第十七章 ―御書の波紋―
一 御書、日本を駆ける
永禄五年、春。
帝の御書が各地に届くまで、およそ半月かかった。
馬で、船で、人の手から手へ。
京から東へ、西へ、北へ、南へ。
日本全国の大名の元に、同じ言葉が届いた。
日本の民を売買することを、固く禁じる。
これに従わぬ者は、朝廷の敵と見なす。
尾張・織田信長
信長は御書を受け取り、一読した。
「ほう」と言った。
それだけだった。
傍らにいた木下藤吉郎が、信長の顔を読もうとした。
読めなかった。
信長は御書を折りたたみ、傍らに置いた。
「藤吉郎」
「はい」
「朝廷が動いた」
「はい」
「朝廷が自ら動くのは——珍しい」と信長は言った。「何かが変わっている」
「背後に誰かがいると思われますか」
「思う」と信長は即答した。「近衛前久が動いている。その背後に——さらに誰かがいる」
「それは——」
「調べろ」と信長は言った。「最優先で調べろ。朝廷が自ら御書を出す——それができるほどの銭と情報を持っている者が、どこかにいる」
「はい」
信長は窓の外を見た。
美濃の山が霞んでいた。
(伊豆沖の島の噂が、最近また増えた)
信長は静かに思った。
鉄の船。医薬品。博多沖に展開した艦隊。そして今度は帝を動かした。
(面白い相手だ)
だが——今は美濃だ。
全てが片付いてから、考える。
「御書の件は従う」と信長は言った。「人の売買など、俺には益がない。従うことに何の不利もない」
「はい」
「ただし——従う理由は、帝の御書だからではない。俺が必要ないと判断したからだ」
藤吉郎は頷いた。
信長らしい答えだった。
甲斐・武田信玄
信玄は御書を読み、家臣に渡した。
「甲斐には南蛮船が来ない。直接の関係はない」と信玄は言った。「従うことに何の不利もない。御書の通りにせよ」
家臣が下がった。
しかし信玄は、御書の裏を考えていた。
(朝廷が自ら動いた。これは誰かが動かした。誰だ)
信玄の情報網は精緻だった。だが——伊豆沖の島の情報は、まだ断片的にしか届いていなかった。
(鳳凰寺家。伊豆沖の、謎の勢力)
信玄は覚えた名前を、頭の引き出しに入れた。
今は信濃と関東が優先だ。
だが——この名前は、忘れない。
越後・上杉謙信
謙信は御書を受け取った時、立ったまま読んだ。
読み終えて、家臣に言った。
「当然のことだ」
それだけだった。
謙信にとって、人を売買することは「義」に反する。
御書が来る前から、上杉領内では人身売買を認めていなかった。
「従う」と謙信は言った。「それ以上でも以下でもない」
ただ——謙信も、御書の裏を考えた。
(朝廷が動いた。その背後に誰かがいる)
謙信は窓の外を見た。
越後の春が、山々に広がっていた。
(義のために動いた者がいる。それが誰であれ——同じ方向を向いているなら、悪くはない)
謙信はそれ以上考えなかった。
相模・北条氏康
氏康は御書を読み終えて、しばらく黙っていた。
「——伊豆沖の島だ」と氏康は静かに言った。
家臣が驚いた。「何故そのように」
「博多沖の艦の話。帝への銭の話。近衛殿の動きの変化。全て一本に繋がる。そしてこの御書——」
氏康は紙を指で叩いた。
「全部、同じ場所から来ている」
「では——」
「従う」と氏康は言った。「これは従って損のない御書だ。ただし——」
「ただし?」
「鳳凰寺家に、改めて使者を送る」と氏康は言った。「あの島と、きちんと話をする時が来た」
氏康は立ち上がり、相模湾の方角を向いた。
「力があり、智慧があり、そして義を持っている——そういう相手とは、早めに関係を作っておかなければならない」
家臣が頷いた。
「使者の準備を」
「はい」
三河・徳川家康
家康は御書を読み、静かに頷いた。
「従う」と家康は言った。「三河に南蛮船は来ない。ただし——この御書の意味は、表面以上のものがある」
家臣の本多正信が言った。「どういう意味ですか」
