第5部 第6話『また、この席で』
【前回のあらすじ】
フロスティアへ戻ったネビュロスたちは、襲撃兵を目覚めさせることへの住民の拒否を受け、処置を村外へ移した。レクスとカイも、人々の言葉に自分たちの過去を突きつけられる。一人の兵士が目覚めた夜、エナは今も両親を否定させられた言葉を忘れられないと打ち明けた。
※本作品の執筆にはAIを活用しています。
「私のも、消して」
エナはネビュロスを見ていた。
冷めた夕食にも、隣に座るリトにも目を向けず、彼の返事だけを待っていた。
「兵士の人、もう言わなくなったんでしょ。私の中にあるのも、消してよ」
ネビュロスは掌を開いた。
あの男の額へ触れ、閉じられていた意識を戻した手だった。
エナが、その手へ身を寄せる。
「ここ? 頭に触ればいい?」
差し出された額を、彼は見ることしかできなかった。
これまでにも何度も調べた。兵士の身体にあった命令の輪は、エナにはない。
だが、その説明をすれば、この子は顔を上げてくれるのか。
「……同じようには、できない」
エナの目が動いた。
「どうして」
「君の記憶を傷つけずに、あの言葉だけを消す方法を、私は知らない」
彼女はゆっくりと身体を戻した。
「兵士は助けられたのに」
ネビュロスは頷きかけ、できなかった。
「私より、あの人たちの方が先なんだ」
「違う」
声が強くなった。
エナが肩をすくめた。
ネビュロスは机へ伸ばしかけた手を引いた。違うと分かってほしかった。どれだけこの子たちのことを考えてきたか、知ってほしかった。
そんなことを言われても、エナの中の言葉は消えない。
「……先に治したかった。君を」
それだけ言うのにも、喉が詰まった。
「でも、できていない」
エナは椀を遠ざけた。
匙が落ち、リトが拾おうとする。その前で、彼女は両手を口元へ押しつけた。
「もう、しゃべりたくない」
ネビュロスは席を立った。
外套を取ると、リトの手が裾を掴んだ。
エナは顔を背けたままだった。
彼は二人を見た。
「隣の部屋にいる」
リトの指が、少しずつ離れた。
ネビュロスは世話役に席を譲り、戸を閉めた。
*
翌朝、カイは村外の小屋で、目覚めた兵士へ一枚の紙を見せた。
フロスティアの一軒の家。その場所と、住んでいた夫婦の名前が書かれている。
昨日、夫を連れ出された女性から預かった問いだった。
兵士は、踏み込んだ家に誰がいたか覚えているのか。
「この家へ行ったか」
男は長く紙を見た。
「男を、外へ出しました」
「女の人は」
「袖を、掴んで……」
自分の腕へ指を掛ける。
「放さなかった。振りほどいたら、戸にぶつかって」
カイはそこまでを書き留めた。
レクスが隣で、男の顔を見ていた。
「男を連れていく理由は、聞いたか」
兵士は首を振った。
「名簿に、あったので」
レクスの顎が固くなった。
何も言わずに、カイの紙へ目を落とす。
昼前、二人はその家を訪ねた。
カイは女性へ、兵士が答えた内容を伝えた。記憶がまだ途切れ、夫を連れ出した後のことまでは確かめられていないことも。
「覚えていたのね」
女性は戸口の板へ手を置いた。
補修された部分だけ、色が違っていた。
「私はずっと、もっと強く掴んでいればって思ってた。夫は話せば分かると思って、自分で出ていったの」
カイは紙を下ろした。
あなたのせいではない、と言いかけた。
彼女の目がこちらへ向いた時、言葉が止まった。
「名簿に名前があったから。それだけ?」
カイは頷いた。
「私も、それで人を連れてこさせた」
女性は顔を伏せた。
カイは慰めの言葉を続けられなかった。
「名前を載せた者と、連れていった先を調べる。答えを取りに行く」
「生きてるって期待させるのは、やめて」
彼は息を止め、それから頷いた。
「生きているとは、まだ言えない。分からなかったことも、そのまま知らせる」
女性は紙へ手を伸ばした。
「それ、置いていって」
カイは渡した。
