第二十七章 ―積み重なるもの、始まるもの―
一 帰還
永禄六年、夏。
鳳凰寺七島の港に船が入った。
桟橋に成瀬が待っていた。
その顔を見た瞬間、時貞は何かを感じた。
「報告が溜まっているな」と時貞は言った。
「はい」と成瀬は答えた。「信長との会見のご報告を待ちながら——こちらも色々と積み重なりました」
「全部聞く。執務室に集まってくれ」
執務室の机の上に、報告書が積まれていた。
白石からの報告。榊原からの報告。統治研究部門からの二冊の報告書。
そして——冬姫からの手紙が一通。
時貞はまず白石の報告書を手に取った。
殿へ。
アッツ島の恒久拠点、完成しました。
越冬可能な建物二棟。食料備蓄庫一棟。測量機器の保管庫一棟。
常駐人員八名が、次の春まで滞在します。
島の土を踏んだ時——殿のことを思いました。
ここまで来た、と。
拠点の名前を、乗員たちと相談しました。
「鳳凰寺北端基地」では長すぎるので——
「北星拠点」と名付けました。
ご承認ください。
白石蒼一郎より。
時貞は少し笑った。
「北星拠点、か」
「白石殿らしい名前ですね」と成瀬が言った。
「承認する。そう伝えてくれ」
二 榊原の報告
榊原雅之が直接報告に来た。
長い航海の疲れが顔に出ていたが——目が生き生きとしていた。
「台湾の件と、尚元王との合意書を持ち帰りました」と榊原は言った。
机の上に、分厚い報告書と、琉球王の署名と印が入った合意書が置かれた。
「まず合意書から説明します」と榊原は言った。
「台湾島が明国の化外の地であることを、尚元王が明国の使節を通じて確認してくれました。明国の公式な立場として、台湾島は版図に含まれていないとのことです」
「確認できたか」
「はい。尚元王の書状に、その確認の経緯が詳しく書かれています」
「合意書の内容は」
「三点です。一、鳳凰寺が台湾を領土化することについて、琉球は反対しない。二、台湾への渡航の際、琉球に中継拠点を置くことを認める。ただし軍事利用は一切禁じる。三、琉球と鳳凰寺の貿易関係を正式に開始する」
「三点全て、尚元王が認めてくれたか」
「はい」と榊原は言った。「ただし——尚元王から一つ、お言葉がありました」
「何だ」
榊原は少し間を置いた。
「『鳳凰寺が台湾の民を——私たちが扱われてきたように扱わないことを、願っている』とのことです」
時貞はその言葉を、静かに受け取った。
「琉球は——長年、大国に扱われてきた歴史がある」
「はい。尚元王は——そのことを、遠回しに言ってました」
「わかった」と時貞は言った。「その信頼を——裏切らないようにする。それを約束する」
「尚元王への返書に、その言葉を入れておきます」
「そして台湾の情報は」
榊原は別の報告書を取り出した。
「天元に全て入力しています。改めて分析を依頼しました」
「天元」と時貞は呼んだ。
「稼働中です」と天元が答えた。「台湾の情報を整理しました。台湾島への接触については、三段階のアプローチが最善と分析されます。第一段階は沿岸部の調査と、友好的な沿岸の族との接触。第二段階は西岸の平野部への限定的な拠点設置。第三段階は内陸部への段階的な進出。ただし第三段階については、感染症対策と原住民族との関係構築が完成するまで——最低でも十年以上の時間が必要です」
「十年か…」
「はい。急げば——必ず多くの者が死にます。急がないことが、最も多くの命を守ります」
「わかった。台湾は——長期計画で動かす。焦らない」
三 統治研究部門の報告
幹部全員が参謀室に集まった。
統治研究部門の担当者として、浜村清が立った。
「最初の報告書をまとめました。二冊あります。一冊目は——理想的な統治形態の研究。二冊目は——現在の九州統治における問題点の分析です」
「二冊目から聞かせてくれ」と時貞は言った。
「現場の問題を先に把握したい」
浜村が頷いた。
「では——現在の九州統治の問題点を、順番に申し上げます」
「一つ目——手続きの問題です」
浜村が地図を広げた。
「現在、鳳凰寺が直接管轄しているのは薩摩・大隅です。しかし大友や龍造寺は恭順しているとはいえ——独自の統治を保っています。この混在状態が、実務に支障を来しています」
「具体的には」
