第二十四章 ―北の記録、南の問い、そして信長―
一 白石、帰る
永禄五年、冬の終わり。
七島の港に、「天鷹」が戻ってきた。
出港からおよそ八ヶ月。
北太平洋を渡り、アリューシャンを越え、アラスカの沿岸を調べ——戻ってきた。
時貞は桟橋で待っていた。
成瀬が横にいた。幹部たちも来ていた。
「天鷹」が接岸した。
白石蒼一郎が最初に降りた。
日焼けして、少し痩せていた。
目が——変わっていた。
遠くを見てきた者の目になっていた。
「白石」と時貞は言った。
「殿」と白石は言った。
二人は向き合った。
「無事に帰ってきてくれた」
「はい」と白石は言った。「持ち帰るものを、持ち帰りました」
白石は大きな革袋を抱えていた。
記録書。サンプル。地図。
八ヶ月分の北太平洋が、その中に入っていた。
「まず休んでくれ」と時貞は言った。「報告は明日でいい」
「いいえ」と白石は即座に言った。「殿に早く見ていただきたいものがあります。今日、見てください」
白石の目が真剣だった。
時貞は頷いた。
「わかった。今夜、聞かせてくれ」
その夜、参謀室。
全幹部が集まった。
白石が地図を広げた。
アリューシャン列島からアラスカ沿岸にかけての、精密な地図だった。
八ヶ月かけて、一ミリずつ測量した地図だった。
「まず地形から説明します」と白石は言った。
地図を指しながら話した。
アッツ島から東へ。島が連なり、やがて大陸に繋がる。
アラスカ半島。そこから北へ、広大な沿岸が続く。
「見てください」と白石は言った。
地図の複数の場所に、印が打たれていた。
赤い印と、黄色い印だ。
「赤が——石油の痕跡が確認された場所です。黄色が——砂金の採取量が特に多かった場所です」
参謀室が静まり返った。
「石油が——これほど広範囲に」と成瀬が言った。
「はい。岩盤から染み出している場所が、沿岸に複数あります。天元に分析してもらったところ——埋蔵量は、この時代の想像をはるかに超える規模だと」
「天元」と時貞が呼んだ。
「はい」と天元が答えた。「白石殿のサンプルを分析しました。アラスカ沿岸の石油埋蔵量は——二十一世紀の基準で言えば、世界有数の規模に相当します。現時点では採掘技術がないため、数値の正確な把握は難しいですが——将来的に、この資源は計り知れない価値を持ちます」
参謀室に、重い静寂が落ちた。
木島が言った。「将来、とはどのくらい先の話ですか」
「五十年から百年後に、この資源が本格的に必要とされる時代が来ます」と天元は答えた。「その時、この土地を押さえているかどうかが——世界の力関係を左右します」
「今から押さえておく意味がある」と倉橋が言った。
「はい。今、旗を立てておくことが——百年後の保険になります」
白石が続けた。
「もう一つ、報告があります」
「何だ」
「アレウト族との接触について、より詳細な記録が取れました」と白石は言った。「彼らは——賢く、穏やかな人々です。最初は警戒していましたが、食べ物を分け合い、身振りで話をするうちに、関係ができてきました」
「言葉は通じたか」
「通じません。しかし——意図は伝わりました。俺たちが敵意を持っていないことは、わかってもらえました」
「それで十分だ」と時貞は言った。
「最終日に——長老らしき老人が、俺に何かを渡しました」
白石が革袋から、小さなものを取り出した。
獣の骨で作られた、小さな飾りだった。
「おそらく——友好の印だと思います。確かではありませんが」
時貞はその飾りを手に取った。
小さく、精巧だった。
誰かが時間をかけて作ったものだった。
「大切にする」と時貞は言った。
白石は深く頷いた。
二 北方戦略の練り直し
翌日、幹部会議。
アラスカの地図が中央に広げられていた。
「北方戦略を、改めて考える」と時貞は言った。「白石の記録を踏まえて、今後の方針を決めたい」
天元が分析を始めた。
「現状の北方戦略は——アリューシャン列島を押さえ、アラスカへの航路を確保することでした。今回の調査で、石油と金の埋蔵が確認されました。これを踏まえて、三段階の方針を提案します」
「聞かせてくれ」
「第一段階——現在。アッツ島に恒久的な中継拠点を建設します。冬を越せる施設。食料の備蓄。測量機器の補充。これを今年中に始めます」
「規模は」
「人員二十名程度が常駐できる施設を想定しています。大きすぎず、しかし継続して人が住める規模です」
「第二段階——五年以内。アラスカ沿岸に最初の恒久拠点を建設します。アレウト族との関係を深めながら、共存できる形で。資源の本格的な調査もこの段階で進めます」