女性は読み終えるまで、二人を見なかった。
レクスも帰ろうとはせず、戸口の外で待っていた。
*
教室へ戻る途中、ネビュロスに呼び止められた。
「カイ。君が使わせていた再教育の記録を見たい」
カイの目が上がった。
「この村を襲った頃のものは、私には――」
「それは分かっている」
ネビュロスの声が尖った。
彼は一度、唇を閉じた。
「エナが、言葉を消してほしいと言った。私は、できないと答えた」
カイは黙って聞いた。
「半年だ。あの子たちには、目覚めてからまだ半年しかない。だが私は、半年もそばにいて、また同じ返事をした」
「ネビュロス」
レクスが呼んだ。
彼は顔を背けた。
「何もできなかったとは言わんでくれ。……今は、聞けん」
カイは鞄を開けた。
第六区から持ち出した記録を、両手で抱える。
「私が知っている手順と、照らせる。何をさせて、何を答えさせていたのか」
「解除の方法は」
カイは答えられなかった。
「……従うようになった後を、私は調べさせなかった」
ネビュロスが彼を見た。
逃げ場のない目だった。
「そうか」
カイは資料を抱え直した。
「知らないままにしない。まず、私が知っていることを全部書く」
*
ミナは教室の隅に座っていた。
机には星の本がある。焼けた頁の間に、ネビュロスが描き直した紙が挟まっていた。
セイジと一緒に書き足した、あの続きを、もう何度も読んでいる。
ネビュロスが椅子を引くと、ミナは本を抱えた。
「ここ、使う?」
「使わない。君の席だ」
彼女は座り直したが、本は机へ戻さなかった。
グリムが戸口から覗く。
「なんや、また星の勉強か」
「絵のグリムより、本物の方がうるさい」
ミナが言った。
グリムは眉を寄せた。
「お前ら、全員そういう感想なんか」
ミナの口元が僅かに緩んだ。
だが、ネビュロスが鞄から魔導書を取り出すと、その笑みが消えた。
鎖が机へ触れる音がした。
「……また凍らせるの?」
ネビュロスの手が止まった。
「凍らせない」
ミナは表紙を見ていた。
「あの時も、先生が本を開いた」
グリムが口を閉じる。
ミナは膝の上の星の本を抱き直した。
「手、握ってくれたから、もう大丈夫だと思った。そしたら、寒くなった」
ネビュロスは椅子へ座った。
ミナは、彼の手が近づかないことを確かめていた。
「先生が怖いって思うの、変?」
彼は首を振った。
「変ではない。私がしたことだ」
「助けてくれたのに?」
ネビュロスは本を閉じ、鞄へ戻した。
「それでも、怖かっただろう」
ミナの指が、焦げた頁へ食い込んだ。
「先生がいないのも、嫌」
ネビュロスは目を伏せた。
その二つを、どちらかに決めさせてはいけなかった。
「ここに座っていてもいいか」
ミナは少し考え、頷いた。
グリムが隣の椅子を引いた。
「俺は?」
「大きい声、出さないなら」
「……注文多いな」
声を落とすと、ミナがまた少し笑った。
今度は、ネビュロスも急いで何かを言わなかった。
*
午後、カイが書き上げた紙を机へ置いた。
反抗を口にしなくなるまで、同じ返答を繰り返させる。
家族との関係を切り、命令者へ従わせる。
自分が正しいとして使わせた手順を、一つずつ記した。
ネビュロスは読み終え、紙から指を離した。
「口に出せることと、本人がそう思っていることを、同じにしたのか」
カイが頷いた。
「逆らわなくなれば、成功だと思っていた」
レクスは窓の方を見た。
リトとエナが、世話役に連れられて来ていた。
話を聞くだけでいいと伝えたが、来ないかもしれないと思っていた二人だった。
レクスが入口の椅子を引いた。
「ここへ座――」
エナの背筋が伸びた。
両手が膝へ動き、リトまで立ち止まる。
レクスは言葉を切った。
手を椅子から離し、通り道を空けた。
「すまない。場所は、自分で選んでくれ」
エナは入口のそばへ立ったままだった。
レクスは部屋の奥へ退いた。
カイが紙を裏返した。
