第5部 第5話『その口で、何を話す』
【前回のあらすじ】
第六区の管理者を倒した三魔王は、そこが失踪者の帰る意思まで奪う再教育施設だったと知る。管理者と故郷を襲った兵士たちは、エルゴスの実験体だった。救出した人々の迎えを待つ間、ネビュロスは実験体の術式に、自分の魔導書と同じ記述を見つける。
※本作品の執筆にはAIを活用しています。
フロスティアへ着いた時、教室から笑い声が聞こえた。
ネビュロスは車の扉に手を置いたまま、その声を聞いていた。
「降りひんのか」
後ろからグリムに言われ、ようやく外へ出た。
朝、第六区を出るまで、リドラムからの迎えを待った。帰還者を引き渡しても、自分たちが同じ車へ乗ることはなかった。エルザとポルクは残る人々の世話を引き継ぐため施設に留まり、後から合流する。
眠った管理者と資料を積んだ二台は、日が傾く頃に北の村へ入った。
教室の戸が開く。
飛び出してきた子供が、ネビュロスの隣で足を止めた。
「……グリム?」
「おう」
少年は背伸びして、顔を覗き込んだ。
「口、開けて」
「なんでや」
「火が出るところ、見たい」
グリムはゆっくりと、ネビュロスへ顔を向けた。
「お前の生徒やな」
「そうだな」
「そうだ、ちゃうわ。誤解解いとけや!」
少年の後ろで、二人の子が笑った。
グリムは腰を屈め、少年の顔を見た。
「あの絵、お前か」
「見たの?」
「見たわ。俺だけ怪獣みたいに描きよって」
「強そうにしたんだよ」
少年は、少し心配そうになった。
グリムは鼻を鳴らした。
「ほな、次は顔も似せろ。よう見とけよ」
少年が笑った。
ネビュロスは、その笑顔から目を離せなかった。
この子が口を開かない日に、グリムの話をした。怒鳴りながら食事を作ること。傷だらけで帰ってきて、人の怪我を先に気にすること。自分の話では届かなかった声が、仲間の話なら届く日があった。
その仲間が、今、目の前で文句を言っている。
「先生も、笑ってる」
言われて、ネビュロスは口元へ手をやった。
「君の絵がよく似ていたのでな」
「似てへん言うとるやろ!」
また笑い声が上がった。
教室の窓には、顔を出さない子の影もあった。
ネビュロスはそちらへ一度目を向け、手を振るのはやめた。
*
荷物を下ろしていると、近くの家から女が出てきた。
温めた湯を入れた水差しを、セイジへ渡す。
「長い道だったでしょう」
「ありがとう」
女はネビュロスにも頷いた。
彼が受け取ろうと手を伸ばした時、指が触れた。
水差しが大きく揺れた。
「すまない」
ネビュロスが手を引く。
女はこぼれた湯を見て、首を振った。
「違うの。冷たかったから」
女は水差しの取っ手を握り直した。
「頭では、分かっているんだけど」
ネビュロスは頷いた。
何が、とは尋ねなかった。
女は彼の手を見ないようにして、家へ戻っていった。
少し離れた軒先で、男が椅子に座っていた。
その横の椅子にも座布団が敷かれている。誰も座っていなかった。
ネビュロスが会釈すると、男は顎を引いた。
「帰ったか」
「ああ」
「また出るのか」
ネビュロスは、すぐには答えられなかった。
男は教室の方を見た。
「そうか」
それだけ言って、膝へ目を落とした。
グリムは隣の空いた椅子を見たが、何も訊かなかった。
*
管理者を運び込む先には、眠った兵士たちがいた。
村の端にある石造りの倉庫だった。封印を解いた後、教室から遠いこの建物へ移している。
レクスとライガが寝台へ管理者を降ろす。カイは足元を支え、毛布の端を整えた。
ネビュロスは世話をしていた者たちへ、資料を持ち帰ったことを伝えた。
「目覚めさせる方法が見つかるかもしれない」
椅子が鳴った。
包帯を畳んでいた女が立っていた。
「起こすの?」
ネビュロスは頷いた。
「なぜ襲ったのか、本人たちに――」
「ここで?」
言葉が止まった。
女は、寝台の列を見渡した。
「眠っているから、布を替えられたのよ。顔を見ないで済むから」
握っていた包帯が、床へ落ちた。
女は拾わなかった。
「その人、うちの扉を蹴ったの。忘れた顔じゃない…」
隣の男が何か言おうとした。
女が振り向く。
「分かってる。殺してくれなんて言ってない。でも、目を開けて、またこっちを見たら――」
その先が出てこなかった。
入口から、別の声がした。
「先生。俺はあんたに助けられたと思ってる」
軒先にいた男だった。
杖へ体重を掛け、倉庫の中を見ていた。
「女房は死んだままだが、俺は目を覚ました。あんたが凍らせなけりゃ、俺も死んでた」
ネビュロスが男へ向き直った。
「だが、次に誰が起きるかって話を、俺たちは後で聞くのか」