「朝廷が動くということは——朝廷を動かせる者が現れた、ということだ」と家康は言った。「信長殿ではない。信長殿が動かしたなら、もっと派手にやる。もっと自分の名前を前に出す」
「では」
「もっと静かに動く者がいる」と家康は言った。「朝廷の裏で、静かに、確実に動いている者が」
正信が考えた。「鳳凰寺家では——」
「俺も同じ名が浮かんだ」と家康は言った。「だが確証がない。今は待つ。相手がこちらに向いてきた時に、向き合う」
家康は御書をていねいに折りたたんだ。
「これは大切に保管しておけ」と家康は言った。「この御書が出た日が——何かの始まりになるかもしれない」
二 島津の反骨
薩摩・鹿児島、島津家の城。
島津義久は御書を受け取り、家臣団と向き合っていた。
重臣たちが並んでいる。
弟の義弘、歳久、家久——島津四兄弟が揃っていた。
「御書の内容は聞いた」と義久は言った。「皆の意見を聞く」
沈黙の後、義弘が口を開いた。
「俺は従わない」と義弘は言った。直接的な言葉だった。「薩摩と京では、距離が違いすぎる。遠い京の御所が何を言おうと——こちらの事情が優先される」
「義弘の言う通りだ」と家久が続けた。「南蛮との貿易は薩摩の重要な収入だ。その一部に手をつけることは、我が家の財政に関わる」
歳久が少し考えてから言った。「しかし——帝の御書を公然と無視することは、表向きは問題があります」
「表向きは、というのが大事だ」と義弘は言った。「従うふりをして、実態は変えない。それが現実的な対応だ」
義久は家臣たちを見回した。
老臣の一人が言った。「非義の勅命は勅命に有らず——という考え方もございます」
室内に、頷く者がいた。
「帝は日ノ本のお飾りにすぎない」と別の家臣が言った。「大名たちが実質的に国を動かしている今、朝廷の言葉に全てを委ねる必要はない」
「薩摩隼人は、誰にも頭を下げぬ」と義弘が言った。「それが我らの誇りだ」
義久は黙って聞いていた。
全員が意見を出し終えた後、義久は言った。
「形の上では受け取る。御書に対して公然と反発する必要はない。しかし——実態は変えない」
「はい」と家臣たちが答えた。
「南蛮との取引は続ける。ただし——博多が使えなくなった分、山川など薩摩の港を使う。量は増やす。博多で動けなくなった南蛮商人が薩摩に流れてくるなら、それを受け入れる」
義弘の目が光った。「増やす、ということですか」
「博多が閉まれば——向こうは別の港を探す。それが薩摩なら、俺たちに銭が入る」
義久の判断は、冷静だった。
感情ではない。損得だ。
「一つだけ確認しておく」と義久は言った。「鳳凰寺の艦が博多沖に出た。その艦が薩摩の港にも来る可能性がある」
「来たら——どうしますか」と家久が問うた。
「来てから考える」と義久は言った。「相手の力は確認している。正面からぶつかる必要はない。しかし——薩摩の海を勝手に動かれることも、認めない」
その決定は、すぐに実行に移された。
薩摩の山川港に、南蛮船が入り始めた。
博多から追われた仲買人たちが、薩摩に流れた。
人身売買の規模は——博多では減ったが、薩摩では増えた。
そしてその情報は、鳳凰寺の諜報部を通じて、すぐに七島に届いた。
三 平戸の現実
七島、執務室。
浜村清が新しい報告書を持ってきた。
「博多での取引は大幅に減少しています。宗麟殿の禁令と、鳳凰寺艦の展開が効いています」と浜村は言った。「しかし——」
「しかし、か」と時貞は言った。
「平戸、横瀬浦、そして薩摩の山川——別の港で売買が続いています。特に山川は——増えています」
「島津が受け入れている」
「はい。御書を実質的に無視している様子です」
時貞は静かに考えた。
「平戸はどの大名の領内だ」
「松浦家の領内です。松浦隆信——龍造寺の勢力圏に近い位置にあります」
「龍造寺殿に働きかけることはできるか」
「可能かと思われます。ただし——松浦家は独立心が強く、龍造寺の言葉をどこまで聞くかは不明です」
時貞は立ち上がり、九州の地図を広げた。
博多。平戸。横瀬浦。山川。
「仲買人の特定は進んでいるか」