「エナ。君があの言葉を言えてしまうからといって、君が両親を憎んでいることにはならない」
エナは彼を見た。
「どうして分かるの」
カイは膝へ手を置いた。
「私は、同じように人を従わせる再教育を命じていた。本人が何を思っていても、決めた言葉が出るまでやり直させた」
エナの目が、ネビュロスへ動いた。
彼は頷いた。
「この村を襲った命令者とは別だ。だが、カイも同じことをさせていた」
エナが一歩下がった。
「じゃあ、あなたも、私に言わせるの」
「言わせない」
カイは答えた。
「私は、君があの言葉を出さずに済むように、何ができるか知りたい」
「また、頭を触る?」
ネビュロスが首を振った。
「今日は触らない。話を聞くだけだ」
エナの顔は緩まなかった。
カイは次の問いを飲み込んだ。
しばらくして、彼女が小さく口を動かした。
「やだ」
机の端にいたレクスが立った。
「今日は、ここまでだ」
カイが顔を上げる。
レクスは戸口から椅子を退け、扉を開けた。
「帰っていい」
エナはすぐには動かなかった。
リトが袖を引き、二人で外へ出た。
誰も追いかけなかった。
ネビュロスは机へ肘をついた。
カイは、使わなかった質問の紙を見た。
「何も聞けなかった」
レクスが二人へ振り返った。
「嫌だと言ったら、やめる。今、俺たちにできるのはそれだろう」
その声は、二人を責めるものではなかった。
椅子へ座れと言いかけた自分の手を、レクスも見ていた。
*
夕方、ライガは教室から本の箱を運び出した。
湿気の多い棚の分を、別の部屋へ移すところだった。
リトが戸口へ来たが、箱を見て足を止めた。
「どこへ持っていくの」
「隣の部屋だ。棚を乾かす間だけ」
少年は箱の中へ手を伸ばした。
背表紙が焦げた一冊を抜く。
「これ、お父ちゃんが直したやつ」
不揃いな糸で、頁が綴じ直されていた。
ライガは箱を下ろした。
「それは君が持っていくか」
リトが頷いた。
二人で隣へ運び、少年の手が届く段へ置いた。
リトはすぐには手を離さなかった。
「姉ちゃん、へただって笑ってた」
ライガは綴じ目を見た。
「でも、まだ取れてない」
リトが呟いた。
その声が急に詰まり、少年は本を棚へ押し込んだ。
「僕、あの時、お父ちゃんたちのとこ、行かなかった」
ライガは手を止めた。
「呼んだら、こっちを見たかもしれないのに」
棚の向こうに、レクスがいた。
見張りをアシュレイと交代し、戻ってきたところだった。
リトは気づき、口を閉じた。
レクスは入り口に立ったまま尋ねた。
「俺がいると、話しにくいか」
リトは答えなかった。
レクスは外へ戻ろうとした。
「怒ってたら、殴る?」
足が止まった。
リトは彼の拳を見ていた。
「前は、殴った」
レクスの声が低くなった。
「逆らう奴が悪いと思っていた。怖くて何も言えなくなった相手を見て、従ったと思っていた」
ライガは少年の隣へ屈んだ。
リトが服の端を掴んできたので、そのまま動かなかった。
「君が声を出せなかったのは、君が悪いからじゃない」
レクスは、自分の拳を開いた。
「そうなるほど怖がらせた方が悪い。俺も、そうしてきた」
リトは顔を上げなかった。
ライガの服を掴む指に、力が入った。
「こっち、来ないで」
レクスは頷いた。
戸口から離れる。
足音が遠ざかるのを、リトは最後まで聞いていた。
*
その晩、ネビュロスは本を開かなかった。
エナとリトのいる家へ来て、世話役の仕事を手伝いながら、二人が話しかけるのを待った。
先に来たのは、リトだった。
「赤い人が、僕は悪くないって言った」
ネビュロスは濡れた布を置いた。
「そうか」
「先生は?」
少年が見上げた。
「僕が、声、出さなかったの」
ネビュロスは膝をついた。
「私が君の口を塞いだ。声を聞かれたら、君も連れていかれると思った」
「でも、僕も怖かった」
「ああ」
「怖くて、動けなかった」