男の目が、寝台へ動いた。
「あの日から、気がついたら十年過ぎていた」
ネビュロスは本を持ち直した。
説明すべきことは幾つもあった。襲撃者が造られた兵士だったこと。命令を止めても意識が戻らなかったこと。その仕組みを調べれば、先へ進めること。
だが、女はその間も寝台から顔を背けていた。
「……先に、君たちへ話すべきだった…すまない」
男は頷かなかった。
ネビュロスは資料を閉じた。
「ここでは起こさない」
レクスが彼を見た。
「どこへ運ぶ」
「村の外だ。場所を借りられるか、確かめる」
女はようやく息を吐いた。
ネビュロスへ礼は言わなかった。
彼も求めなかった。
*
レクスは床の包帯を拾った。
泥のついた部分を畳み込む。女はまだ、寝台を見ないようにしていた。
「すまない。代わりの布は、どこにある」
女は棚を指した。
レクスは新しい布を取り、台へ置いた。
礼はなかった。それでよかった。
「兵士を運ぶ。今日は起こさない」
ネビュロスの言葉に、世話役たちがようやく動き始めた。
レクスが寝台の横へ回ると、杖の男がその胸を見た。
「お前も、兵士か」
レクスは立ち止まった。
男の目が服から顔へ上がる。
「ジャスティスフェイスとかいう……」
「そうだ。名前はレクスと言う…」
男の杖が、床を突いた。
「そうか。仲間なら、助けたいだろうな」
レクスは寝台から手を離した。
「こいつらとは、会ったことがない」
「なら違うと?」
男の声が荒くなった。
「俺たちに区別がつくと思うか。何て名前の組織だったか、どの兵士だったか、全部覚えていないと怒ることもできんのか」
レクスの指が、寝台の縁を掴んだ。
言い返そうとした言葉は、すぐ出てきた。
ここを襲ったのは自分ではない。
それを言った後、この男はどうすればいいのか。
「……違わない」
男は彼を睨んでいた。
「俺も、同じように人の家へ踏み込んだ。従わない理由は聞かなかった」
レクスは顔を上げた。
「だが、こいつを生かす理由を、お前に納得してもらえるとは思わない」
「なら、どうする」
「俺が運ぶ。目覚めた後も見張る。この村へ戻さない」
男はしばらく黙っていた。
「できることだけ言え」
レクスは頷いた。
寝台へ掛ける布を取りに、棚へ戻った。
*
村の外の荷置き小屋を使わせてもらえると分かった。
ライガとセイジが中を片づけに向かい、レクスはカイと運搬用の板を用意した。
持ち帰った管理者と、最初に目覚めさせる兵士を運ぶ。他の者は、まだ眠らせておく。
カイは板の端を布で拭いていた。
向こうで、ネビュロスが世話役と話している。
「実験体だったと、伝えなくてよかったのか」
カイが声を落とした。
レクスは手を止めずに答えた。
「それを聞けば、楽になるのか」
「そういう意味ではない。本人の意思でなければ――」
「俺たちは?」
布が止まった。
カイが彼を見る。
「俺たちは、自分で決めて人を殺した」
カイの手元で、布が皺になった。
「……そうだな」
レクスは大きく息を吐いた。
「こいつらには別の事情がある。それは調べる。だが、それを俺たちの口から言って、あの人に怒るなとは言えない」
「怒るなとは――」
言いかけたカイは、口を閉じた。
自分が教えた再教育も、人の怒りに理由を与え、その理由ごと取り除くものだった。
事情を説明すれば、こちらの見方へ近づくはずだと考えていた。
板の角へ、ささくれが残っていた。
カイは布を外し、それを削った。
「反論を、先に探していた」
レクスは答えず、もう一枚の板を持ってきた。
カイも手を動かした。
*
荷物を受け取るため、包帯を畳んでいた女が戻ってきた。
カイが戸口を空ける。
女は台の上から記録帳を取り、その横に置かれた名簿を見た。
「名前はないのね」
番号が並んでいた。
「施設では、そう記録されていた」
カイが答えると、女は一枚だけ頁をめくった。
「うちへ来た男は、自分の名前なんか言わなかった。夫の名前は呼んだのに」
カイは女の手元を見た。
「私は、名簿を渡せば間違いなく処置できると思っていた」
女が顔を上げた。
「誰を?」
答えようとして、カイは止まった。
反逆者。不適格者。再教育対象。
いずれも、自分がつけた名だった。
「私の命令に、従わない者を」
女は帳簿を抱えた。
「じゃあ、夫と同じね」
カイは頷いた。
言葉を続けられなかった。
女は戸口へ向かったが、そこで一度振り返った。
「目が覚めたら、あの家に誰が住んでいたか、聞いて。覚えているのか、聞いてほしい」
「……分かった」
「私が会いに行くとは、言ってないから」
「会わせない。答えを、私から伝える」
女が出ていった。