「風間が調べています。現時点で、博多周辺の主な仲買人は七名を特定しています。うち二名は博多が閉じた後、平戸へ移動したことが確認されています」
「その七名を——」と時貞は言いかけて、止まった。
浜村が待った。
「どう処理するか、考えている」と時貞は言った。「捕縛するか、商売を続けられない状況に追い込むか、あるいは——」
「脅す、という選択肢もあります」と浜村は静かに言った。
「それは嫌いだ」と時貞は即答した。「脅しは、相手が強くなった時に消える。根本的な解決にならない」
「では」
「商売を続けられない状況に追い込む。彼らが動ける港を一つずつ潰す。そして——彼らの名前と行為を、九州の全ての大名に知らせる。どこへ行っても商売ができない状態にする」
浜村が頷いた。「情報を武器にする、ということですね」
「そうだ。そして——もし証拠が揃っているなら」
「はい」
「捕縛して、法に引き渡す。大友家の法でも、龍造寺家の法でも、道雪殿に頼んで処理していただく」
「道雪殿ならば——動いてくださるでしょう」
「頼む」と時貞は言った。「風間に伝えてくれ。証拠の収集を最優先で」
「そして山川だ」と時貞は言った。
「はい。島津への対応は——」
「難しい」と時貞は認めた。「島津は遠い。御書を無視している。そして——薩摩隼人の気質は、外圧に反発する」
浜村が頷いた。「下手に圧力をかければ、逆効果になります」
「わかっている」と時貞は言った。「島津は——今は正面からは動かさない。しかし放置もしない」
「どうされますか」
「山川の沖に、艦を一隻出す」と時貞は言った。「博多のように複数出す必要はない。ただ——一隻だけ、静かにそこにいる」
「示威、ということですね」
「それだけじゃない。山川に出入りする南蛮船を記録する。船の名前、積荷、日時——全部記録する。そしてその記録を、将来使う」
「将来」
「島津と向き合う日が来た時に」と時貞は言った。「その時、俺はこの記録を持っている」
浜村は深く頷いた。
四 アルメイダ
その日の夕刻、七島に一通の書状が届いた。
差出人は——ルイス・デ・アルメイダ。
長崎に滞在しているポルトガルの修道士だ。
浜村が持ってきた時、時貞は少し驚いた。
「南蛮人から、直接書状が来るとは」
「はい。長崎の商人を通じて届きました。内容は——面会の申し込みです」
時貞は書状を読んだ。
ポルトガル語で書かれた書状の、天元による翻訳が添付されていた。
鳳凰寺時貞殿へ
私はイエズス会の修道士、ルイス・デ・アルメイダと申します。
長崎に滞在して七年になります。
この度の帝の御書と、博多沖の艦の展開について——
私は深く、感謝しています。
私は長年、日本人の奴隷売買に反対してきました。
しかし私一人の声では、商人たちを止めることができませんでした。
仲間の宣教師の中にも、黙認する者が多く——
私は孤立していました。
時貞殿が動いてくださったことで、状況が変わりました。
一度、お話をさせていただけますか。
私にできることを、させていただきたいと思っています。
神のご加護が、あなたの上にありますように。
ルイス・デ・アルメイダ
時貞は手紙を読み返した。
「アルメイダ」と時貞は呟いた。
天元に問いかけた。
「天元。アルメイダについて教えてくれ」
「ルイス・デ・アルメイダ。一五二五年頃、ポルトガルのリスボン生まれ。商人から外科医に転身し、後にイエズス会修道士となって日本に来航。日本での医療活動で知られ、府内に病院を開設しています。史料によれば——人身売買に対して一貫して反対の立場を取っていた記録があります」
「病院を作った人物か」と時貞は言った。
「はい。この時代の日本では非常に珍しい、西洋医学を用いた病院です」
時貞は少し考えた。
「笹木先生を呼んでくれ」
笹木淳子が来た。
時貞はアルメイダの書状を渡した。
笹木は読んだ。
「アルメイダ」と笹木は言った。「府内の病院の方ですね」
「知っているか」
