第二十五章 ―春の準備、それぞれの道―
一 方針を決める
永禄六年、春。
七島に桜が咲いた。
執務室の窓を開けると、海からの風が桜の花びらを運んできた。
時貞は机に向かい、一枚の紙に書いた。
鳳凰寺家の方針——帝の御下以外には、誰の下にもつかない。
書いて、しばらく見た。
「成瀬」と時貞は呼んだ。
「はい」と成瀬が入ってきた。
「これを——全幹部に伝えてくれ。鳳凰寺家の正式な方針として」
成瀬は紙を読んだ。
「足利将軍家とも——ということですか」
「そうだ」と時貞は言った。「義昭が将軍になった。信長が上洛した。しかし——鳳凰寺は足利の臣下にはならない。帝の権威の下で動く。それ以外の大名、将軍家、いかなる勢力とも——主従関係は結ばない」
「対等か、独立か、という立場ですね」
「そうだ。同盟は結ぶ。協力もする。しかし——頭を下げる相手は、帝だけだ」
成瀬は少し考えてから言った。「信長との会見で——この方針を示すことになりますね」
「ああっ…」と時貞は言った。「それが会見の最も大事な点だ。信長は俺を臣下に取り込もうとするかもしれない。その時に——明確に断る」
「信長が怒るかもしれません」
「怒るかもしれない」と時貞は認めた。「しかし——俺たちの力を信長は知っている。九州を手中にし、帝と血縁で結ばれた勢力を、力で従わせることはできない。信長はそれを計算できる男だ。怒っても——無理には動かない」
成瀬は深く頷いた。
「御意にございます」
前久への書状を書いた。
前久殿へ。
信長との会見の件、お願いしたいことがあります。
一つ。場所は京の中立的な場所を希望します。
俺の土地でも、信長の城でもない場所で。
二つ。形式は——対等な会見として。
俺が信長の臣下として参じる形は、取れません。
それは前久殿にも、事前に理解していただきたい。
三つ。鳳凰寺家の方針として、帝の御下以外には誰の下にもつかないことを、
この機会に公式に示します。足利将軍家も含めて。
前久殿には、この方針をご理解の上、仲介をお願いします。
信長は——賢い。この方針の意味を、理解してくれると思っています。
時貞より。
二 統治研究部門の立ち上げ
その日の午後、時貞は全幹部を集めた。
「新しい部門を作る」と時貞は言った。
全員が聞いた。
「日本統一後の統治形態を研究する部門だ。天元を中心に、幹部の中から数名を専任で当てる」
成瀬が言った。「統治形態の研究——ですか」
「そうだ」と時貞は言った。「俺は今、九州を統治し始めた。薩摩・大隅が鳳凰寺の管轄下にある。今後、日本全体を統一した時——どういう形で統治するのが最も望ましいか。それを今から考えておく必要がある」
「今から、というのは——」と木島が言った。
「百年の計だからだ」と時貞は答えた。「統治の形を間違えると、百年後に崩れる。崩れてからでは遅い。今から研究して、準備しておく」
浜村が手を上げた。「具体的には、どういう方向性で研究しますか」
時貞は少し間を置いた。
「まず——幕府という形態は採らない」
室内が静まり返った。
「幕府は——欠陥がある統治形態だ」と時貞は続けた。「源氏が作り、鎌倉が崩れた。足利が作り、今まさに崩れかけている。武力を持った者が将軍になり、その将軍が力を失えば——また乱世が始まる。その繰り返しだ」
「幕府の何が欠陥なのですか」と成瀬が問うた。
「力の上に作られた秩序は——力が衰えると崩れる。それが根本的な欠陥だ」と時貞は言った。「俺が求める統治は——力だけに依存しない。法に基づき、民の同意があり、仕組みとして機能する。そういう統治だ」
「それは——」と倉橋が言いかけた。
「俺にも、今すぐ答えはない」と時貞は言った。「だから研究する。天元の知識の中に、世界の様々な統治形態がある。日本の歴史の中にも、参考になるものがあるかもしれない。それらを全て洗い出して、この国に合った形を探す」
木島が言った。「帝の存在は、その統治形態の中でどう位置づけますか」
「帝は——日本の根っこだ。それは変わらない」と時貞は即座に言った。「俺が求める統治は、帝を中心に据えながら、実務を担う仕組みを作ることだ。帝が政の全てを担う必要はない。しかし——日本の正統性の源として、帝は必ず中心にいる」
「幕府でもなく、朝廷が全てを担うのでもなく——その間の何か、ということですね」と浜村が言った。
「そういうことだ。その『何か』を、俺たちで作る」
天元が口を開いた。
「私から補足します。幕府制度の主な欠陥として、私が分析したものを申し上げます。一つ、将軍の権威が武力に依存するため、軍事力の低下と同時に権威も低下する。二つ、地方の大名が独自の軍事力を持ち、中央への求心力が常に不安定。三つ、法の整備が武家法に偏り、民の生活を直接保護する仕組みが弱い。四つ、後継者問題が常に不安定要因になる」