カイは、家の場所をまだ聞いていないことに気づいた。
追いかけようとしたが、戸口で止まった。女は片手で顔を覆っていた。
カイはその背を見送り、机へ戻った。
紙を出す。
聞かなければならないことを書いた。自分が知りたいことの上に、女から頼まれた問いを置いた。
*
小屋への移送が終わる頃、教室から子供たちが出てきた。
グリムを囲み、手を見せろ、炎を出せと騒いでいる。
ライガは少し離れた井戸のそばで、水桶を下ろした。
家の陰に、リトがいた。
みんなを見ているが、近づこうとはしない。
ライガが目を向けると、少年は肩を引いた。
「ここへ置いてもいいか」
ライガは桶を指した。
リトが頷く。
桶を置いてから、少し離れた石段へ腰を下ろした。
「君も、絵を描いたのか」
返事はなかった。
ライガはそれ以上訊かず、グリムたちへ顔を戻した。
「赤い人も、火が出るの?」
小さな声がした。
「出るよ」
リトの手が、壁の角を掴んだ。
「今は出さない」
ライガは両手を膝に置いた。
少年はその手を見ていた。
「……本、燃やす?」
ライガの指が動いた。
あの村の屋根を、炎が走った。
その中に何があったのか、確かめもせずに命令を続けた。
「ここでは、燃やさないさ」
リトは頷かなかった。
ライガも、信じてくれとは言えなかった。
井戸の横に積まれていた本の箱を指す。
「これ、教室へ運ぶものか」
今度は、小さく頷いた。
ライガは立ち上がり、箱を持った。
扉が狭く、縁をぶつけそうになる。持ち直してゆっくり通った。
リトは家の陰から、それを見ていた。
*
夜、村外れの小屋で兵士が一人、目を覚ました。
術式の確認は、昼のうちに済んでいた。
グリムが命令の残る線へ白炎を当て、ネビュロスが閉じられた意識を戻す。暴れた腕をレクスが受け、ライガが寝台を支えた。
「抵抗する者は、処分――」
男の口から出た声に、レクスの顔が強張った。
同じ言葉で、誰かの訴えを打ち切ったことがあった。
黙れ、と言いかけ、歯を食いしばる。
「押さえている。続けてくれ」
ネビュロスの指も震えていた。
やがて胸の輪がほどけ、男の身体から力が抜けた。
「……いたい」
レクスが腕を緩める。
それでも、しばらく目を離せなかった。
男の声は、もう教義を繰り返していなかった。
カイが椅子を引いた。
「命令を、ください」
男が彼へ言った。
カイは持っていた紙を伏せた。
「何が要る」
返事が来るまで待った。
待つ間、男が唇を動かすたび、続きを言ってやりたくなった。
「水」
カイは立ち上がった。
杯を満たして戻り、一口ずつ飲ませた。
問いを書いた紙は、その夜は開かなかった。
*
小屋の見張りをレクスとライガに任せ、ネビュロスは村へ戻った。
世話役の女が、教室の前で待っていた。
「エナが、食べられなくて」
ネビュロスは本を鞄へしまった。
世話役について、二人の暮らす家へ向かう。
エナの椀には、手がつけられていなかった。
リトも食べずに、姉の隣へ座っている。
「入ってもいいか」
リトが小さく頷いた。
ネビュロスは向かいの椅子へ座った。
「兵士のことを、聞いたのか」
エナの肩が動いた。
「村の外にいる。ここへは来させない」
彼女は唇を噛んだ。
リトが、姉の袖へ手を伸ばした。
「私、ちゃんと言えるよ」
エナが言った。
「……何をだ」
両手が、膝の上に揃った。
「私の両親は、反逆者です」
ネビュロスの背が強張った。
リトの手が止まっていた。
「反逆者は――」
「言わなくていい」
エナが息を止めた。
声を強くしてしまったことに気づき、ネビュロスは腰を浮かせかけた身体を椅子へ戻した。
「もう、続きを言わなくていい」
「忘れてないの」
エナの声が崩れた。
「忘れたいのに、全部言える」
リトの顔を見て、彼女は口を押さえた。
「違う。今の、違うから」
リトは何度も頷いた。
だが、顔を上げられなかった。
「……姉ちゃんの声だから」
ネビュロスは膝の上で手を握った。
兵士の中から命令を取り除いた時と、同じ手だった。
ここでは、何に触れればいいのか分からなかった。
エナの椀は冷めていた。
リトの分も、同じように。
ネビュロスは外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
今夜は、ここにいる。
そのことだけを決めて、二人の向かいへ座り直した。
(6話へ続く)
第5話をお読みいただき、ありがとうございます。
フロスティア編は、次回へ続きます。
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