「名前は聞いたことがあります。大友領内で医療活動をされていると」
「どういう人物だと思う」
笹木は少し考えた。
「医師として——府内に病院を作ったということは、本気で日本の民の命を助けようとした人間だと思います。それは、商売のためだけでは続けられないことです」
「信用できると思うか」
「書状を読む限り——誠実な人だと思います。ただし」と笹木は続けた。「私はこの方に会ったことがありません。直接話すまでは、確信は持てません」
「会ってみる価値はあるか」
「あると思います」と笹木は即座に答えた。「奴隷売買に反対してきた宣教師がいるなら——そしてその人物がポルトガル人なら——ポルトガル側から圧力をかけるための味方になりえます」
時貞は頷いた。
「会う」と時貞は言った。「長崎に来てもらう。ただし——七島には入れない。長崎の近くで、中立的な場所を用意してくれ」
五 時貞とアルメイダ
十日後、肥前の小さな港町。
海を見下ろす小さな寺の一室。
時貞とアルメイダが向き合った。
アルメイダは三十七を少し過ぎた年頃だった。
痩せた体つきに、深い皺が刻まれた顔。目が青く、髭を短く整えている。南蛮人の顔だった。
だが——その目は、怯えていなかった。
静かで、真剣な目だった。
二人の間に、通訳が座った。
七島で天元が育てた、ポルトガル語の通訳だ。
「——遠路ご苦労でした」と時貞は言った。
通訳を介して言葉が届いた。
アルメイダが頭を下げた。
「お時間をいただき、感謝します」とアルメイダは言った。
しばらく、二人は向き合っていた。
「まず——俺から聞きます」と時貞は言った。「あなたは長年、人身売買に反対してきた。なぜ止められなかったのか」
アルメイダは少し間を置いてから、正直に答えた。
「力がなかったからです」とアルメイダは言った。「私は宣教師です。商人たちに命令する権限がない。上の者に報告しても、商業的な利益が優先された。私の声は——小さすぎた」
「恥ずかしくなかったか」と時貞は問うた。
少し厳しい問いだった。
アルメイダは目を伏せた。
「はい」とアルメイダは静かに言った。「恥ずかしかった。神に仕える者が、神の教えに反することを目の前で見ながら、止められなかった。それは——私の生涯の恥です」
時貞はアルメイダを見た。
目を伏せながら答える顔が——正直だった。
言い訳をしなかった。
「あなたに聞きたいことがある」と時貞は続けた。
「はい、何でも」
「ポルトガルの側から、これを止めるためには——何が必要か。俺は日本の側からしか動けない。あなたはポルトガルの側の人間だ。何ができる」
アルメイダは少し考えた。
「イエズス会の本部に報告書を送ることができます」とアルメイダは言った。「日本での人身売買の実態を、詳細に記録して送る。本部が動けば——現地の宣教師たちへの指示が変わります」
「それは以前にもやったのではないか」
「はい。しかし——以前は証拠が弱かった。今は違います」
アルメイダの目が、時貞を見た。
「時貞様の諜報部が集めた証拠を——私に使わせてもらえますか。名前は出しません。ただ、事実として本部に報告します」
時貞は少し考えた。
「証拠の一部を提供することはできる。ただし——使い方は俺が確認する。勝手に動かれることは困る」
「わかりました」とアルメイダは言った。「全ての行動を、事前に時貞様にお知らせします」
「もう一つ聞く」と時貞は言った。
「はい」
「あなたの仲間の宣教師たちの中で——俺たちに協力してくれる者は、何人いるか」
アルメイダは少し考えた。
「三人から五人は、確信を持って言えます。もっと増やせるかどうかは——時間次第です」
「全員の名前と、どこにいるかを教えてくれ」
「はい。ただし——彼らに危険が及ばないよう、配慮をお願いします」
「約束する」と時貞は言った。
話が進んだ。
二人は一刻以上、向き合い続けた。
やがてアルメイダが言った。
