第二十章 ―天鳳、薩摩へ落つ―
一 近衛前久、見る
永禄五年、夏。
旗艦「鳳凰」の艦橋に、近衛前久は立っていた。
七島を出て三日。
薩摩の海が、眼下に広がっていた。
前久は生まれてから二十一年、京から出たことがなかった。
正確には、近郊の寺社への参詣はあった。しかし——海を渡ることも、軍船に乗ることも、これが初めてだった。
七島を出港した時、前久は艦の大きさに既に驚いていた。
全長百五十メートルを超える旗艦。
鉄でできた艦体。波を切る速さ。煙突から上がる煙もなく、音もなく、ただ滑るように進む。
(何だ、これは)
それが最初の感想だった。
しかし——乗っていく間に、驚きは別の感覚に変わっていった。
「天元」と呼べば、答えが来る。九州のどこで何が起きているか、瞬時にわかる。空を飛ぶ機器が薩摩の上空を飛んで、地上の様子を映し出す。
前久はその映像を見た時、声が出なかった。
空から見た鹿児島の城。
島津の軍が動いている様子。
「——空から、見えるのか」と前久は呟いた。
「偵察機の映像です」と浜村が説明した。「鳥のように飛ぶ機器が、地上を映して送ってくれています」
前久はしばらく、その映像を見た。
「島津は——俺たちの動きを、知っているのか」
「海上の艦は見えます。しかし——どこから何が来るかは、知らないはずです」
前久は窓の外を見た。
薩摩の海岸線が近づいていた。
「時貞殿」と前久は言った。
「はい」と時貞が答えた。
「この艦は——これが最強の艦なのか」
時貞は少し考えた。
「最強ではありません」
前久が目を動かした。
「上には上があります。鳳凰寺の軍事力の中で、今回の作戦に使っているのは——一部です」
「一部」
「海軍で言えば、今回出ている十三隻は、鳳凰寺海軍の三分の一程度です。残りは七島と、別の海域にいます」
前久は黙った。
「陸軍も同じです。今回の上陸部隊は二千名。鳳凰寺陸軍の全体ではありません」
「……空軍というものも」
「今回の偵察機は、空軍力の一部です。攻撃能力を持つ機器は、今回は使いません。使う必要がないからです」
前久は少し間を置いてから、言った。
「なぜ——使わないのか」
「帝が言われました。戦で死ぬ者を少なくしろ、と」と時貞は答えた。「最大の力を使えば、島津はより早く崩れます。しかしより多くの者が死にます。そうではなく——最小限の力で、最大の効果を出す。それが今回の作戦の方針です」
前久は時貞を見た。
十二歳の少年が、静かにそう言った。
「時貞殿」と前久は言った。
「はい」
「俺は今まで——様々な大名の力を見てきた。信長の軍も。上杉の軍も。書状で聞いていた。しかし」
前久は窓の外の海を見た。
「俺は今、朝廷の当主として、お前の軍の中にいる。そして思う」
「何をですか」
前久は振り返り、時貞を真正面から見た。
「この力は——日本に一つしかあってはならない」
時貞は前久の言葉を、静かに受け取った。
「どういう意味ですか」
「誰かがこの力を持った時——その者の心が真っ直ぐでなければ、日本は終わる。城も、民も、朝廷も、全てが壊れる。お前以外の誰かがこの力を持っていたとしたら——と思うと」
前久は言葉を切った。
「俺は今、それを思って——震えている」
時貞は前久を見た。
「前久殿」
「はい」
「俺が——真っ直ぐかどうかは、行いで示すしかありません。今まで示してきた。これからも示し続けます」
「わかっている」と前久は言った。「わかっているから、俺は今ここにいる」
二人は向き合った。
艦が、薩摩の海を進んでいた。
前久はその後も、艦の各所を見て回った。
医療室に、手術台がある。薬品が整然と並んでいる。笹木が管理している部屋だ。
通信室に、七島と、空を飛ぶ偵察機と、他の艦と、同時に繋がっている装置がある。
火器庫は見せてもらえなかった。
「あの部屋は見せられません」と成瀬が言った。「申し訳ありません」