「その通りだ」と時貞は言った。「この四点を克服できる統治形態を、研究してほしい」
「了解しました」と天元は言った。「世界の統治形態——ローマ法の体系、中国の科挙制度、各国の議会制度の萌芽——これらを分析して、日本に適した形を模索します。ただし、この時代の日本に、いきなり全てを持ち込むことはできません。段階的な移行計画も、同時に研究します」
「頼む」と時貞は言った。
「一つだけ確認させてください」と天元は言った。「この研究の最終目標は——時貞様が日本を統一した後の統治形態の設計、ということでよいですか」
「そうだ。ただし——最終目標は、俺が作った統治形態を、俺がいなくなった後も動き続けることだ。俺個人に依存しない仕組みを作る。それが最終目標だ」
参謀室が静かになった。
「俺がいなくなった後も」と成瀬が繰り返した。
「そうだ。百年の計は——俺一人では完成しない。次の世代に渡せる仕組みを作ることが、俺の仕事だ」
成瀬は深く頭を下げた。
「御意にございます」
三 台湾の情報
その夜、琉球の榊原から通信が届いた。
尚元王を通じて集められた台湾の情報だった。
時貞は天元に整理させて、報告を受けた。
「私から報告します」と天元は言った。「台湾島の現状について、以下の情報が確認されました」
「聞かせてくれ」
「まず地形についてです。台湾島は南北に細長い島で、中央部に高い山脈が走っています。この山脈の東側は断崖絶壁が海まで落ちており、上陸が極めて困難です。西側は平野が広がっていますが、河川が多く、雨季には氾濫します。島の多くは——密林に覆われています」
「密林の規模は」
「島の七割以上が、人が踏み入れることを拒むほどの密林です。木が高く、光が地面に届かない場所が多い。道と呼べるものは——ほとんどありません」
「気候は」
「亜熱帯から熱帯の気候です。夏は高温多湿で、台風が頻繁に来ます。雨季と乾季があります。そして——」天元が少し間を置いた。「感染症の問題があります」
「詳しく」と時貞は言った。
「密林の中には、マラリアを媒介する蚊が大量にいます。他にも、デング熱、日本脳炎に類似した疾患、そして様々な風土病が存在します。琉球の商人たちの記録では、台湾の西岸に近づいた者が、帰国後に原因不明の高熱で死亡した例が複数あります。特に——密林の内部に踏み込んだ者は、ほとんど戻ってこないとも言われています」
笹木が眉をひそめた。「マラリア——それは深刻ですね」
「笹木先生」と時貞は言った。
「はい」
「対処は可能か」
「完全な予防は難しいですが——キニーネを主成分とした薬が有効です。ただし、この時代の日本にはキニーネが存在しません。ある程度の代替薬は作れますが——密林の奥深くまで入る場合、相当な準備が必要です」
「わかった。続けてくれ、天元」
「はい。そして——最も重要な問題があります」
「何だ」
「台湾原住民族の問題です」
天元が続けた。
「台湾の密林には、複数の原住民族が暮らしています。彼らは——勇敢で、密林の中での戦いに極めて優れています。そして一部の族は——首を切り落とす風習を持っています」
参謀室が静まり返った。
「首を——」と木島が言った。
「はい。敵の首を取ることが、勇敢さの証明とされる文化を持つ族があります。彼らは密林の中に潜み、外来者を——敵と認識した場合、奇襲します。琉球の商人の記録には、台湾の西岸に上陸した者が、密林の中から突然現れた原住民に首を落とされたという記述が複数あります」
「……」
成瀬が言った。「鳳凰寺の陸軍が——島津と戦った時と、全く異なる状況ですね」
「そうだ」と時貞は言った。「島津との戦いは——開けた場所での戦いだった。こちらの遠距離射撃が有効だった。しかし密林の中では——距離が意味をなさない。暗く、視界が利かず、相手は地の利を完全に持っている」
「では——台湾の領土化は、困難ですか」と朝比奈が問うた。
時貞は少し考えてから言った。
「困難だが——不可能ではない。ただし、アプローチが全く異なる。島津の時のように、正面から力でぶつかることはできない」
「どうするのですか」と浜村が問うた。
「まず——原住民族を理解することから始める。彼らがなぜ首を切るのか。どういう価値観を持っているのか。何を脅威と感じるのか。何を友好の印とするのか。それを調べる」
「調べる方法は」
「琉球を通じて、接触できる可能性がある」と時貞は言った。「尚元王に聞いてみる。台湾の沿岸部に暮らす族の中に、琉球と交易のある者がいるかもしれない。そこから、糸口を探す」