「第三段階——二十年以内。アラスカを鳳凰寺の正式な領土として整備します。ただし——強制的な支配ではなく、アレウト族との合意の上で」
成瀬が言った。「アレウト族との合意、というのは——具体的にどういうことですか」
「彼らの土地を俺たちが使わせてもらう代わりに——彼らに医療と技術を提供する。薩摩でやったことと同じです」と時貞は言った。
「なるほど」
「力で奪うことは——しない。それが鳳凰寺の流儀だ」
木島が地図を見ながら言った。「アッツ島の恒久拠点の建設は——いつ始めますか」
「春になったら」と時貞は言った。「冬の北海は危険だ。白石も休ませてやりたい」
白石が苦笑した。「殿。俺はまだ動けます」
「休め」と時貞は静かに言った。「お前が帰ってきてくれたことが——一番大事だ。次の旅は、体を整えてからだ」
白石は何も言えなかった。
深く頭を下げた。
三 信長、動く
永禄六年、秋。
足利義昭を奉じた信長が、上洛を開始した。
京への道が、開かれていた。
近江の六角氏が退き、三好三人衆が逃げた。
信長の軍は——止まらなかった。
史実では永禄十一年(1568年)の出来事である。鳳凰寺の出現によってこの世界線では、このような変化が起こっていた。
京。
前久は御所と近衛家の邸を往復しながら、情報を集め続けていた。
信長の軍が近江に入った時点で、前久は既に動き始めていた。
帝への報告。朝廷内の意見の整理。義昭の将軍就任に向けた手続きの準備。
全てを同時に動かしていた。
「前久殿」と晴良が言った。「信長の軍が、もうすぐ京に入ります。準備は」
「整っています」と前久は答えた。「帝も——信長の上洛を受け入れる準備ができています」
「帝は——信長をどうお思いでしょうか」
前久は少し考えてから言った。「帝は——信長を利用できると思っておられます。そして信長も、朝廷を利用しようとしています。互いに利用しようとしている。その中で——朝廷が主体性を持ち続けることが、俺の仕事です」
晴良が頷いた。
「時貞殿は——信長の上洛についてどのようにお考えですか」
「書状が来ています」と前久は言った。
懐から書状を取り出した。
前久殿へ。
信長が動きました。上洛は時間の問題です。
俺は信長に——会いに行くつもりです。
今ではありません。信長が京に入り、義昭を将軍にし、自分の立場が固まった後に。
その時に——俺が動きます。
前久殿には、信長の上洛を自然に受け入れてほしい。
拒絶しても意味がない。力の差がある。
しかし——受け入れる際の条件と形を、丁寧に作ってください。
帝の主体性が残る形で。
信長が何者かは、俺はよく知っています。
優秀で、速く、自分の意志を最優先にする。
しかし——俺たちには、信長が持っていないものがあります。
帝との真の信頼関係。九州の基盤。北の記録。そして——時間です。
急がない。しかし——止まらない。
時貞より。
晴良は書状を読んだ。
「『信長が何者かは、よく知っている』——これはどういう意味でしょうか」
「俺にもわかりません」と前久は言った。「しかし——時貞殿が言うことは、今まで全て正しかった。美濃を取る時期も。宗麟殿が動く時期も。全て——前もって知っていた」
晴良は少し黙った。
「時貞殿は——何者なのでしょうか」
前久は答えなかった。
ただ——窓の外を見た。
信長の軍が来る方向を。
「わからない」と前久はついに言った。「しかし——信じている。それだけで、今は十分です」
信長の軍が京に入ったのは、それから十日後のことだった。
帝は信長を受け入れた。
前久が整えた形で。
朝廷が信長を「受け入れた」という形で。
信長に「押し込まれた」ではなく。
その差は——小さく見えて、大きかった。
義昭が征夷大将軍に就任した。
京の政治が、動き始めた。
前久は帝に参内した。
「信長は——どういう印象でしたか」と帝は問われた。
「速い方です」と前久は答えた。「全てが、速い。決断も、行動も。そして——周囲を見る目が、鋭い」
「恐ろしいか」
「恐ろしい、というより——」前久は少し考えた。「読みにくい、というのが正直なところです。何を考えているかが、見えにくい」
「時貞とは——違うな」
「はい。時貞は——方針が明確です。急がない、焦らない、止まらない。一貫しています。しかし信長は——瞬時に変わる。それが強さでもあり、読みにくさでもあります」
帝はしばらく考えられた。
「時貞が信長に会いに行くと——書いてきた」