「構わない」と前久は言った。「俺が全てを知る必要はない」
夕刻、前久は艦尾の甲板に出た。
薩摩の夕日が、海を赤く染めていた。
(この力を——時貞は持っている)
前久は思った。
しかも十二歳で。
十二歳が、帝を動かし、道雪を動かし、龍造寺を動かし、今この艦隊を率いて薩摩に向かっている。
(俺はこの者と——共に動く決断をした)
その決断を、前久は後悔していなかった。
ただ——責任の重さを、改めて感じていた。
この力が正しく使われるよう、朝廷として関わり続けること。
時貞が真っ直ぐであり続けるよう、時に諫め、時に支えること。
それが——近衛前久の、この乱世での役割だと思った。
錦の御旗が、夕風に揺れていた。
二 海上封鎖
翌朝の夜明け前。
薩摩沿岸に、鳳凰寺艦隊が展開した。
十三隻が、薩摩・大隅の主要港を全て塞ぐ位置に着いた。
山川港の沖。坊津港の沖。鹿児島湾の入口。志布志湾の出口。
夜明けの光の中で、鉄の艦が静かに浮かんでいた。
鹿児島の城の望楼から、島津義久は海を見た。
「……全部、塞がれた」
鹿児島湾の入口に、鉄の艦が二隻。
動かない。
ただ、そこにいる。
「義弘」と義久は呼んだ。
「はい」と義弘が答えた。
「水軍を出す」
義弘が少し間を置いた。
「……出します」
島津水軍の関船が、山川港から出た。
二十隻。
薩摩の精強な水軍だ。
長年、九州の海で戦ってきた者たちだ。
先頭の船が、鳳凰寺艦の方向へ向かった。
「——止まれ」と旗信号が来た。
島津の水軍船長は無視した。
さらに前進した。
「これ以上進めば、警告射撃を行う」
無視した。
砲声が轟いた。
島津の関船の、前方三十メートルに水柱が上がった。
関船が止まった。
乗員たちが甲板に出て、水柱の跡を見た。
一発。
たった一発で、あの水柱が上がった。
艦砲の精度と威力が——関船の乗員たちに、一瞬で伝わった。
「……退け」と船長は言った。
声が、かすかに震えていた。
二十隻の関船が、山川港へ戻った。
この一連のやり取りは、二刻もかからなかった。
島津水軍は、一人の死者も出さずに、封鎖を受け入れた。
「さすがに賢い」と倉橋が言った。
「薩摩の海の者たちは、力の差を直感で読める」と永田が答えた。
旗艦「鳳凰」に報告が届いた。
「全港封鎖完了。島津水軍の抵抗なし」
時貞は報告を聞いた。
「よかった」と言った。
「時貞殿」と前久が言った。
「はい」
「——水軍が退いた」
「はい。死者が出なかった」
前久はその言葉の意味を、少し考えた。
鳳凰寺の力を見て、島津水軍は戦わなかった。
それは——鳳凰寺にとっては、最も望ましい結果だった。
「力を見せることで、戦を防いだ」と前久は言った。
「はい。できれば——陸でもそうしたい」と時貞は言った。「しかし、陸はそう上手くはいかないかもしれない」
「義弘が戦を選ぶとすれば——陸だな」
「はい」
前久は静かに頷いた。
三 三方からの包囲
同じ頃、大友領との境界。
立花道雪は、主力五百を率いて南下を始めていた。
日向の北部、延岡付近。
ここは大友と島津の勢力が複雑に絡み合う地帯だ。
「島津の北への道を塞ぐ」
それだけが道雪の目的だった。
戦をする必要はない。
そこにいるだけでいい。
しかし——道雪の旗が上がれば、島津の北方の将は動けない。
道雪という名の重さが、そのまま壁になる。
本田正親が馬を並べた。
「道雪様。鳳凰寺の艦が薩摩の海を封鎖したとの報告です」
「そうか」と道雪は言った。
「速いですな」
「時貞殿らしい」と道雪は言った。「無駄がない」
道雪は南の空を見た。
「俺はここにいる。それだけでいい」
本田が頷いた。
「それが——道雪様の、この戦での役割ですな」
「そうだ」と道雪は言った。「俺の役割は——壁だ。時貞殿が前を叩く間、後ろで静かに立っている」
馬が、夏の草原を踏んだ。
道雪の旗が、南風に揺れた。