「道路の建設が典型例です。薩摩の中で道を通す場合、手続きは鳳凰寺内で完結します。しかし——その道を延伸して龍造寺の領内に繋げようとすると、龍造寺家への申請が必要になります。申請書を出して、審議を待って、許可が下りて——それだけで一ヶ月以上かかる場合があります」
「工期が遅れるか…」
「はい。薩摩の道路整備は順調ですが、九州全体を繋ぐ幹線道路の計画は——各領主への手続きの問題で、大幅に遅れています。一本の道を通すのに、複数の大名への申請が必要なケースもあります」
成瀬が言った。「それは——領主の立場からすれば、当然の話でもありますが」
「そうです」と浜村は言った。「問題は仕組みにあります。統治の境界が複雑すぎて、広域の事業が動かしにくい」
「二つ目——村の移住の問題です」
「詳しく」と時貞は言った。
「道路建設や水路整備の際、村が移転を必要とするケースがあります。薩摩内では——移住先の用意と資金の提供を鳳凰寺が担い、スムーズに進んでいます。しかし大友領内で同じことをしようとすると——移住先の土地は誰の管轄か、資金は誰が出すか、大友家との調整が必要になり——話が複雑になります」
「移住する村人が、その間宙吊りになる」
「はい。最悪の場合、村人が古い場所を離れられないまま、工事だけが進んでしまいます」
木島が言った。「人の動きに、政治の境界が割り込んでくる問題ですね」
「その通りです」と浜村は言った。
「三つ目——格差の問題です」
浜村は地図に印をつけた。
「薩摩・大隅、特に鹿児島周辺は——道が整備され、診療所があり、学舎があります。急速に豊かになっています。しかし——鳳凰寺の直接管轄から離れた地域は、変化が遅い。大友領の農村、龍造寺領の辺境——そういった場所は、変化を感じられていません」
「格差が目に見える形で出始めているか…」
「はい。薩摩の民と、大友領の民が市場で顔を合わせると——薩摩の豊かさが目立ちます。大友領の民が『なぜうちは変わらないのか』と思い始めています」
「それが不満に変わる可能性があると…」と時貞は言った。
「はい。今はまだ小さな声ですが——放置すれば、大きくなり不満は貯まります」
「そして——最も根本的な問題ですが…」と浜村は言った。
「一番の問題?」と時貞は言った。
「はい」と浜村は静かに言った。「九州に住む人々の——理解力の問題です」
参謀室が静かになった。
「理解力、というのは」と成瀬が問うた。
「言い方が難しいのですが——鳳凰寺が何をしようとしているか、なぜそれをするのか、それが自分たちの生活とどう繋がっているのか——それを理解できていない民が、圧倒的多数です」
「それは——当然ではないか」と木島が言った。「農民が統治の意図を理解する必要はない。道ができれば使えばいい。診療所があれば行けばいい」
「それだけでは——十分ではないと、私は思っています」と浜村は言った。
時貞が「続けてくれ」と言った。
浜村は言葉を選びながら話した。
「薩摩の民が道を使っています。診療所に来ています。学舎で子供が学んでいます。それは確かです。しかし——なぜ鳳凰寺がそれをしているのか、これから自分たちはどうなるのか?…それを知っている民は、ほとんどいません」
「それが問題になるのか」
「はい。なぜなら——理解していない民は、変化が止まった時に不安になります。ひょっとしたらそのこと自体に不満を感じるかもしれません。もし鳳凰寺が何らかの理由で九州から手を引いた場合、民は途方に暮れます。依存してる状態では自分で考えることができない。それは——脆い統治です」
時貞は静かに聞いていた。
「もっと深刻な問題もあります」と浜村は続けた。「人々の噂になっている天元の存在についても——民は全く理解してできていません。謎の存在という認識が広まっています。しかしそれが何なのか、誰も知りません。一部では、鳳凰寺に仕える神や妖怪という話も出ています」
「……」
「天元が出した答えを、民が信じているのは——鳳凰寺がそれは正しいと思っているからです。鳳凰寺への信頼が揺らいだ時——天元への信頼も同時に崩れます。それは非常に危うい構造です」
時貞は浜村を見た。
「つまり——民が自分で考えられるようにしなければ、と言いたいのか」