「はい」
「それは——いつだ」
「時貞殿の判断次第です。しかし——信長が京に慣れた後、と書いていました」
帝は静かに頷かれた。
「その会見を——朕は楽しみにしている」
前久は少し驚いた。
「楽しみに?」
「日本で最も速い者と——日本で最も遠くを見ている者が、向き合う。それは——面白い場面になるだろう」
前久はその言葉を聞いて、わずかに笑った。
「確かに——そうですね」
四 榊原への問い
琉球・首里城。
尚元王は榊原を再び呼んだ。
前回よりも、打ち解けた雰囲気があった。
「榊原殿」と尚元王は言った。
「はい」
「俺はお前たちのことを、しばらく見ていた」と尚元王は言った。「お前たちの医師が村の病を治した。お前たち自身が、笑って食事をし、島の者たちと話をしようとした。怖がらせることも、見下すこともしなかった」
「はい」
「だから——聞く」と尚元王は言った。「正直に答えてくれ。鳳凰寺は——琉球に、何を求めているのか」
榊原は少し間を置いた。
この問いが来ることは、時貞から事前に言われていた。
「正直に話せ。全て話せ。隠し事をした相手とは、長い関係は作れない」
榊原は頷いてから、話し始めた。
「三つのことを、お話しします」
「聞こう」
「一つ目——台湾島のことです」
尚元王が少し目を動かした。
「台湾島」
「はい。あの島が、明国にとって——化外の地であるかどうかを、俺たちは知りたいと思っています。明国との関係が深い琉球を通じて、確かめていただけますか」
「なぜ台湾のことを聞く」
「鳳凰寺は、台湾を将来の領土として考えています」と榊原は正直に言った。「しかし——明国が領土として主張している場所に、勝手に入ることはできません。まず実態を知りたい」
尚元王はしばらく考えた。
「台湾は——明国の水軍も、頻繁には近づかない島だ。公式には明国の領土ではない、化外の地と扱われている。しかし——完全に無視されているわけでもない」
「その実態を、より詳しく確認していただけますか」
「……続けてくれ」と尚元王は言った。「二つ目を聞こう」
「二つ目——台湾を領土化するにあたり、琉球に拠点を置かせていただきたいと思っています」
尚元王の目が、わずかに細くなった。
「拠点を、琉球に」
「はい。台湾と九州の中間に、琉球があります。台湾の開発を進める際の中継点として——琉球に、鳳凰寺の人員と物資が一時滞在できる場所を、お借りしたいのです」
「それは——琉球に、鳳凰寺の兵が来るということか」
「兵ではありません」と榊原は即座に言った。「技術者と商人です。台湾への行き帰りに立ち寄る。それだけです。軍事的な拠点は求めていません」
尚元王はしばらく黙った。
「続けてくれ。三つ目を」
「三つ目は——純粋な貿易です」と榊原は言った。「これが、俺たちの最も直接的な目的です」
「貿易」
「はい。鳳凰寺は七島、薩摩・大隅を持っています。将来は台湾も加わります。琉球は——東南アジアとの中継貿易で長年栄えてきました。その経験と人脈を、俺たちは持っていません」
「鳳凰寺が持っていないものを——琉球が持っている、ということか」
「はい」と榊原は答えた。「俺たちは北太平洋の記録を持っています。薩摩の港を持っています。南蛮商人への対抗力を持っています。しかし——東南アジアとの繋がりは、弱い。そこを琉球と一緒にできれば、互いに得るものがある」
尚元王はしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
榊原は待った。
焦らなかった。
時貞が言っていた。「琉球には時間を与えろ。急かすな」と。
尚元王がついに口を開いた。
「——正直な話だった」
「はい。隠すことは——長い関係を作れません。当主の方針です」
「台湾の件は——俺が明国に確かめる。ただし、時間がかかる。急かさないでくれ」
「もちろんです」
「拠点の件は——条件次第だ。軍事的な利用は、絶対に認めない。それを書面で約束してくれるなら——考える」
「書面を作ります。持ち帰って、当主の署名をもらってきます」
「貿易については——話し合いを続けよう」と尚元王は言った。「俺も、琉球の貿易が縮小していることは悩みだ。鳳凰寺と組むことで、何が変わるか——もっと詳しく聞きたい」
「はい。喜んで」
尚元王は立ち上がり、窓の外を見た。
琉球の青い海が広がっていた。
「榊原殿」と尚元王は言った。
「はい」
「俺は今まで——力を持った者が、正直に話してきたことがなかった」
