直茂がしばらく考えた。
「龍造寺家としては——受け入れられます。ただし計画書の事前提示は、最低一ヶ月前にお願いしたい」
「承知しました」
道雪も頷いた。
「大友家も承知します」
移住と補償のルールについても、一つ一つ確認していった。
補償の基準。移住先の確保の手順。期間の上限。
全て、文書化された。
格差解消については、浜村が説明した。
「大友領と龍造寺領での開発支援を、鳳凰寺から提案します。技術者の派遣と、材料の提供です。実施は各大名家が行います。俺たちがやるのではなく、各家の方々が自分でやれるようにする形です」
「それは——ありがたい」と道雪は言った。「大友領の農村は、まだ変化が遅い。技術者を派遣してもらえれば、俺が動かしやすくなる」
「はい。まず豊後の二つの村から、試験的に始めましょう」
協議の最後に、成瀬が言った。
「最後に、一つ。鳳凰寺からの提案があります」
「何だ」と道雪が問うた。
成瀬は地図を広げた。
九州全土の地図だった。
「九州全土に——輸送の網を作りたいと思っています」
「輸送の網?」と直茂が繰り返した。
「現在、九州の物資は馬と船で運んでいます。馬は遅く、荷物の量が限られます。船は速いですが、海沿いしか使えません。内陸の地域は——今でも輸送に時間がかかっています」
「それを、どう改善するのですか」と直茂が問うた。
成瀬は少し間を置いた。
「——鉄の道を、作ります」
広間が静まり返った。
「鉄の道?」と道雪が言った。
「はい。鉄でできた二本の軌道の上を、鉄の車が走る仕組みです。蒸気の力で動かします。馬の十倍以上の速さで、馬の百倍以上の荷物を運べます」
道雪と直茂が、互いに顔を見た。
「……想像がつかない」と道雪は正直に言った。
「そうですね」と成瀬は言った。「これは——今すぐ作れるものではありません。準備と建設に、数年かかります。しかし——計画を今から始めることで、将来の九州全体の輸送が根本から変わります」
「蒸気の力、とは」と直茂が問うた。
「水を沸かしてできる蒸気の力です。鳳凰寺の工廠で、既に試作しています」
「鳳凰寺は——また驚くことを言う」と道雪は言った。しかし——怒りではなく、呆れの混じった感心だった。
「実際に動く様子を、いずれお見せします」と成瀬は言った。「まず小規模なものを七島で動かして、見ていただく機会を作ります」
「——見てみなければ、信じられないな」と直茂は言った。
「はい。まず見てください」
「わかった」と道雪は言った。「俺は信じる。時貞殿が言うことは、今まで全て本物だった。今度も——本物だろう」
直茂が少し笑った。
「道雪殿は、本当に時貞殿を信頼しておられますね」
「当然だ」と道雪は言った。「俺の人生で——あれほど言葉と行いが一致した者はいない」
広域協議の文書が署名された。
大友家。龍造寺家。鳳凰寺家。
三者の名が並んだ。
それは——九州が、一つの仕組みとして動き始めた証だった。
四 忍び寄る影
しかし——全てが順調ではなかった。
九州の片隅に、暗い動きがあった。
浜村から報告が来たのは、広域協議の三日後だった。
「殿。気になる動きがあります」
「聞かせてくれ」
「九州の複数の国人から、不穏な動きが報告されています」と浜村は言った。
「不穏、とは」
「鳳凰寺への不満を持つ者たちが——少しずつ繋がり始めています」
時貞は静かに聞いた。
「どういう不満だ」
「いくつかあります」と浜村は言った。「一つ——鳳凰寺に恭順したことで、自分たちの裁量が減った、という不満。二つ——薩摩と他の地域の格差が目立ち始め、『鳳凰寺は薩摩だけを優遇している』という見方をする者がいる。三つ——鳳凰寺の力が大きすぎることへの恐れ。いつか全てを取られるのではないか、という不安」
「それは——理解できる不満だ」と時貞は言った。
「はい。しかし」と浜村は続けた。「問題は——その不満を、誰かが意図的に煽っている可能性があることです」
「煽っている者がいる」
「はい。国人たちの間で囁かれている言葉に——一つのパターンがあります。『鳳凰寺は帝を操っている』『薩摩を手中にしたように、いずれ我々の土地も取られる』——これは自然に生まれた不満ではなく、誰かが意図して作った言葉に見えます」
時貞は少し考えた。
「外から来た言葉か」
「その可能性が高いと、私は見ています」
「誰だ」
浜村は一枚の紙を取り出した。
「まだ確証はありません。しかし——九州で不自然な動きをしている人物が一人います」
「名は」
「安国寺恵瓊」と浜村は言った。「毛利に仕える僧侶です」
時貞は静かに言った。
「毛利が——動いているのか」
