第十八章 ―血と覚悟―
一 平戸の証拠
永禄五年、初夏。
風間新八郎は平戸に入って十日が経っていた。
平戸は博多より小さな港町だが、南蛮船の来航が多い。ポルトガル商人たちの拠点として、既に根を張っていた。
風間は今回、別の手を使った。
博多で動けなくなった仲買人が平戸に流れていることはわかっていた。その仲買人たちの一人に、金で近づいた。
男の名は市之丞。三十代の、細身で目つきの悪い男だ。
「俺も商売をしたい」と風間は言った。「博多で顔を知っている者から、あなたの名を聞いた」
市之丞は最初、警戒した。
しかし風間が見せた銭の量が、警戒を溶かした。
三日かけて、市之丞は話した。
仕入れのルート。売り先の南蛮商人の名前。価格の相場。そして——どこで人を集めるか。
風間は全てを記録した。
音声も記録した。天元が後で分析できるよう、小型の記録機器を懐に忍ばせていた。
四日目に、市之丞は具体的な取引の話を持ちかけた。
「今度の船に、あと十人ほど乗せたい。うち女が六人、子供が四人。集められるか」
風間は内心で拳を握りながら、静かに頷いた。
「集めてみましょう」と言った。
そして——その夜、全ての記録を七島へ送った。
翌日、もう一人の仲買人の証拠も揃った。
こちらは別の班員が担当していた。
名は弥三郎。五十代の、太った男だ。
弥三郎は長年この商売をしており、南蛮商人との信頼関係が深かった。
彼の帳面には——過去五年分の取引記録があった。
何人を、いくらで、どの船に積んだか。
班員はその帳面を、弥三郎が寝た隙に書き写した。
七島に届いた時、浜村が報告書をまとめた。
「平戸の仲買人、七名のうち五名の証拠が揃いました。残り二名も、時間の問題です」
時貞は報告書を読んだ。
「道雪殿に送る」と即座に言った。「大友領内にいる者については、道雪殿に動いてもらう。平戸については龍造寺殿に頼む」
「直茂殿に連絡を入れますか」
「すぐに」
二 道雪、動く
道雪は報告書を受け取った翌朝、本田正親を呼んだ。
「本田。覚えているか。俺が宗麟様に直談判した日のことを」
「はい」
「あの日以来、俺は一つのことを考えていた」と道雪は言った。「禁令を出すだけでは足りない。実際に動かなければ、何も変わらない」
「はい」
「証拠が揃った。動く」
道雪は立ち上がった。
不自由な足が、それでも力強く床を踏んだ。
「大友領内で人身売買に関わっていた者を、全員捕縛する。宗麟様の禁令を根拠にする。帝の御書を根拠にする。そしてこの証拠を持って、お縄にかける」
本田が深く頷いた。
「手配します」
大友領内での逮捕が始まったのは、それから二日後のことだった。
博多の仲買人、清右衛門。
南蛮商人への橋渡しを長年務めてきた男だ。
道雪の命を受けた本田正親が、証拠の書状と証言を持って清右衛門の店に踏み込んだ。
清右衛門は最初、強弁した。
「俺は何もしていない。ただ仲立ちをしただけだ。売ったのは本人の意志だ」
本田は黙って、証拠を一つずつ並べた。
帳面の写し。証言。南蛮商人との書状。
清右衛門は黙った。
「連れて行け」と本田は言った。
大友家の牢に、最初の逮捕者が入った。
その夜、道雪は七島への書状を書いた。
時貞殿へ
第一の逮捕者が出ました。
証拠を元に、大友家の法で裁きます。
宗麟様も、この件については後押ししてくださいました。
次の者を追います。
道雪より。
七島で報告を受けた時貞は、静かに目を閉じた。
動いている。
外から、内から、上から——全方向から動いている。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」
「龍造寺の直茂殿への連絡は取れたか」