ネビュロスは、少年の目を見た。
「君は悪くない」
リトの顔が歪んだ。
口を固く閉じようとして、できなかった。
隣の部屋から、エナが来た。
弟の泣く声を聞き、戸口で立ち止まる。
「また、私のせい?」
リトが首を振った。
エナは弟へ近づけなかった。
「私が、あのこと言ったから」
ネビュロスが彼女を見た。
「君のせいではない。リトは今、自分が怖かったことを話していた」
リトが姉へ手を伸ばした。
「姉ちゃんも、怖かった?」
エナは、すぐには答えなかった。
両手が胸元で止まった。
「……うん」
それだけ言って、座り込んだ。
リトが隣へ寄る。
「でも、言ったの、私だから」
「言わされたんだ」
ネビュロスが言った。
エナは首を振った。
「分かってても、私の声なんだもん」
彼は黙った。
ここで違うと繰り返しても、あの時の自分の声は、彼女の耳から消えない。
エナは弟の手を握った。
「お父さんに、ひどいこと言った」
ネビュロスは二人のそばへ座った。
「あの時、言いたかったことを、私は聞きたい」
エナは俯いたままだった。
長く待ってから、かすれた声がした。
「起きて、って」
リトの肩が震えた。
「お母さんにも。手、動かしてって。私、ここにいるからって」
ネビュロスは息を吸った。
続きは、エナの泣き声になった。
今度は口を塞がなかった。
世話役が戸を閉じ、外の声が少し遠くなった。
*
翌日、エルザとポルクが合流した。
第六区の引き継ぎを終えた二人は、村外の療養場所を確認し、地元で世話を続ける者と顔を合わせた。
その間、カイは教室で紙を書いていた。
自分が再教育で何を命じ、何をもって成功と判断したか。聞かれなかったことまで、書いた。
入口にエナが立った。
リトと、ネビュロスが一緒にいた。
カイは筆を置いた。
「昨日の、紙」
エナが言った。
「私が言ったこと、正しいって書いてあるの?」
カイは書きかけの紙を見た。
「正しいとして、言わせていた」
エナの手が、リトの手を強く握った。
「お父さんたちが、悪いって」
カイは首を振った。
「両親を悪いと思わせれば、家に帰りたいと言わなくなる。私たちに従うようになる。そのための言葉だった」
エナは黙っていた。
カイも、返事を急がせなかった。
「じゃあ……うそだったって、言って」
声が細くなった。
「私じゃなくて。言わせてた人が、言ってよ」
カイは立ち上がりかけ、座り直した。
エナと目の高さを合わせた。
「君たちの両親が悪かったのではない。従わせるために、悪いと決めつけた側が間違っていた」
エナの唇が動いた。
「私は、それを正しいこととして命じた。私が間違っていた」
カイは、視線を下げなかった。
「君に、自分が悪いと思わせておくわけにはいかない」
「でも、言ったのは――」
エナが言いかけた時、リトの手が動いた。
姉の指を、両手で握り直す。
「姉ちゃん、昨日、起きてって言いたかったって」
エナは弟を見た。
「僕も、同じだった」
リトの目に涙が溜まった。
「お父ちゃんたち、起きてって。それだけだった」
エナは口元を押さえた。
ネビュロスが横へしゃがむ。
「二人とも、ここにいてほしかったんだな」
エナが頷いた。
何度も、頷いた。
「お父さん、悪くない」
声が、喉で引っ掛かった。
カイは続きを言ってやろうとはしなかった。
「お母さんも。私、好きだった」
最後は泣き声になった。
リトが姉へしがみつく。
ネビュロスは二人の背へ手を添えた。
今度は、どちらも身を引かなかった。
カイは机へ手を置いていた。
答えを揃えさせるために使ってきた口で、自分が間違っていたと告げた。
その後に続く子供たちの言葉は、彼が教えたものではなかった。
*
しばらくして、エナが顔を上げた。
戸口にレクスがいた。
彼は廊下の人影を遠ざけ、部屋へ入らずに待っていた。
「あなたも、言わせたの?」
レクスは頷いた。