同じ頃、大隅の東岸。
龍造寺隆信は、鍋島直茂と共に、志布志湾の北側に兵を展開していた。
「鳳凰寺の艦が志布志湾の出口を塞いだ」と直茂が報告した。
「では俺たちは陸から南蛮商人の逃げ道を塞ぐ」と隆信は言った。
大隅の港に出入りしていた南蛮商人の仲買人たち——その者たちが陸路で逃げようとすれば、龍造寺がいる。
「隆信様」と直茂が言った。
「何だ」
「鳳凰寺の動きを見ていると——本当に隙がありませんな」
「ああ」と隆信は言った。「海は封じた。北は道雪の爺さんが塞いだ。東は俺たちがいる。西は海だ」
「完全な包囲です」
隆信は少し考えてから言った。
「時貞殿は——十二歳で、これをやっている」
直茂が頷いた。
「どういう頭をしているのか、俺にはわからん」と隆信は言った。「しかし——間違いなく、俺より遠くを見ている」
直茂は隆信の顔を見た。
龍造寺隆信が、他の誰かを「遠くを見ている」と言うことは——珍しいことだった。
「隆信様」
「何だ」
「この戦が終わった後——薩摩は鳳凰寺の領土になります」
「そうだな」
「九州に、七島以外の鳳凰寺の土地ができる」
「わかっている」と隆信は言った。「で、俺が何を心配しているか、お前には見えるか」
「……隣に、強大な勢力ができる、ということですか」
「心配はしていない」と隆信は即座に言った。「俺は時貞殿とあの港で話した。あの者は俺たちの土地を取るつもりはない。取るなら、もっと早くできた」
「では」
「ただ——覚えておけ、ということだ」と隆信は言った。「俺たちの隣に、この力がある。それを忘れるな。そしてその力と共に動くために——俺たちは役に立ち続けなければならない」
直茂は深く頷いた。
「御意にございます」
四 義弘、戦を選ぶ
薩摩・川内平野。
島津義弘は三千の兵を率いて、鳳凰寺の上陸予定地点へ向かっていた。
串木野の浜。
ここが最初の上陸地点と、偵察の報告で分かっていた。
義弘は馬上で、海を見た。
沖合に、鉄の艦が見えた。
「——あれが、鳳凰寺の艦か」
「はい」と家臣が答えた。
「弓は届かないな」
「届きません。とても遠い」
義弘は少し考えた。
「水軍が退いたことは聞いた」
「はい」
「海では戦えない。しかし——陸は別だ」
義弘は振り返り、三千の兵を見た。
薩摩隼人。
九州最強と言われる精兵たちだ。
「俺たちは陸で戦う。浜で迎え撃つ」と義弘は言った。「上陸してくる者を、浜で叩く。海から支援されても——陸の戦は俺たちの土俵だ」
家臣たちが頷いた。
薩摩隼人の誇りが、目に宿っていた。
夜明け前、串木野の浜。
鳳凰寺の上陸用艦艇が、浜へ向かってきた。
浜には、島津の兵が布陣していた。
三千。松明を消して、暗闇の中に潜んでいた。
義弘は命じた。
「上陸してくる者が浜に足をつけた瞬間——一斉に攻める。数で圧倒する」
家臣たちが頷いた。
しかし——夜明け前の暗闇の中で、義弘には見えなかった。
上陸用艦艇の周囲に、小型のものが浮かんでいた。
無人偵察機が、低空を飛んでいた。
熱源探知で、浜の布陣を全て捉えていた。
「敵の配置、確認できています」と通信が入った。「浜に三千。弓隊と鉄砲隊が前列。槍隊が後方です」
旗艦で時貞はその情報を受け取った。
「上陸隊に伝えてくれ。浜への直接上陸は中止。北側の岩場から迂回する。島津の側面へ回り込む」
「御意」
義弘は待った。
上陸用艦艇が浜に近づいてくる。
あと五十メートル——
艦艇が止まった。
「——?」
義弘は目を細めた。
艦艇が動いた。
北へ向かって、横移動している。
「奴ら、何をしている——」
気づいた時には遅かった。
北の岩場から、鳳凰寺の兵が上陸していた。
五 初の本格戦闘
鳳凰寺陸軍・第一大隊。
岩場を乗り越え、砂地に降り立った。
五百名。
迷彩服。鉄帽。防護装備。各自が近代的な小銃を持っている。
島津の弓隊が気づいた。