「はい。平戸の仲買人については、松浦家に圧力をかけていただけるとのことです。直茂殿の動きは早い」
「龍造寺殿は——」
「隆信殿は直接、平戸に使者を送ったそうです。松浦隆信殿に、禁令に従わなければ龍造寺家として看過できない、と」
時貞はわずかに笑った。「隆信殿は、やる時は速いな」
三 アルメイダと笹木
長崎の外れの小さな教会。
アルメイダが報告書の作成を進めていた。
机の上に紙が積まれ、羽根ペンが走っていた。
この報告書はイエズス会の本部——ローマへ送られる。
日本での人身売買の実態。関与している商人の名前。黙認している宣教師の名前。そして——鳳凰寺家と帝が動いたという事実。
アルメイダは書きながら、時々手を止めた。
書いていると——怒りが戻ってくる。
七年間、見続けてきた光景が。
止められなかった光景が。
「アルメイダ神父」
扉が開いた。
笹木淳子が入ってきた。
鳳凰寺家の医師だ。
アルメイダは立ち上がった。
「笹木先生。ようこそ」
通訳を介した会話が始まった。
「府内の病院のことを、以前から聞いていました」と笹木は言った。「同じ医師として、お会いしたかった」
「私も、豊後の村でのお話は聞いています」とアルメイダは言った。「患者を、あれほどの速さで安定させたとは」
二人の医師が向き合った。
国籍が違う。言語が違う。宗教が違う。
だが——その目に宿っているものは、同じだった。
「報告書の作成を手伝わせてください」と笹木は言った。「医学的な観点から——船での移送中の死亡率、劣悪な環境による疾患、子供への影響——それを詳細に記録します。感情ではなく、数字と事実として」
アルメイダは少し驚いた顔をした。
「それは——非常に助かります。私は外科の知識はありますが、専門的な記録については——」
「私が担当します」と笹木は静かに言った。
二人は机を並べた。
アルメイダのペンと、笹木の筆が、それぞれの言語で、同じ事実を記録し始めた。
しばらく作業が続いた後、アルメイダが口を開いた。
「笹木先生。一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「女性の医師は——非常に珍しい稀な存在ではないでしょうか」
笹木は少し考えてから答えた。「珍しいと言われます。ただ——私の当主は、そういうことを気にしません。できる者が、やればいい、という考え方です」
「鳳凰寺時貞様は——十三歳と聞きました」
「はい」
「どういうお方ですか」と アルメイダは問うた。
笹木はペンを止めた。
「豊後の村に医療班を送った時」と笹木は言った。「当主は私にこう言いました。子供が死んでいると聞いたから動いた。それだけだ、と」
「それだけ、か」
「はい。損得を考えた後でもなく、評判を考えた後でもなく——子供が死んでいると聞いて、すぐ動いた。その速さが——私はこの方を信じる理由です」
アルメイダは静かに頷いた。
「私もお会いしました」とアルメイダは言った。「同じことを感じました。あの方の目には——長く生きた者の重みがある。そして怒りがある。しかし怒りに流されていない」
「はい」
「神がこの乱世にあの方を置かれた理由が——わかる気がします」
笹木は少し考えてから言った。
「私は神を信じていません。しかし——あの方がいてくれたことには、意味があると思っています」
アルメイダが微笑んだ。
「それは——信仰と、そう遠くないことです」
夕刻、報告書の第一稿が完成した。
笹木が医学的な記録を加えた部分は、十ページに及んだ。
数字、症例、死亡率——全てが冷静に記録されていた。
だが、その冷静さの中に、静かな怒りが滲んでいた。
アルメイダは全文を読み返した。