「俺は、嫌だと言う相手を押さえた。黙ったら従ったことにした」
リトが姉の後ろから彼を見る。
「怖くて、言えなかっただけでも?」
「ああ。俺がそうさせた」
レクスは拳を握りかけ、開いた。
「君が声を出せなかったことを、君のせいにはさせない」
リトの顔が歪んだ。
「僕、怖かった!」
レクスは動かなかった。
「お父ちゃんのとこ、行きたかった。でも、怖かったんだよ!」
「ああ」
リトは、戸口のレクスを睨んだ。
「僕、あなたも嫌い!」
声が教室へ響いた。
言ってしまったリトの肩が跳ね、姉の服を掴む。
レクスは頷いた。
「聞いた」
それだけだった。
叱られるのを待っていた少年が、顔を上げる。
「……怒らないの」
「怒らない。俺たちを好きにならなくていい」
カイも、頷いた。
許してほしいとも、今は違うとも言わなかった。
リトは姉の横へ戻った。
ネビュロスが差し出した布で顔を拭く。
エナも受け取り、鼻をかんだ。
レクスは廊下へ退いた。
扉は開けたままにした。
出たければ、いつでも出られた。
*
午後、ミナが星の本を持ってきた。
エナとリトが窓際へいるのを見て、同じ机へ置いた。
焼けた頁の間に、ネビュロスが書き足した紙が挟まっている。
「先生、まだ、ここがない」
最後の数枚が焼け落ちたところを指した。
ネビュロスは本を開いた。
「冬の星の続きだな」
「先生がいないと、誰も分からない」
ミナは彼の旅の鞄を見た。
「また、なくなるのは嫌」
ネビュロスの指が止まった。
十年前、煤を拭っていた小さな手を思い出す。
続きを覚えているなら、また書けるねと、彼女は言った。
その言葉に救われたのは、自分の方だった。
今も、続きのない本を抱えさせている。
「……今日、書き終えよう」
ミナが顔を上げた。
「帰ってからじゃなくて?」
「ああ。君に返すと約束した本だ」
ネビュロスは旅の資料を片づけた。
紙を広げ、筆を取る。
ミナは隣へ座った。
「私も書く」
「では、星の位置を頼む」
窓際の机に、三人分の紙が広がった。
ミナが写し、リトが本を押さえ、エナが線を引いた。
少し曲がると、リトが口を押さえる。
「笑っていいよ」
エナが言った。
「本当に、曲がったし」
リトが小さく笑った。
エナは線を消し、もう一度引いた。
ライガが戸口へ来た。
新しい紙を置こうとして、リトを見る。
少年は少し迷ってから、机の端を指した。
「そこ」
ライガは置き、部屋を出た。
余った紙と、綴じ直すための糸を捜しに行った。
*
夕方には、最後の頁が揃った。
ライガが持ってきた糸を、ネビュロスが穴へ通していく。
ミナは焼けた表紙を、新しい紙へ重ねた。
「これ、捨てないで」
「捨てない」
焦げた端も、煤の跡も、そのまま残した。
新しい頁を綴じ込むと、本は前より少し厚くなった。
ネビュロスは最後の糸を切り、ミナへ渡した。
「待たせた」
ミナは一枚ずつめくった。
最後まで文字と星が続いていた。
もう、焼けたところで終わらなかった。
「先生」
ネビュロスが顔を上げる。
ミナは本を抱えたまま、彼の袖に触れた。
「凍った時、寒かった」
「ああ」
「でも、この本、持ったままだった。起きた時も」
ネビュロスは目を伏せた。
「君が、離さなかった」
ミナが頷く。
それから、彼の指へ自分の指を重ねた。
ネビュロスは動かさなかった。
ミナの方が、そっと握った。
「今は、寒くない」
彼は手を握り返した。
強くしすぎないようにと思うと、指が震えた。
十年前、この手を温めてやれなかった。
今、掌の中にある体温を、彼は確かめていた。
「……ああ」
声が掠れた。
ミナは顔を覗き込もうとして、やめた。
本を抱いたまま、もう少しだけ手をつないでいた。
*
夜、ミナがグリムを窓際へ呼んだ。
「今から、教える」
「俺、星のことなんか知らんで」
「だから、教える」
グリムは椅子へ座った。
ネビュロスがいつも使う席には、ミナが立った。