「——北だ、北に来ているぞ!」
義弘が叫んだ。「槍隊、北へ向け!」
三千の兵が回転し始めた。
しかし——暗闇の中での方向転換は、混乱を生んだ。
「第一大隊より報告。島津軍、方向転換中。混乱あり」
時貞は聞いた。
「警告を出してくれ。大音量で」
艦の特殊装備から、轟音が響いた。
夜の浜に、声が広がった。
「鳳凰寺家当主より告げる。帝の錦の御旗の下、島津家は朝敵と定まった。降伏した者の命は保証する。武器を置け。戦う必要はない」
その声が、浜一面に響いた。
薩摩の兵が、一瞬止まった。
「怯むな!」と義弘が叫んだ。「薩摩隼人が、声に怯えてどうする!」
義弘の声が、兵たちを立て直した。
槍隊が、北へ向けて突撃を始めた。
鳳凰寺の第一大隊隊長・江崎武蔵が命令を出した。
「前列、威嚇射撃。足元を狙え。一斉に」
夜の浜に、銃声が轟いた。
鋭い。速い。連続した音。
突撃してきた槍隊の足元の砂が、次々と跳ね上がった。
槍隊が止まった。
足元が火花を散らしている。
それでも——止まらない者がいた。
薩摩隼人の中の、最も勇敢な者たちが、それでも前に来た。
「——止まれ!」と江崎が叫んだ。
止まらなかった。
「射撃——足を狙え。腹より下」
銃声。
突撃してきた者の数名が、足を撃たれて倒れた。
絶命はしていない。
倒れた。
周囲の兵が、その様子を見た。
遠い。暗い。見えていない距離から——撃たれた。
それが薩摩の兵に、初めて恐怖を植え付けた。
「義弘様!」と家臣が叫んだ。「前列の者が次々と倒れています。しかし——死んでいません。足を撃たれています」
義弘は状況を把握した。
「奴ら、殺していない」
「はい。意図的に、足を狙っているようです」
義弘は歯を食いしばった。
(殺さずに、止めようとしている)
その判断が——義弘には、かえって腹立たしかった。
「哀れみか」と義弘は呟いた。
しかし同時に——冷静な部分で考えた。
この距離で、暗闇の中で、足だけを狙える。
それは——殺そうと思えば、殺せるということだ。
殺さないのは——選択だ。
「……」
義弘は兵を見た。
前列が崩れている。足を撃たれた者が、浜に倒れている。
死者はいない。
しかし——前に進めない。
暗闇の向こうから、こちらには届かない武器で、的確に撃ってくる。
(これは——勝てない戦だ)
義弘は生まれて初めて、そう思った。
「……退け」と義弘は言った。
「義弘様!」
「退け!」と義弘は繰り返した。「これ以上前に出ても、倒れるだけだ。浜を捨てろ。川内まで退く」
家臣たちが絶句した。
島津義弘が、退くと言った。
その言葉は——薩摩の兵に、電流のように走った。
義弘が退くと言うなら——これは本当に、退かなければならない戦だ。
三千の兵が、川内の方向へ動き始めた。
鳳凰寺の第一大隊が浜を確保した。
江崎が報告した。
「浜を制圧。島津軍は退きました。我が方の死傷者——なし」
「島津の負傷者は」
「確認できた範囲で、二十三名。全員、足の負傷です。死者はいません」
時貞は報告を聞いた。
「負傷者を医療班に渡してくれ。手当てをする」
「——島津の兵を、ですか」
「はい。敵も味方も関係ない。負傷した者の手当てをするのが、鳳凰寺の流儀だ」
江崎は一瞬、驚いた顔をした。
「御意」
浜で手当てを受けた島津の兵の一人が、鳳凰寺の医療班員を見上げた。
「……なぜ手当てを」
「傷が痛いだろう」と医療班員は答えた。「それだけです」
島津の兵は、しばらく黙っていた。
「殺さなかったのも——同じ理由か」
「そうです。帝が言われました。戦で死ぬ者を少なくしろ、と。俺たちはその命令に従っています」
島津の兵は天を見た。
夜明けが近かった。
「……薩摩隼人が、お前たちに負けた」と静かに言った。
怒りではなかった。
ただ——事実を言っていた。
六 義久の決断
鹿児島の城。
義久は伝令からの報告を聞いた。