「感染症の問題もあります」と笹木が言った。「密林に入る前に、防疫の準備が必要です。医療班の強化と、薬の開発を並行して進めます」
「頼む」と時貞は言った。「台湾は——急がない。しかし、止まらない。まず情報を集める。それから、少しずつ近づく。焦らずに」
天元が言った。「台湾の領土化は——最短でも十年以上の時間がかかると分析されます。しかし、その価値は十分にあります。台湾は——東南アジアへの中継拠点として、将来の海上交易の要になります。そして農地としても、豊かな可能性を持っています」
「わかった。台湾については、長期計画として研究部門でも同時に取り上げてくれ」
「了解しました」
四 白石、再び北へ
春の朝。
七島の港に、「天鷹」が再び準備されていた。
白石蒼一郎は、甲板で乗員たちの最終確認をしていた。
冬の間に体を休め、十分に準備した。
今回の目的はアッツ島への恒久拠点の建設だ。
建材。食料。冬越しのための設備。常駐する人員。
全てを「天鷹」に積んでいた。
時貞が桟橋に来た。
「白石」
「殿」と白石は言った。
「今回は——建てることが仕事だ。戦う必要はない」
「はい」
「しかし——冬が来る前に、必ず帰ってきてくれ。アッツ島の冬は、越せない」
「わかっています」と白石は答えた。「建てたら、帰ります。春になったら、また行きます」
「そのくり返しでいい」と時貞は言った。「急がない。しかし、止まらない」
白石は笑った。
「殿の言葉は、いつも同じですね」
「それが方針だからだ」
「はい」と白石は言った。「殿。一つだけ」
「何だ」
白石は少し間を置いた。
「アラスカで——石油の匂いを嗅いだ時、俺は殿のことを思いました」
「どうして」
「殿は最初から、あそこに石油があることを知っていたようだった。地図を見た時の殿の顔——驚いていなかった。確認した、という顔だった」
時貞は白石を見た。
「……気づいていたか」
「長く一緒にいれば、わかります」と白石は言った。「殿は——俺たちの見えないものが、見えている。俺はそう思っています」
「……」
「理由は聞きません」と白石は言った。「殿を信じているから」
時貞は少し間を置いてから、言った。
「白石。ありがとう」
白石は深く頭を下げた。
「では——行ってきます」
「気をつけてくれ」
「天鷹」が港を出た。
北の海へ向かった。
時貞は船が見えなくなるまで、桟橋に立っていた。
五 冬姫の返書
その夜、冬姫からの返書が届いた。
成瀬が持ってきた時、少し表情が柔らかかった。
「冬姫様からです」
時貞は封を開けた。
冬姫の字だった。
丁寧で、しかし——生き生きとした字だった。
時貞様へ。
お手紙、ありがとうございました。
北と南と中央から同時に知らせが届いた夜に——星のことを書いてくださいました。
それが、わたくしには少し嬉しうございました。
時貞様はいつも、たくさんのことを同時に考えておられるのですね。
七島でお会いした時も、お話の中に、遠いところと近いところが混ざっていました。
わたくしには、その遠いところが、どこなのかまだわかりません。
しかし——時貞様が見ている遠い場所を、少しずつ教えていただけたら、と思います。
一つ、お聞きしてもよろしいですか。
七島には、笹木先生のような女性が働いておられます。
学舎では女子も学べると伺いました。
わたくしは——七島に参りましたら、何かしたいことがあります。
京の公家の女子は、読み書きと歌と、嫁ぐことが仕事です。
しかしわたくしは——もう少し、できることがあると思っています。
時貞様はそれを、許してくださいますか。
星の話を、ありがとうございました。
七島の星を、楽しみにしています。
冬姫より。
時貞は返書を二度読んだ。
「何かしたいことがある」
「できることがあると思っている」
時貞は少し驚いていた。
公家の娘が——そういうことを書く。
前久と同じ、根っこからの強さがあった。
しかし——前久とは違う、温かさがあった。
時貞は筆を取った。
返書を書いた。
冬姫殿へ。
返書、ありがとうございます。
「何かしたいことがある」と書いてくださいました。
許す、というより——それを聞いて、安心しました。
七島では、できることがある者が、それをする。
それが鳳凰寺の考えです。
冬姫殿がしたいことを——来てから、一緒に考えましょう。
一つだけ言います。
俺が見ている遠い場所は——いつか、必ず話します。
今はまだ、言葉にするのが難しい。
しかし——いつか、冬姫殿に話したいと思っています。
星は——春になって、もっときれいになりました。