「——これをローマに送れば、本部は動かざるを得ません」とアルメイダは言った。「これほど詳細な記録は、私は知らない…」
「役に立てれば」と笹木は言った。
「先生」とアルメイダは言った。
「はい」
「あなたは——なぜ、ここまで動いてくれるのですか。あなたにとっても、これは直接の職務ではないはずです」
笹木は少し間を置いてから、答えた。
「豊後の村で、子供たちを助けた時」と笹木は言った。「熱が下がった子が、最初に言った言葉が——お腹、すいた、でした」
「……」
「その言葉が——ずっと、頭にあります。生きていれば、お腹がすく。当たり前のことが、当たり前にある世界を守りたい」
アルメイダは目を閉じた。
「——神のご加護が、あなたの上にありますように」とアルメイダは静かに言った。
笹木は「ありがとうございます」と答えた。
信仰は違う。だが——願いは同じだった。
四 山川沖の夜
その夜、薩摩・山川沖。
鳳凰寺艦「海鷹」が静かに浮かんでいた。
全長九十メートルの哨戒艦。乗員は四十八名。
艦長は海軍少佐・永田源之丞。三十代の、無口で精確な男だ。
「今夜も動きはないか」と永田は言った。
「はい。山川の港に南蛮船が一隻。動いていません」と見張りが答えた。
「引き続き監視を続けろ」
「はい」
夜の海が静かだった。
深夜、見張りが報告した。
「艦長。水面に動きが——」
永田が艦橋に出た。
双眼鏡を手に取った。
暗い海面を見た。
「……何だ、あれは」
水面に、複数の影があった。
小舟ではない。人が泳いでいる?。
暗闇の中で、複数の人影が「海鷹」に向かって泳いでいた。
「全員甲板へ。戦闘配備——」
その瞬間、艦の舷側に引っかけ縄が飛んできた。
複数の場所から、同時に。
「来るぞ!」
甲板に上がってきたのは、十二名だった。
黒い装束。顔を覆っている。
各自が短刀と縄を持っていた。
艦の乗員が迎え撃った。
甲板で、接近戦が始まった。
鳳凰寺の乗員は訓練を受けていた。だが——相手も訓練を受けていた。
動きが速い。
夜陰に乗じた奇襲。引っかけ縄による侵入。人数差を考えた攻撃の集中。
乗員の一人が短刀を受けた。
倒れた。
「——!」
もう一人が切られた。また一人が切られた…。さらに一人が…。
それでも乗員たちは崩れなかった。
数で上回る乗員が、侵入者を包囲した。
侵入者の一人が短刀を振り回しながら、後退した。
「退け!退け!」と日本語の叫びが聞こえた。
侵入者たちは引っかけ縄を切り、海に飛び込んだ。
闇の中に消えた。
甲板に静寂が戻った。
永田が倒れた乗員のそばに膝をついた。
腹部を刺されていた。
「医療班——!」
医療班が駆けつけた。
処置が始まった。
だが——
「……」
永田は目を閉じた。
深く、深く息を吐いた。
乗員の一人が絶命した。
名は、荒木一助。二十三歳。
腕を切られた乗員は、重傷だった。命はつながった。
応戦した者の内、切り傷を受ける軽症者が数名出た。
永田は艦橋に戻り、七島へ通信を送った。
手が、わずかに震えていた。
「山川沖より緊急報告。本艦に対して武装した者たちが侵入。甲板上で戦闘が発生。乗員一名死亡、一名重傷。若干名が軽症。侵入者は海中に逃走。証拠の回収を進めます」
五 証拠
夜明けとともに、乗員たちが甲板と海面を調べた。
侵入者たちが残していったものがあった。
引っかけ縄の一つが、甲板の金具に絡まって残っていた。
縄の素材、編み方——特徴的な作り方だった。
短刀が一本、甲板の隙間に刺さっていた。
刀身の形、柄の作り——これも特徴がある。
そして——装束の切れ端。黒い布の一部が、金具に引っかかって残っていた。
永田は全てを丁寧に回収した。
天元へ送信した。