最初の説明でつかえると、エナが本を指した。
リトも横から覗き込む。
「ここ。先生、こっちから読んでた」
ミナは読み直した。
窓の外へ指を伸ばし、星を一つ示す。
「あれ」
「……あれか」
「そう。それは覚えた?」
「一個なら、なんとかなるわ」
三人が笑った。
ネビュロスは教室の後ろに座っていた。
答えを求めて振り返るかと思ったが、ミナは次の頁へ進んだ。
間違えたら、エナが指した。
紙がめくれたら、リトが押さえた。
ネビュロスは開きかけていた魔導書を閉じた。
ただ、聞いた。
ライガが隣へ座る。
「先生の話し方に似てるな」
「私より、グリムの扱いがうまい」
ライガが笑った。
ネビュロスも、今度は笑った。
*
翌朝、出発の準備が整った。
兵士たちの療養と見張りは地元の担当者へ引き継ぎ、エルザが連絡を受け持つ。子供たちには、半年をともに過ごしてきた世話役がついていた。
夫のことを尋ねた女性へ、カイは調査を続ける連絡先を渡した。
レクスは村外の小屋を最後に確かめてから、車へ戻った。
ネビュロスは、エナとリトの前へ屈んだ。
「私は、君たちをここで暮らさせたくて、氷を解いた」
二人が彼を見る。
「だが、目覚めれば何を失ったかも思い出す。君たちが泣くたび、まだ解くべきではなかったのかと考えた」
リトの手が、エナの手を握った。
ネビュロスはそれを見た。
「それは、私が見ているのに耐えられなかっただけだ。君たちに、もう一度眠っていてほしいわけではない」
エナがゆっくり頷いた。
「私、リトと話したかった」
リトの目が姉へ向く。
「昨日も、おとといも。変なこと言いそうで、しゃべれなかったけど」
ネビュロスは頷いた。
「今は、その話ができる」
エナは弟の手を握り直した。
「お父さんのこと、また話す」
「うん」
リトが答えた。
ミナが本を抱えて来た。
昨夜と同じ場所へ栞を挟んでいる。
「帰ったら、どこまで覚えてるか聞くからね」
グリムが顔をしかめた。
「俺、試験されんのか」
「一個、覚えたって言った」
「分かった、分かった。忘れんわ」
ミナが笑った。
その横から、リトがネビュロスの袖を引いた。
「先生。僕、まだ怖い」
「ああ」
「でも、姉ちゃんに言う。怖いって」
ネビュロスは少年の頭へ手を伸ばしかけた。
リトが自分から近づき、腰へ抱きついた。
彼はその背を抱いた。
「行ってくる」
リトは服へ顔を押しつけ、頷いた。
エナも、ミナも、すぐには急かさなかった。
やがて少年が離れる。
エナが差し出した手を、今度は自分から握った。
カイとレクスは、車のそばで待っていた。
エナが二人を見た。
「まだ、好きじゃない」
カイが頷く。
レクスも、笑って済ませなかった。
「……でも、私たちが悪いんじゃないって、言ったのは覚えてる」
カイは彼女へ向き直った。
「ああ。それを、もう覆さない」
エナはそれ以上言わず、弟と教室の前へ戻った。
グリムが地図を広げる。
兵士の配属記録が示した、旧組織の実験施設。
ネビュロスはその印を見た。
エナにあの言葉を言わせ、ミナの本を焼き、リトの声を塞いだ者たちの出所だった。
「もう、ここの子供たちに答えさせることはない」
ネビュロスが言った。
「次は、向こうに答えさせる」
グリムが口の端を上げた。
「やっと、俺らの得意な方やな」
ライガが運転席へ座った。
車が動き出す。
窓の向こうで、ミナが本を高く上げた。
エナとリトが並んで手を振っていた。
ネビュロスは、三人に見えるよう手を上げた。
村が遠ざかってから、彼は地図を膝へ広げた。
道を指す手は、もう震えていなかった。
(7話へ続く)
第6話をお読みいただき、ありがとうございます。
フロスティア編はここで一区切りです。次回、三魔王たちは旧組織の実験施設へ踏み込みます。
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