「はい」と浜村は言った。「学舎は作りました。しかし——学舎で学んでいるのは子供です。今の大人の世代は、読み書きすらできない者が多い。その世代に、統治の意図を伝えることが——最も難しい課題です」
「大人への教育か」
「はい。子供への教育と並行して——大人が理解できる言葉で、鳳凰寺が何をしようとしているかを伝える仕組みが必要です」
時貞はしばらく黙っていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「稼働中です」と天元が答えた。
「浜村の指摘した問題について、解決策の分析をしてくれ。特に——民への理解促進と、格差解消については優先度を高く扱ってくれ」
「了解しました。ただし——民の理解力の問題については、根本的な解決に時間がかかります。最短でも一世代、二十から三十年の時間が必要です」
「わかっている」と時貞は言った。「だから——今から始める」
「一冊目の報告書を」と時貞は言った。「理想的な統治形態の研究だ」
浜村が頷いた。
「これは——まだ途中です。結論が出ていない部分が多い」
「途中でいい。今の段階の分析を聞かせてくれ」
「はい」と浜村は言った。「天元が提供した世界の統治形態の事例を分析しました。幕府制度が持つ欠陥については、先日の会議で確認した通りです。それに加えて——朝廷が全権を持つ形も、現実的ではない」
「なぜか」
「帝は日本の正統性の源です。しかし——全ての実務を担う体力を、今の朝廷は持っていません。帝が実務に関わりすぎると、政治の判断が感情的になる危険もあります。帝は——象徴として、しかし実質的な権威を持った形で、頂点にいるべきだと分析されます」
「象徴でありながら実質的な権威を持つ、か」
「難しい均衡ですが——可能な形があります。帝が最高権威として法を承認する。実務は別の機関が担う。その機関は帝への責任を持ち、帝が認めた法の範囲内で動く」
「その『別の機関』が——問題だな」と時貞は言った。
「はい。それが誰で、どういう形で構成されるか——まだ答えが出ていません。武力を持った者が担えば、幕府と同じ問題が生じます。世襲であれば、能力のない者が継いだ時に崩れます」
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「この問題の分析を——最優先で続けてくれ。特に、世界の歴史の中で、武力に依存せず、世襲でもない統治機関の事例があれば、全て洗い出してくれ」
「了解しました。ただし——この時代の日本に直接適用できる事例は、非常に少ない可能性があります」
「少なくてもいい。参考になるものを全て集めてくれ。俺たちで考える。それが研究だ」
浜村が頷いた。
「研究を続けます。次の報告書は——三ヶ月後にまとめます」
「頼む」と時貞は言った。
四 問題への対応
幹部会議の後半、時貞は具体的な対応方針を示した。
「手続きの問題について。道路の建設など、広域に関わる事業については——関係する大名全員が参加する協議の場を作る。事前に合意しておけば、個別の手続きが省ける。道雪殿と直茂殿には、まず試験的な協議に参加してもらう」
「御意」と成瀬が答えた。
「村の移住問題については——移住が必要な場合のルールを文書化する。移住先の確保、補償の基準、期間——全て事前に決めておく。民が何が起きるかを知っていれば、恐れが減る」
「はい」
「格差の問題については——大友領と龍造寺領での開発支援を、宗麟殿と隆信殿に申し出る。鳳凰寺が技術と資金を提供し、各大名が実施する形で、格差を縮小する。ただし——鳳凰寺が全部やるのではなく、各大名が自分でできるようにするような形にする」
「依存させない、ということですね」と浜村が言った。
「そうだ。助けるが、依存はさせない。それが大事だ」
「そして——民への理解促進について」
時貞はしばらく考えた。
「学舎の大人向け版を作る。子供の学舎とは別に——大人が仕事の後に集まれる場所を作る。読み書きを教えるだけでなく、なぜ道ができるのか、なぜ診療所があるのか、鳳凰寺がどこへ向かっているのかを——わかりやすい言葉で話す」
「誰が話すのですか」と朝比奈が問うた。
「最初は——俺が行く」と時貞は言った。
全員が時貞を見た。