七島で天元が分析した。
「縄の編み方は、薩摩特有の漁師縄の技法です。島津家の水軍が訓練に用いる結び方と一致します。短刀の柄の装飾は、薩摩鍛冶の特徴的な刻印があります。布の素材は——薩摩で生産される特定の藍染めと組成が一致します」
「全て薩摩か」と時貞は言った。
「はい。三点の証拠が、全て薩摩との繋がりを示しています。偶然の一致である可能性は、極めて低い」
成瀬が静かに言った。「殿——」
「わかっている」と時貞は言った。
声が、静かだった。
怒りを飲み込んだ声だった。
「荒木一助。二十三歳か」
「はい」と成瀬は答えた。「七島の出身です。両親が——」
「俺が直接会う」と時貞は言った。「荒木の両親に。今日中に」
「御意」
時貞は荒木の親のもとへ向かった。
両親は泣いていた。
時貞は二人の前に正座し、深く頭を下げた。
「俺の命令で、あの海に出した。俺の責任だ」
両親は何も言えなかった。
ただ泣いていた。
時貞はしばらく、そこにいた。
何も言わずに。
ただ——そこにいた。
六 南蛮船
その翌朝。
山川沖の「海鷹」から、緊急通信が来た。
「艦長より七島。山川の港から南蛮船が出港。東南東へ向かっています。艦内に人の声が聞こえます。複数。日本語です」
時貞は通信を読んだ。
「人の声が聞こえる」という一行を、三度読んだ。
「永田に伝えてくれ」と時貞は言った。
「はい」
時貞は少し間を置いた。
その間は——ほんの数秒だった。
「止めろ。その船を止めろ。日本人が乗っていれば、解放しろ」
成瀬が頷いた。
「武力行使の許可を」
「与える」と時貞は言った。
その言葉は、静かだった。
激昂ではなかった。
静かな、決断の言葉だった。
「海鷹」が加速した。
南蛮船に追いついたのは、港を出て一刻後のことだった。
「停船せよ」と永田は信号旗を出した。
南蛮船は止まらなかった。
速度を上げた。
永田は命令を出した。
「前方五十メートル、警告射撃」
砲声が轟いた。
水柱が、南蛮船の前方に上がった。
南蛮船が止まった。
「海鷹」の乗員が南蛮船に強制的に乗り込んだ。
船倉に、人がいた。
縛られた日本人が、十七名。
女性が十一名、子供が六名。
薩摩の農村から集められた者たちだった。
縄を解かれた女性の一人が、ぽろぽろと泣いた。
言葉が出なかった。
乗員の一人が、膝をついてその女性に声をかけた。
「大丈夫です。もう大丈夫です」
乗船中の南蛮人らは、大声で抗議していたが、その一切を無視をした。
報告が七島に届いた時、時貞は静かに聞いていた。
十七名、全員を解放した。
女性十一名、子供六名。
全員、無事。
時貞は目を閉じた。
「よかった」と小さく言った。
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
しかし——その言葉の後に、別の感情が来た。
荒木一助が死んだ。
島津家の者が、鳳凰寺の艦を襲った。
南蛮船に日本人が積まれていた。
全てが——繋がっていた。
「成瀬」と時貞は言った。
「はい」
「京へ行く」
成瀬が目を動かした。
「帝に——お会いする」
「はい」
「近衛前久殿に、緊急の書状を出してくれ。急ぎお取りはからいをお願いしたい、と」
「御意」
「そして——作戦会議を招集してくれ。全幹部を集めろ」
「はい。何の作戦でしょうか」
時貞は答えた。
「島津征伐だ」
七 作戦会議
その夜、鳳凰寺城の参謀室。
全幹部が集まっていた。
成瀬一郎。倉橋玄蕃。木島隼人。朝比奈龍介。浜村清。笹木淳子。
全員の顔に、昨夜からの重さがあった。
荒木一助の死が、全員の胸にあった。
時貞は上座に座り、全員を見渡した。
「昨夜、山川沖で荒木一助が死んだ」