「直接の証拠はまだありません。しかし——安国寺恵瓊は、毛利の外交僧として各地を動き回っています。九州にも度々現れています。そして——鳳凰寺に不満を持つ国人たちのもとを、順番に訪ねているという情報があります」
風間新八郎が直接報告に来たのは、その翌日だった。
「殿。俺が直接調べた内容を話します」
「聞かせてくれ」
「安国寺恵瓊は——今月、九州の国人を十一名訪ねています。全員が、鳳凰寺に対して何らかの不満を持っている者たちです。偶然にしては、選び方が精確すぎます」
「会って何を話しているか、わかるか」
「二名から話を聞けました。内容は——こうです。『鳳凰寺は今は穏やかだが、力が十分に蓄まれば本性を現す。今のうちに備えておくべきだ。毛利と繋がっておけば、万が一の時に逃げ場がある』」
「万が一の時に逃げ場がある、か」と時貞は呟いた。
「はい。直接『毛利に従え』とは言っていません。ただ——『万が一の備え』として、毛利との繋がりを勧めている」
「巧みだな」と成瀬が言った。「反乱を煽るのではなく、保険として毛利と繋がるよう勧めている。それなら、鳳凰寺に知れても『ただ話をしただけ』と言い訳できる」
「毛利元就の策だ」と時貞は言った。「元就は——動かない。しかし、いつでも動けるように準備する。九州に足がかりを作っておけば——将来、機会が来た時に動ける」
「はい」と風間は言った。「元就は今年で七十を超えています。直接動くつもりはないかもしれません。しかし息子と孫のために——布石を打っている可能性があります」
時貞は静かに考えた。
「その十一名の国人については——監視を続けてくれ。実際に毛利と何かを結ぼうとする動きが出た時には、すぐに知らせてくれ」
「はい」
「安国寺恵瓊については——今は動かない」
「動かない、ですか」と風間が驚いた。
「捕まえれば、毛利を刺激する。毛利と今、直接対立する必要はない。ただし——全ての動きを記録してくれ。恵瓊が誰を訪ねて、何を話したか。全部」
「わかりました」
「そして——不満を持つ国人たちへの対応を考える」と時貞は言った。
「どういう対応ですか」と成瀬が問うた。
「村回りを——薩摩だけでなく、不満を持つ国人の領内でも始める。民と直接話す機会を作る。国人が鳳凰寺に不満を持っていても——民が俺たちを信頼していれば、国人は無理に動けない」
浜村が頷いた。
「民を繋ぎ止めることで、国人を牽制する」
「そうだ。力で押さえるのではなく——民との信頼で押さえる」
成瀬が静かに言った。「殿。一つ確認です。毛利とは——いずれ、向き合う日が来ますか」
時貞は少し間を置いた。
「来るかもしれない。しかし——今ではない」
「もし来た時は」
「その時は、向き合う」と時貞は言った。「しかし——今は、九州を固めることが先だ。基盤が弱いうちに外を向いても、意味がない」
「御意」
夜、時貞は一人で執務室に座った。
「天元」と呼んだ。
「はい」と天元が答えた。
「安国寺恵瓊という人物の分析を聞かせてくれ」
「了解です。安国寺恵瓊。生年は不詳。毛利元就に仕える外交僧として知られています。史料によれば——非常に聡明で、情報収集と交渉に優れています。各地の情報を素早く集め、毛利に有利な状況を作る外交を得意としています。感情に流されず、冷静に相手の弱点を突く人物として評価されています」
「毛利の目と耳、ということか」
「はい。そして——口でもあります。必要な言葉を、必要な場所に届ける能力を持っています」
「厄介な相手だな」
「はい。直接対立するよりも——長期的に監視し、動きを先読みすることが有効と分析されます」
「わかった。恵瓊の動きは——継続して監視してくれ」
「了解しました」
時貞は窓を開けた。
秋の夜の海が広がっていた。
(毛利元就か)
老いた知将が、九州に静かに手を伸ばし始めていた。
その手を、今は静かに見ておく。
しかし——見ながら、手を打っておく。
民との信頼を、一村一村、積み上げていく。
それが——最も確かな防衛線だ。
時貞は秋の星を見た。
北では白石が、アッツ島の拠点を守っている。
南では榊原が、琉球との関係を育てている。
九州では、道が延び、学舎が増え、診療所が広がっている。
しかし——その影に、暗い動きがある。
(止まらない。しかし——周囲も見る)
前だけ向いていれば、足元を掬われる。
時貞は机に向かった。
明日の村回りの準備をした。
不満を持つ国人の領内に、最も近い村から始める。
民に話す。直接。言葉で。
それが——最善の手だと、時貞は信じていた。
秋の夜が、静かに更けていった。
(第二十九章へ続く)