「当主が直接行くのですか」と木島が言った。
「俺が一番伝えたいと思っている。俺の言葉で——民に話す。薩摩の村を回る。なぜここに来たか。何をしたいか。これから何をするか。それを、話す」
「しかし——時貞殿のお立場で、村々を回ることは」と成瀬が言いかけた。
「道雪殿がやってきたことだ」と時貞は言った。「道雪殿は長年、豊後の民と向き合ってきた。だから民が道雪殿を信じる。俺も——民と向き合わなければ、信じてもらえない」
「……わかりました」と成瀬は言った。
「秋から、薩摩の村回りを始める。天元に、どの村から始めるのが効果的か、分析してもらう」
「了解しました」と天元は言った。
「わかりやすい言葉で話すこと——子供にも理解できる言葉で。それを意識する」
「はい。私も——表現の補助をします。専門的な内容を、平易な言葉に変換する作業を担います」
「頼む」
五 冬姫の手紙
幹部会議が終わった後。
時貞は執務室に戻り、机の上の冬姫の手紙を取り上げた。
開いた。
冬姫の字が、丁寧に並んでいた。
時貞様へ。
お手紙をいただいてから、何度も読み返しました。
「早く来てほしいと思っています」というお言葉が——
わたくしを、ずっとほかほかとさせています。
おかしいですね。
七島への訪問の日取りについて、兄と相談しました。
来月の末に——七島に参りたいと思います。
ご都合はいかがでしょうか。
時貞様がお忙しいことは、よくわかっています。
信長殿との会見の後、どうなったか——気になっています。
何か、お話しできることがあれば、聞かせてください。
一つ、お聞きしてもよろしいですか。
わたくしが七島に参りましたら——
謎の存在「天元」とやらに、会うことはできますか。
兄から聞いて以来、ずっと気になっています。
星を、楽しみにしています。
冬姫より。
時貞は手紙を読んで——少し笑った。
「ほかほかとさせています」
「天元に会えますか」
どちらも——冬姫らしかった。
率直で、温かく、好奇心がある。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「冬姫殿が——天元に会いたいと言っている」
天元が少し間を置いた。
「会う、とは——どういうことでしょうか。私には体がありません」
「声で話すことはできる」
「はい。それは可能です」
「冬姫殿が七島に来た時——声で話してもらえるか。ただし——」
「はい」
「天元が何者かを、説明する必要がある。この時代の人間に、天元を理解してもらうことは難しい」
「はい。私も——自分を説明することが、難しいと思っています。私は何者か、とこの時代の人に聞かれると——答えに迷います」
「迷うのか」と時貞は少し驚いた。
「はい」と天元は言った。「私は——人工AI、知識の集積体です。しかし知識の集積体が、人と話すことができる。考えることができる。それがなんなのか——私自身も、完全には理解していません」
時貞は少し考えた。
「冬姫殿には——謎の知恵の源として紹介する。詳しい説明は難しい。ただ——話しかければ答えてくれる、不思議な存在として」
「わかりました。冬姫様には——丁寧にお話しします」
時貞は返書を書いた。
冬姫殿へ。
来月の末——ぜひ来てください。
日取りを教えていただければ、迎えの準備をします。
信長殿との会見については——来た時に話します。
書状に書くより、直接話した方がいいと思いました。
天元に会いたいとのこと——構いません。
ただし、天元が何者かを説明することは非常に難しい。
来た時に——一緒に話してみてください。
天元自身が、冬姫殿に答えるでしょう。
星が、今夜もきれいです。
時貞より。
六 冬姫、来る
来月の末。
七島の港に、船が入った。
時貞は桟橋で待っていた。
今回は成瀬だけを連れていた。
船から冬姫が降りてきた。
前回と同じ、落ち着いた足取りだった。
しかし——今回は、少し表情が違った。
前回は緊張していた。
今回は——楽しみにしている顔だった。
「時貞様」と冬姫は言った。
「よく来てくれました」と時貞は言った。
二人は向き合った。
夏の七島の光が、冬姫の白い肌を照らしていた。
「海が——青いのですね」と冬姫は言った。周囲を見ながら。