早く来てほしいと思っています。
時貞より。
書き終えて、時貞はしばらく止まった。
「早く来てほしいと思っています」
書いて——少し赤面した。
三十年分の真田琢磨が、少し恥ずかしがっていた。
しかし——消さなかった。
封じた。
成瀬に渡した。
成瀬は何も言わなかった。
しかし——今度は、目だけではなく、口元も笑っていた。
「必ずお届けします」
六 前久の仲介
翌日、前久からの返書が届いた。
信長との会見の件だった。
時貞殿へ。
会見の件、信長に打診しました。
信長の反応は——「面白い」の一言でした。
鳳凰寺が足利の臣下にならないという方針についても、既に伝えました。
信長は——怒りませんでした。
「話してみなければわからない」と言いました。
場所は——京の妙覚寺はいかがでしょうか。
信長が京でよく使う寺ですが、中立の場として使えます。
形式は——対等な会見として、信長も了承しました。
日取りは、来月の初旬を提案しています。
時貞殿のご都合をお知らせください。
一つだけ申し上げます。
信長は——お前のことを、「早く会いたい」と言っていました。
どういう意味かは、わかりません。
しかし——信長が「早く会いたい」と言うのは、珍しいことです。
近衛前久
時貞は書状を読んだ。
「信長が——早く会いたいと言った」
「珍しいことだと前久殿は書いています」と成瀬が言った。
「信長は——俺の存在を、どう見ているのだろうか」
「気になる相手、ということではないですか」と成瀬は言った。
「そうかもしれない」と時貞は言った。
「殿は——信長をどう見ていますか」
時貞は少し考えてから言った。
「優れた男だと思っている。この時代で最も速く動ける男だ。しかし——俺とは方向が違う」
「どう違うのですか」
「信長は——壊すことが得意だ。古いものを壊して、新しいものを作ろうとする。それは力だ。しかし——壊した後に何を作るかが、まだ見えていない」
「時貞様は?」
「俺は——作ることを先に考える。何を作るかが先にあって、そのために何を変えるかを考える」
成瀬は深く頷いた。
「来月の初旬、妙覚寺でよろしいですか」
「はい。前久殿に伝えてくれ」
七 七島の春の夜
夜、執務室。
時貞は一人で窓を開けた。
春の夜の海が広がっていた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「今日の出来事を整理してくれ」
「はい」と天元は言った。「鳳凰寺家の方針——帝の御下以外には誰の下にもつかないことを、正式に決定しました。統治研究部門を立ち上げました。台湾の詳細な情報が届きました。白石殿が北へ出発しました。冬姫様との書状のやり取りが続いています。そして信長との会見が——来月に決まりました」
「全部、一日か」
「はい」
時貞は少し笑った。
「忙しい一日だった」
「はい。しかし——全て、前に進んでいます」
「台湾は——思ったより難しい場所だな」
「はい。しかし難しい場所ほど——手に入れた時の価値が高い、とも言えます」
「原住民族については——アイヌとの関係で学んだことが活きるかもしれない」と時貞は言った。「アイヌの人々も、最初は警戒していた。しかし——時間をかけて、関係ができてきた」
「台湾の原住民族は——アイヌより複雑です。族が複数あり、それぞれ文化が異なります。一つの族と関係ができても、別の族には通じないことがあります」
「わかった。一族一族、丁寧に向き合う。急がない」
「はい。私もそれが最善だと分析しています」
時貞は星を見た。
来月、信長に会う。
北では白石がアッツ島へ向かっている。
南では榊原が琉球にいる。
台湾の情報が、少しずつ集まってくる。
統治研究部門が、動き始める。
そして——冬姫が来る日が、近づいている。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「冬姫殿の七島訪問の準備を——少し、考えておいてくれ。七島の星が最もきれいに見える場所と、時期を調べておいてくれ」
天元が少し間を置いた。
「——了解しました」
「何だ」
「いいえ。ただ——こういうご依頼は、初めてですので」
時貞は少し苦笑した。
「余計なことを言うな」
「失礼しました」
春の夜の海が、静かに光っていた。
来月——信長と向き合う。
どんな会見になるか。
(信長よ)
時貞は心の中で呼んだ。
お前のことは——よく知っている。
しかし——俺のことは、お前はまだ何も知らない。
その差が——俺たちの間にある、最大の違いだ。
春の風が、七島の夜を渡っていった。
(第二十六章へ続く)