串木野の浜で、義弘が退いた。
死者はいない。しかし——退いた。
義弘が。
九州最強と言われる薩摩隼人が率いる三千が。
五百の鳳凰寺軍に——退かされた。
義久は長い間、動かなかった。
窓の外に、夏の夜が広がっていた。
海の向こうに、鉄の艦が浮かんでいる。
北には道雪がいる。
東には龍造寺がいる。
南も西も海で、封じられている。
そして空から見られている。
(俺たちは——包囲されている)
それは戦術的な包囲だけではなかった。
朝廷の権威で包囲されている。
道雪という「義」で包囲されている。
帝の御書を踏みにじり、鳳凰寺の者を殺し、日本人を南蛮船に積んだ——その事実で包囲されている。
「——俺の判断が、間違っていた」
義久は静かに言った。
一人だった。
誰にも聞かれていない場所で、そう言った。
非義の勅命は勅命に有らず——そう言った。
しかし——それは自分たちの都合で作った論理だった。
日本人が売買されている実態を、黙認どころか加速させた。
鳳凰寺の艦を夜襲した。それで鳳凰寺の者が死んだ。
それは——薩摩の誇りで正当化できる話ではなかった。
義久は立ち上がり、窓を開けた。
夏の夜風が入ってきた。
「使者を出す」と義久は言った。
一人の家臣が、暗闇の中から答えた。
「どちらへ」
「鳳凰寺へ。旗艦に使者を送る」
家臣が驚いた。
「どのような用件で」
「降伏の交渉を——したいと伝える」
家臣が息を飲んだ。
「義弘様は——」
「義弘は戦を選ぶだろう。しかし俺は——この戦を続けることに、意味がないと判断した」
義久は夜空を見た。
「民が死ぬ。家臣が死ぬ。それ以上に——もはや勝てない相手だ。勝てない戦を続けることは、勇敢ではなく、無謀だ」
家臣は何も言えなかった。
「使者を出せ」と義久は繰り返した。
「——御意」
七 前久、見届ける
旗艦「鳳凰」の艦橋。
夜明けが来た。
浜を確保した報告。道雪が北で動いている報告。龍造寺が東で展開している報告。
全ての情報が、天元を通じて集まってきた。
前久はその全てを横で聞いていた。
「時貞殿」と前久は言った。
「はい」
「島津の負傷者を、手当てしているのか」
「はい」
前久は少し間を置いた。
「——それが、お前のやり方か」
「帝の言葉を守っています」と時貞は答えた。「敵も民も関係ない。傷ついた者を放置することは、俺にはできない」
前久は窓の外を見た。
夜明けの浜に、浦の篝火が見えた。
その近くで——鳳凰寺の医療班が、島津の兵の手当てをしている。
「朝廷の使いとして来た俺が——言える言葉は一つだ」と前久は言った。
「何でしょう」
「この戦を——帝に、正直に報告する。全て。死傷者の数も。島津の負傷兵を手当てしたことも。何一つ隠さずに」
「それで構いません」
「そしてもう一つ」と前久は言った。「俺はこの戦を見た。目で見た。これを——俺が生涯、証言し続ける」
「何のために」
前久は時貞を見た。
「お前が持っている力が、正しく使われたという事実を——後の世に伝えるために」
時貞は前久の言葉を受け取った。
しばらく、二人は沈黙した。
夜明けの光が、海を染めていた。
鉄の艦体が、朝日を受けて輝いた。
錦の御旗が、夏の朝風に揺れていた。
その時、通信が入った。
「旗艦へ。島津の使者が来ています。義久からの使者と名乗っています。降伏の交渉を、したいとのことです」
艦橋に、静寂が落ちた。
時貞は成瀬を見た。
成瀬が静かに頷いた。
前久が目を閉じた。
「——来た」と前久は静かに言った。
「はい」と時貞は答えた。
「使者を通してくれ。丁重に」
通信に向かって、時貞は静かに言った。
夏の海が、朝日に輝いていた。
薩摩の大地が——間もなく、鳳凰寺家の最初の領土になろうとしていた。
七島の外に、初めての土地が生まれる。
それは——百年の計の、最初の一歩だった。
(第二十一章へ続く)