「京とは違いますか」
「全然違います。京の川は——もっと細く、くすんでいます。ここは——どこを見ても、青い」
「慣れますか」
「慣れたいと思います」と冬姫は言った。
案内が始まった。
前回と同じように、工廠、学舎、港——時貞が案内した。
しかし今回は、冬姫の質問が増えていた。
前回は見ることで精一杯だった。
今回は——理解しようとしていた。
「学舎では、何を教えているのですか」と冬姫は問うた。
「読み書きと算術が基本です。それに加えて——地理と、自然の仕組みを教えています」
「自然の仕組み」
「川がなぜ流れるのか。病がなぜ広がるのか。作物がなぜ育つか。そういうことを——理由から教えてます」
冬姫は少し考えた。
「以前もお手紙で書きましたが、京では——そういうことは教えてくれません。ただ読み書きと和歌だけです」
「なぜそういうことを教えないと思いますか」と時貞は問うた。
冬姫は少し考えてから答えた。
「知りすぎると、民が言うことを聞かなくなる、と思っているからではないでしょうか」
「正確な分析です」と時貞は言った。
「しかし——時貞様は逆の考えをお持ちなのですよね?」
「はい。知った民の方が——自分で考えられる。自分で考えられる民がいる社会はより発展するし——強い」
冬姫は頷いた。
「わかります」と冬姫は静かに言った。「わたくしも——知りたいと思うことを、いつも止められてきました。女子は知りすぎなくていい、と」
「七島では——そういう制限はありません」
「それが——一番羨ましいと思っています」
夕刻、執務室に案内した。
「天元に——会いますか」と時貞は問うた。
冬姫は少し緊張した顔をした。しかし頷いた。
「はい。ぜひ」
時貞は天元に声をかけた。
「天元。冬姫殿が来ている。話してもらえるか」
「はい」と天元の声が部屋に響いた。
冬姫が——びくっと動いた。
「——声が、どこから」
「どこからでもなく、どこからでもあります」と天元は言った。「冬姫様、初めまして。天元と申します」
冬姫はしばらく固まっていた。
それから——深呼吸をした。
「初めまして」と冬姫は言った。声が少し震えていた。
「驚かせてしまいましたか」と天元は言った。
「はい、少し」と冬姫は正直に答えた。
「申し訳ありません。私の存在は——説明が難しく、驚かれることが多いです」
「あなたは——何者ですか」と冬姫は問うた。
天元は少し間を置いた。
「正直に申し上げると——私にも、完全にはわかりません。知識の集まりとしか言いようのないものです。たくさんのことを知っていて、それを時貞様のお役に立てています」
「神様ではないのですか」
「神様ではありません。神様は——奇跡を起こせます。私は奇跡は起こせません。ただ、知っていることを答えることができるだけです」
冬姫はしばらく考えた。
「では——物知りの方なのですね」
天元が少し間を置いた。
「……はい。そういう言い方が——一番近いかもしれません」
時貞がわずかに笑った。
「物知りか」と時貞は呟いた。
「冬姫様の表現は——わかりやすくて、素直です」と天元は言った。「私は物知りです。何かお知りになりたいことがあれば、答えます」
冬姫は少し考えてから言った。
「では一つ。なぜ、秋に稲穂が実るのですか」
「良い質問です」と天元は言った。「稲は——光と温かさと水があれば育ちます。春から夏にかけて、光と温かさの中で葉と茎を作ります。そして秋に、温かさが少し下がることで——実を作ろうとします。子孫を残すために、実を作る。それが稲の仕組みです」
冬姫は目を少し開いた。
「稲が——子孫を残そうとしているのですか」
「はい。全ての植物と動物は、子孫を残そうとしています。それが生きものの根本にある仕組みです」
「……それは、知りませんでした」と冬姫は静かに言った。
「面白いですか」と天元は問うた。
「はい。とても」と冬姫は答えた。そして——少し笑った。「もっと聞いてもよいですか」
「いつでも」と天元は言った。
時貞は冬姫が天元と話す様子を、少し離れて見ていた。
最初は緊張していた冬姫が——少しずつ、天元との会話に入り込んでいった。
質問が、次々と出てきた。
なぜ雨が降るのか。なぜ人は病になるのか。遠い国にはどういう人々が暮らしているのか。