「時貞様。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ——こんなに本気で動いているのですか。あなたには利益がない。九州の大名でもない。伊豆の島の、十三歳の当主が——」
時貞はアルメイダを見た。
「報告書を読んだ」と時貞は言った。「博多の裏港で、十歳の女の子が殴られて黙らされた話を、俺の部下が目撃していた」
「……はい」
「その子の顔を、俺は知らない。名前も知らない。今どこにいるかも知らない」
時貞は静かに続けた。
「しかし——俺にはその子を助けるだけの力がある。力がある者が動かなければ、誰が動く」
アルメイダは時貞を見た。
長い間、見た。
「——神のご意志かもしれません」とアルメイダはつぶやくように言った。
「俺は神を信じていない」と時貞は静かに言った。「しかし——あなたが神のために動いてきた方向と、俺が人間として動く方向は、この件では同じだ」
アルメイダは頷いた。
「はい」と言った。「同じです」
「では——共に動きましょう」と時貞は言った。
アルメイダは深く頭を下げた。
「はい」
別れ際、アルメイダが言った。
「時貞様。一つだけ、お伝えしたいことがあります」
「何だ」
「日本に来て七年。私は多くの日本人に会いました。商人、農民、大名の家臣——様々な方々に」
「はい」
「しかし——あなたのような方には、初めて会いました」
「どういう意味だ」
「あなたは十三歳です。しかし——その目の中に、長く生きてきた者の重みがある。そして怒りの中にいながら、冷静に考えている」
アルメイダはわずかに笑った。
「神は不思議なことをされます」とアルメイダは言った。「この乱世に、あなたを置かれた。それには——理由があるのだと思います」
時貞は少し考えてから、答えた。
「俺は神を信じていない。——その理由も、俺にもわからない」
「はい」
「ただ——知ってしまった以上、自分に力がある以上、やれることをやる。それだけだ」
アルメイダは深く頷いた。
「私も——やれることをやります」
二人は別れた。
春の海風が吹いていた。
六 夜の執務室
七島に戻った夜、時貞は机に向かった。
今日の出来事を整理した。
御書の反応。信長、家康、氏康——それぞれの動きが頭の中に並んだ。
島津の反発。山川での売買増加。
平戸の仲買人たち。
そしてアルメイダ。
「天元」と時貞は呼んだ。
「はい」
「島津への対応を考えたい。山川に艦を一隻出す。それだけでは不十分かもしれない」
「はい。島津は御書を実質的に無視する方針のようです。山川での取引量は、既に博多の最盛期を超えつつあります」
「記録は続けているか」
「はい。山川に出入りする全ての南蛮船を記録しています。船の名前、来航日、推定積荷——全て蓄積しています」
「それでいい。今は記録だけ続ける。島津との直接対決は——時期ではない」
「はい」
「しかし」と時貞は言った。「山川の南蛮船に乗っている日本人が確認された場合——話は別だ」
「その場合は?」
「止める。場所がどこであっても」
天元が少し間を置いた。
「島津の海域での行動は、島津との武力衝突に発展する可能性があります」
「わかっている」と時貞は言った。「だからこそ——確認された場合に限る。島津の海域でも、人を積んでいることが確認された船は止める。それが俺の判断だ」
「了解しました」
時貞は窓を開けた。
夜の海が広がっていた。
(島津よ)
時貞は薩摩の方角を見た。
俺はお前たちを責める気はない。
遠く、朝廷の影響が及びにくい場所で、独自の論理で動いてきた。それが薩摩だ。
その誇りは尊重する。
しかし——
(日本人を荷物として売ることを、俺は認めない。誰が認めても、俺は認めない)
それだけは、譲れない。
夜の海が静かに揺れていた。
どこかに、まだ縛られている者がいるかもしれない。
その者たちのために——
時貞は静かに、怒りの熾火を確かめた。
消えていなかった。
まだ、燃えていた。
(第十八章へ続く)