榊原は静かに聞いた。
「大国は——力を背後にして、要求してきた。明もそうだった。南蛮もそうだった。しかし鳳凰寺は——力を持ちながら、まず話しかけてきた」
「当主の方針です」と榊原は答えた。「時貞殿は——力があるからこそ、丁寧に話すべきだと言っています」
「力があるからこそ、丁寧に」と尚元王は繰り返した。「……それは、なかなか言えることではない」
「はい。俺たちも——時々、驚きます」
尚元王は少し笑った。
「時貞殿という方に——いつか会いたいものだ」
「必ず、その機会を作ります」
「うむ」と尚元王は言った。「では——もう少し、話を続けよう。急がなくていい。今夜は食事をしていきなさい」
「ありがとうございます」
琉球の夕日が、海を染め始めていた。
榊原は胸の中で、七島の方角に向かって言った。
(殿。最初の扉が——開きました)
五 七島の夜
七島の執務室。
時貞は三つの書状を読んでいた。
白石の報告。前久からの信長上洛の報告。琉球での榊原の報告。
全てを読んで、机に置いた。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「整理してくれ」
「はい」と天元は答えた。「北では、アラスカ拠点建設の準備が整いました。南では、琉球との対話が最初の扉を開きました。台湾への道筋が見えてきました。そして——中央では、信長が上洛しました。日本の政治が大きく動き始めます」
「台湾の件は——明国との確認が必要だな」
「はい。尚元王が確認を進めてくれます。しかし——天元の知識では、台湾は史実上、この時代は明国の版図に入っていません。化外の地として扱われています」
「わかった。しかし——尚元王に確かめてもらうことに意味がある。俺たちが一方的に『化外の地だから取る』では——正当性がない。琉球を通じて確認した上で動く。それが筋だ」
「了解しています」
時貞は窓を開けた。
冬の終わりの夜風が入ってきた。
「天元。信長についての情報を整理してくれ。これから向き合う可能性が高い。相手を知っておきたい」
「了解です」と天元は言った。「織田信長。現在三十歳。尾張・美濃を押さえ、足利義昭を奉じて上洛しました。天下布武の印を使い、天下統一を目指しています。優れた戦略眼と、圧倒的な行動力を持っています。ただし——朝廷を道具として使おうとする傾向があり、自分の権威を最優先にします」
「俺が信長に会うとすれば——何を話すべきか」
「時貞殿が決めることです」と天元は言った。「しかし——信長は、対等な相手と話すことを好みます。力を見せた上で、対等に話す。それが最も効果的な接し方だと分析されます」
「力を見せる」
「はい。信長は力を尊重します。言葉だけでは動きません。九州を手中にした事実。錦の御旗を持った事実。帝との関係。それを信長に示した上で、話す」
「急がない」と時貞は言った。「信長が京に慣れた頃に、動く」
「はい」
時貞は星を見た。
北の星。南の星。
そして——京の方角。
やることは多い。しかし——焦らない。
それぞれに、適切な時間がある。
「成瀬を呼んでくれ」と時貞は言った。
成瀬がすぐに来た。
「信長への書状を準備してくれ。まだ出さない。しかし——準備しておく」と時貞は言った。「そして前久殿には、俺が動く時期を伝える。信長が京に慣れた頃——来年の春以降に、会いに行くと」
「はい」
「琉球の榊原には——よくやったと伝えてくれ。台湾の件の書面を作る。署名して送る」
「御意」
「白石には——体を休めてから、春にアッツ島への準備を始めると伝えてくれ」
「はい」
「それから——冬姫殿へ。書状を書く。少し待ってくれ」
成瀬が静かに頷いた。
時貞は机に向かった。
筆を取った。
冬姫への書状を書いた。
冬姫殿へ。
今夜、北と南と中央から、同時に知らせが届きました。
やることが、たくさんあります。
しかし——七島の夜の星がきれいでした。
冬姫殿に見せたいと思いました。
いつか、必ず七島に来てください。
この星を——一緒に見ましょう。
時貞より。
書き終えて、時貞は少し止まった。
これは——政略結婚の書状ではなかった。
ただの、手紙だった。
時貞は少し苦笑した。
(真田琢磨。お前は三十年、こういう手紙を書いたことがなかったな)
封じた。
成瀬に渡した。
成瀬は書状を見て、何も言わなかった。
ただ——目が、少し温かくなっていた。
「必ずお届けします」と成瀬は言った。
冬の七島の夜が、静かに更けていった。
(第二十五章へ続く)