誰も動かなかった。
「荒木は俺の命令で、あの海にいた。俺の責任だ。それは昨日、荒木の両親に伝えた」
沈黙が続いた。
「今日は——感情の話ではなく、判断の話をする」と時貞は言った。
「はい」と全員が答えた。
「島津は御書を無視した。山川で人身売買を増やした。そして鳳凰寺の艦を武力で襲った。日本人を積んだ南蛮船は——島津の海から出た」
時貞は一度、息を吸った。
「この件は、もはや外交で解決できる段階を超えた。俺はそう判断する」
「はい」
「島津を——討つ」
参謀室に、静寂が落ちた。
「ただし」と時貞は続けた。「俺は朝廷の権威なしに動くつもりはない。帝に錦の御旗を賜る許可をいただきに行く。島津を朝敵と定める。正当性の上で動く」
木島が言った。「殿。帝が錦の御旗を——」
「帝は動いてくださる」と時貞は言った。「俺はそう信じている。御書を出してくださった帝が、その御書を踏みにじった者を朝敵と定めることに——迷われないと思う」
成瀬が頷いた。
「では——作戦の策定を」
「急いでくれ。俺が京から戻るまでに、作戦の骨格を作っておいてくれ」
「はい」
時貞は立ち上がった。
「倉橋」
「はい」と海軍司令官が答えた。
「山川沖の増援を今夜中に出してくれ。「鳳凰」と護衛艦二隻を追加派遣する。島津の海を封鎖する」
「御意」
「木島」
「はい」と陸軍司令官が答えた。
「九州上陸に備えた部隊の準備を始めてくれ。上陸地点の候補を複数選定してくれ。天元と相談して、島津の陸上戦力の配置を分析してくれ」
「はい」
「朝比奈」
「はい」と空軍司令官が答えた。
「偵察飛行の準備を。島津の領内の軍事配置を上空から確認したい。ただし——今は見るだけだ。攻撃はまだしない」
「了解しました」
「浜村」
「はい」
「道雪殿と龍造寺殿に状況を伝えてくれ。この件の経緯を全て説明する。特に荒木一助の死と、南蛮船での日本人発見の事実を。両者の動向を確認してくれ」
「はい」
「笹木先生」
「はい」と笹木が答えた。
「戦闘が始まれば、負傷者が出る。医療体制の強化を今から始めてくれ」
「わかりました」
時貞は全員を見渡した。
「一つだけ言う」
全員が時貞を見た。
「俺はこの戦を、喜んではいない。戦は嫌いだ。それは変わらない。しかし——荒木が死んだ。日本人が積まれていた。御書が踏みにじられた。これ以上、外交だけで向き合える相手ではない」
沈黙が続いた。
「この戦は——始まりの戦だ。鳳凰寺家が日本で初めて、正面から戦う相手が島津だ。勝つだけではない。どう戦うかが、これからの俺たちの在り方を決める」
「御意」と全員が答えた。
八 帝への道
翌朝、時貞は七島を出た。
成瀬が桟橋で見送った。
「殿」と成瀬は言った。「帝は——動いてくださると思います」
「俺もそう信じている」
「お気をつけて」
時貞は船に乗り込んだ。
京への道を急ぐ。
前久への書状はすでに出してあった。
緊急の拝謁を願う書状だ。
書状の末尾に、時貞はこう書いた。
帝に、申し上げたいことがあります。
御書を踏みにじった者がいます。
その者が我が艦を武力で襲い、鳳凰寺の者が一人死にました。
その者の海から、日本人を積んだ南蛮船が出ました。
俺は覚悟を決めました。
帝のお力を、お借りしたい。
鳳凰寺時貞
船が七島の港を出た。
春の海が広がっていた。
この海の先に——京がある。
そして京の先に——島津がいる。
時貞は船首に立ち、前を向いた。
荒木一助の顔が、頭の中にあった。
二十三歳。七島生まれ。
その命を——無駄にしない。
それが時貞の、静かな誓いだった。
波が船首を打った。
鳳凰寺の旗が、海風の中で力いっぱいはためいていた。
(第十九章へ続く)