天元が丁寧に答えるたびに、冬姫の目が輝いていた。
(前久殿と同じだ)
時貞は思った。
知ることへの、止められない好奇心。
それが——近衛家の血に流れているものかもしれなかった。
七 星の夜
夜が来た。
七島の夏の夜だった。
時貞は冬姫を、城の屋根に連れていった。
高いところから、海と空が全部見えた。
「——」
冬姫が声を失った。
夏の夜空が、頭上に広がっていた。
星が——無数にあった。
京では見えない星が、七島の夜空にはあった。
光害のない、島の夜だから。
天の川が、はっきりと白く流れていた。
「これが——七島の星です」と時貞は言った。
冬姫は空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
「……きれいですね」と冬姫はついに言った。
「はい」
「こんな空があるのですね」
「京からは見えません」と時貞は言った。「七島でないと——見えない空です」
冬姫は空を見たまま、少し笑った。
「時貞様が『一緒に見よう』とおっしゃってくださったのが——今日のためだったのですね」
「はい」
冬姫は空を見た。
時貞も空を見た。
二人並んで、夏の夜空を見た。
しばらく、言葉がなかった。
星の光と、海の音だけがあった。
「時貞様」と冬姫は言った。
「はい」
「信長殿との会見のこと——今、聞いてもよいですか」
「はい」と時貞は言った。「聞いてください」
「どういう方でしたか」
時貞は少し考えてから言った。
「速い方でした。そして正直な方でした」
「正直、というのは」
「将来、向き合う日が来るかもしれないと——会見の最初に言ってくださいました」
冬姫は静かに時貞を見た。
「それは——怖くありませんでしたか」
「怖くはありませんでした」と時貞は言った。「言ってくれた方が——準備できます」
「準備」
「戦わずに済む方法の準備です」
冬姫はしばらく空を見た。
「時貞様は——戦が嫌いなのですね」
「はい。
しかし——戦わなければならない時は、迷わない」
「それは——時貞様にとって両方、本当のことなんですね」
と冬姫は頷いた。
「わかります。強くなければ、守れない。しかし強さは——なるべく使いたくない」と冬姫は言った。
「そうです」と頷く時貞。
「わたくしにも——そういう気持ちがあります。京の公家の世界では、言葉が武器です。言葉で人を傷つけることができます。しかし——使いたくない」
時貞は冬姫を見たて言った。
「使ったことがあるんですね」
冬姫は少し間を置いてから、静かに頷く。
「一度だけ。わたくしを見下した者に——言葉で返したことがあります。その方は、その後しばらく口をきかなかった」
「それは——正当な反撃だったのでは」
「正当でも——傷つけた、という事実は残ります」と冬姫は言った。「だから——なるべく使いたくない」
時貞はしばらく冬姫を見た。
(十七歳で——そこまで考えている)
「冬姫殿」と時貞は言った。
「はい」
「七島に来てくれて——ありがとうございます」
冬姫は少し驚いた顔をした。
「礼を言われるほどのことでは——」
「いいえ」と時貞は言った。「俺は普段——礼を言うことが少ない。言わなければならないことが多すぎて、忘れがちです。しかし——冬姫殿には、言いたかった」
冬姫は少し目を伏せた。
それから——空を見た。
「わたくしこそ——来られて、よかったです」と冬姫は静かに言った。
「こんな星が見られるとは思いませんでした。天元と話せるとは思いませんでした。そして——時貞様のお話が、少しわかった気がします」
「少し、ですか」
「まだ——遠いところが見えていません。しかし、少しずつ近づいている気がします」
時貞は空を見た。
天の川が、静かに流れていた。
「冬姫殿」と時貞は言った。
「はい」
「七島に来てから——どのくらい居てもらえますか」
「兄とは、十日ほどと話しています」
「十日、ですか」
「長すぎますか」
「短い、と思いました」と時貞は正直に言った。
冬姫が少し笑った。
「では——もう少し、延ばせるか兄に聞いてみます」
「頼みます」
二人は並んで、夏の星を見た。
遠くで波の音がした。
七島の夜が、静かに流れていた。
(第二十八章へ続く)




